第13話 陽のあたるクレープ屋

「チョコとバナナのやつ、ください」


 売値ちょうどとなる小銭をカウンターに置いてから、水色のパーカーを着た幼い少女はそう注文した。五月も終わりかけの日曜日のことだ。

 時刻は九時二分。週末とはいえ開店早々にお客さんが来るなんて珍しいな、とスマートフォンで欧州サッカーの試合結果をチェックしていた布施剛久は思う。

 ちなみに誰も彼を本名では呼んでくれない。子供たちからつけられた「ホセ」なる愛称が、いまやすっかりこの地域一帯に浸透してしまっていたからだ。それでも三年前にオープンしたこの店の名前を「〈ホセおじさんの店〉にしようぜ」という案には頑として反対した。そういえばあれを言っていたのは誰だったか。

 〈サニーサイド〉、それがホセの営む小さなクレープ屋の名前だった。古びたアパートの一階、以前はたこ焼き屋が入居していた三坪ほどの狭いスペースだ。それでも店名には、自分の焼いたクレープを食べてみんながお日さまのような笑顔になってほしい、ホセのそんな願いが込められていた。


「チョコバナナだね。お嬢ちゃん、すぐに焼きあがるからそこの椅子で待ってな」


 店先にはクレープを焼いている間、客が座って待てるようにと背もたれのないパイプ製の椅子を五脚置いてある。その全部が埋まったことはまだないのだが。

 けれども少女は首を小さく横に振った。


「焼いているところを見たい」


 これには店名が刺繍されたエプロンをつけたホセもぐっときた。プロのフットボーラーだった彼としては、やはり観客がいる舞台というのはテンションが上がる。


「よしわかった。そのままじゃ見えにくいだろうから、靴を脱いでそこの椅子に上がったらいい。倒れないように気をつけるんだよ」


 言われた通り、少女は行儀よく靴を脱いでおそるおそる椅子の上に立った。受け渡しカウンターの縁をしっかりとつかみ、目を輝かせてホセの手元を覗きこんでくる。

 彼女のそんな姿を見て、不意にホセには別の少女のことが思い出された。ホセのライフワークである鬼島少年少女蹴球団、そのなかでもひと際目映い才能の煌めきを放っていた片倉凜奈のことを。

 怪我のせいで短期間ではあったものの、かつてJリーグで活躍したホセが披露するテクニックに凜奈も同じような感じで反応していたのだ。

 ああ、あの子もこんな目をしていたっけな。遠く過ぎ去ってしまった、懐かしいとしてしまうにはあまりに切ない日々の記憶に、ホセの涙腺はつい緩んでしまう。

 そんなホセに少女が言った。


「おじさん、泣いてるの?」


 子供は大人の感情の揺れにはとても鋭敏だ。そのことはホセはよく知っている。


「お嬢ちゃんみたいな子が、おじさんのクレープに興味を持ってくれたのがうれしくてねえ」


 ヘラを握っていない左手の甲で大げさな泣き真似をしてどうにかごまかした。

 鉄板に薄く広げていたクレープが焼きあがる。まだ熱いうちに手際よく生クリーム、チョコレートソース、それにスライスしたバナナを包んでいく。そして最後にチョコレートのアイスクリームを乗せた。とびきり濃厚なやつだ。


「よっしゃ完成!」


 ホセの宣言に合わせて少女が拍手をくれたのだが、そのせいで彼女は椅子の上でバランスを崩してしまった。

 まずい、とホセは慌てて手を伸ばす。けれどもそれより早く少女の体は、音もなく動いていた背の高い少年の手によって支えられた。


「チョコバナナもいいけど、ここはストロベリーもかなりいけるよ」


 にっこりと微笑んでいるのはホセのかつての教え子、トレーニングウェア姿の榛名暁平だった。相変わらず絵になる男だ、と二回りも年の離れたホセは素直に感嘆する。

 ありがとう、とお礼を言って少女はゆっくり慎重に椅子から下りた。


「今度はお兄ちゃんのおすすめにしてみる」


 そう言いながらホセからできたてのクレープを受け取った。

 大事そうにクレープを両手で握った少女が小走りで去っていくのを、ホセは店の中から笑顔で見送る。彼女の背中で水色のフードがひょこひょこ揺れていた。

 いつもより優しげな表情をした暁平に話しかけたのはそれからだ。


「おまえ、来てたなら声くらいかけろ」


「いやあ、あの子の顔を見てたら何だかそっとしておきたくなって。だからわざわざいちばん端っこに座ってたのよ。あの椅子、野良猫以外ではもしかしておれが初めて座ったんじゃない?」

