第8話 クロッシング・オーバー〈3〉
五限目が始まっても、暁平はどこか気持ちがざわついたままだった。まだ自分はミスをしているのではないのか。そんな不安をどうにも拭えない。
じっと座っていることに我慢の限界を感じた暁平は衝動的に立ちあがってしまい、そんな彼を数学教師が見咎める。
「おい、どうした榛名。授業中だぞ」
「やー、すんません。ちょっと催しちまったんで」
やれやれ、と教師は首を振りながら「早くすませて戻ってこい」と許可を出した。
「どーも」
へらへら笑いながら教室を出ていくが、しかしその笑顔はすぐにかき消えた。
いやな予感ほどよく当たるということを、暁平は一年前の夏に身をもって理解している。すでに現在の状況はひどいものだが、さらにその底が抜けるかもしれない。
どう動くべきか思案しながら形だけトイレに向かって歩いていた暁平だったが、久我のクラスの前を通りがかったときに、自分のその予感が現実のものになりつつあるのを悟らざるをえなかった。いつもの席に久我がいないのだ。
あいつは教室に戻ってきていない。
どこにいる、と考えるよりも早く暁平の足は廊下を蹴って駆けだした。そして走りながら必死で頭を回転させる。しかし手がかりはまるで足りていない。
気がつけば暁平はまた昼休みと同じく四階へとやってきていた。無策ではあったが仕方なく、久我がいそうなところを上の階から順に片っ端から捜していこうと決めた。
昼休みのときに使った教室から、久我が出ていった方向へと足取りをたどっていく。途中、普段は使うことのない屋上へと繋がっている階段の前を通る。階段を上がった先の扉はわずかに開いており