 その気持ちはわかる。だが後半部分は余計だ、とホセは苦い顔になる。


「おっと、お客さん相手にそんな態度でいいのかな。てことでいつものオーダーを」


「ストロベリー、ミックスベリー、抹茶、キャラメル。この四つでいいのか?」


「そうそう」


「アイスはどうする? 持ち帰りだとあの階段を上っている間に溶けてしまうぞ」


「そのままでいいよ。たとえ溶けても、じゃんけんで負けたからっておれに買いにこさせたあいつらの責任だ」


「バカ野郎、おれは美味しいクレープを食べてほしいんだ。アイスだけ別にして保冷剤もつけておくから、帰ったら自分たちでのっけろ」


 プロ意識たけえ、と暁平が軽口を叩いてくる。

 その姿は大人と呼ぶにはまだ早いが、もう子供でもない。大きくなったな、とホセは改めて思う。あの日、身も世もなく泣き崩れていた少年が、階段を一段飛ばしで駆けあがっていくように成長していく。独り身で子供のいないホセにとって、それは喜びであると同時に寂しくもあった。

 また胸が詰まってしまった彼の顔を暁平が心配そうにそっとうかがう。


「ホセ、具合でも悪いの? 何だかいつもと感じが違う」


 こうやって大人みたいな気遣いもしてくるのだ。

 いかんな、とホセは自らを反省する。

 昔のようにただ他愛ないやり取りをしているだけにもかかわらず、今日はやけにノスタルジーをかきたてられて仕方なかった。


「いつもどおりさ。ほら、おとなしく待ってろ」


 そんなホセの言葉に暁平は素直に「うん、わかった」と頷く。

 けれども彼が腰を下ろす前に次の客がやってきた。今日は朝から千客万来だ。


「やあ榛名、おはよう。君も練習前に甘いものが食べたくなったのかい? それにしても一人なのは珍しいな」


 手をあげてそう挨拶をしてきたのは鬼島中学サッカー部の顧問、貝原俊作だった。市内にあるデパートの紙袋を提げた貝原は、ホセにも「おはようございます」とお辞儀をする。


「お借りしていたDVDを返しがてら、布施さんのクレープをいただきに来ました。今日は黒胡麻にしようかと――」


「DVDって先生、エロいやつか!」


 貝原が口にしたDVDという単語に、男子中学生である暁平は過剰な反応をみせた。さすがにこれは仕方ない。

 だが一方の貝原も笑って流せばいいものを、挙動不審なくらい力いっぱい「違う、断じて違うぞ! 違うからな!」と否定しているせいでむしろ暁平の疑念は強まっていることだろう。

 やれやれ、とため息をついたホセは、鉄板に新しいクレープの種を広げながら「サッカーのに決まってるだろうが」と助け舟を出してやる。

 実際、ホセからみても貝原は相当の勉強家だった。今回貸していたのは欧州で「これは面白い」と唸らせるチームの試合集だ。そういった映像での最新戦術の理解に加え、さらには日帰りであちこちのJリーグクラブユースの練習を見学しに出向いている。もちろん貝原の自費で。

 彼ならサッカーの経験がなくともいい指導者になれるだろう、という確信がホセにはあった。勉強熱心で、なにより子供たちへの愛情がある。こういう人にならホセとしても安心して暁平たちを任せられるというものだ。


 ホセは三十路を前にして現役を退いたあと、指導者の道を志し海外各地を転々としていた。東南アジア、西ヨーロッパ、バルカン半島、北アフリカ、そして南米諸国。サッカーボールひとつあれば世界じゅうのどこでもコミュニケーションがとれた。

 常にサッカーがある生活のなかで「若い世代をどう育てていくか」という命題とひたすらホセは向きあい続けた。その人生をかけた問いへの、道半ばではあるが出した答えが鬼島少年少女蹴球団だったのだ。

 小学生の年代はいわゆるゴールデン・エイジにあたる。それまで未修得の動作を難なく吸収し、その動作に対応する神経回路のようなものが形成されていく。そういう誰にでもおとずれる「天才」の時期に鍛えるべきは一にも二にも技術、それがホセの打ちだした指導方針だった。

 自分の技術をすべて伝え、考え抜くことを伝え、最後まであきらめない闘争心を伝えた子供たちがあっという間に想像をはるかに超えて伸びていく。まさにその伸びていく瞬間をすぐ近くで見守っていられるのは、ホセにとってまぎれもない喜びだ。

 今、ホセの目の前にいる少年は、そんな宝石のような子供たちのなかにあってなお強すぎるほどの光に満ちた才能だった。片倉凜奈と同様に。


「じゃあホセ、次おれが借りてもいい?」


 そう訊ねてくる暁平に、ホセは「ちゃんと観たかどうか、あとでテストするからな」と許可を出す。

 やった、と無邪気に笑う年相応なその姿は、グラウンドにおいてはすべてをねじ伏せようとする彼からほど遠い。

 暁平や凜奈たちはすでに厳しすぎるほどの試練に直面した。願わくば、彼らの行く末には幸多からんことを。気まぐれなサッカーの神にホセは祈る。

 そんな己の心情を押し隠すように、鉄板の上に広がった五枚のクレープ生地の焼き加減を丁寧に確認していく。


「底にはガムテープを貼ってあるから抜けたりはしないぞ」


 カウンターの外では、きっとこれから先の暁平たちの助けとなってくれるであろう貝原が、ぎっしりとDVDが詰まった紙袋をそのまま手渡ししていた。

 その際に質問を添えて。


「なあ榛名、世界のトップ選手たちのプレーを見ているうちに気づいたんだが」


 前置きしてから貝原は続けた。


「ぼくみたいな素人の目から見ても榛名はずば抜けて巧い。のみならずフィールドを俯瞰しているんじゃないかってプレーぶりだ。なのにどうしてきみがディフェンスのポジションなんだい? もちろん守備の重要性はちゃんと認識しているよ。でもきみの適性はもっと前の位置だと思うんだけど、どうだろう」


 暁平の体格は同年代の選手と比べてはるかに恵まれている、それは事実だ。

 だが彼の才能をきちんと評価できる目を持っていれば、いずれ貝原と同じ疑問に行き着くことになる。いわば通過儀礼のようなものだ。

 かつてのホセがそうだったように。


「おまえはクライフになれる」


 それが暁平に対するホセの口説き文句だった。

 1974年のワールドカップ。トータルフットボールと称賛され、恐れられたのが当時のオランダ代表だった。ポジションを入れ替えながら全員で守り、全員で攻撃する。分業が当然だった時代に忽然と現れた未来的なサッカー、その中心にいたのが空飛ぶオランダ人と呼ばれたヨハン・クライフだ。

 一口に「ポジションチェンジをしながらの全員守備と全員攻撃」と言ってしまうのは容易いが、それはすなわちピッチ上の混沌を意味した。刻一刻と動く試合のなか、瞬時にゴールを解とした道程を導きだし、整然とした秩序へと変える。いわばフィールドの指揮者としての役割を担っていたのがクライフだった。フォワードとしての得点能力も傑出していたが、それ以上にゲームを支配するリーダーとして彼は時代に君臨した。

 小学生の年代ならまずほとんどの子供が攻撃的なポジションをやりたがる。そこを性格や技術、体格などの適性を見極めて、それぞれの子に合った役割を与えていくのがホセのチーム作りにおける最初の一歩だ。

 小学四年生にしてすでに蹴球団の中心だった暁平は攻撃面でも有り余る才能を発揮していたが、当の本人はなぜかディフェンスにばかり関心を示していた。

 そんな彼に一度だけ、ホセ秘蔵のクライフのプレー集を見せて「現代のクライフになってみろ」と説得したことがあった。

 そのときの暁平の返事は今でも忘れることができない。


「きれいなシュート、泥臭いシュート、どんな形でもゴールはすべて美しいと思う。だからこそ、それを防ぐって行為が花を咲かせる前に握り潰してしまうようでぞくぞくするんだ。ディフェンスのそんな野蛮さがおれにとってはたまらなく格好いいんだ」


 暁平クラスの逸材には、長生きすればあと一度くらいなら巡りあえるかもしれない。けれどもこんな感性を持ちあわせた十歳の少年はあまりに異質だ。

 それっきり、ホセが暁平にクライフの名を出すことはなかった。


「先生よ、そこのキョウヘイは守備が好きで好きで仕方ないって変わり者なんだ」


 目線は上げずに答えたホセに、暁平も短く応じる。


「そういうこと。おれの性に合ってるんだろうね」


 二人からの返事はどうやら貝原を安心させたようだった。


「そうか、それならいいんだ。てっきりぼくは、榛名が気持ちを押し殺して、どこに自分を置けばチームが機能するかを考えてのことじゃないかなって思ったんだ」


「そんな殊勝なタイプじゃないっての」


 杞憂だとばかりに暁平は笑い飛ばした。だが、ホセにしてみれば貝原の心配は無理もないように思える。

 周りが見えすぎるというのはだいたいの場合において悲劇的だ。

 飛び抜けた才能を持ちあわせたがゆえなのか、暁平からは「自分が周りを守らなければならないのだ」、そんな気負いを感じることが多々ある。

 頼もしさと危うさと、相反する要素を過剰に抱えた少年は、ホセのもどかしい思いなど知る由もなくのんきに店名の描かれた看板を指さして貝原に言った。


「そういえばおれさ、いまだに〈サニーサイド〉ってのがしっくりこないんだよ。やっぱり〈ホセおじさんの店〉がシンプルかつ親しみやすいんじゃないかな」


 おまえだったか、とホセは内心で苦笑する。

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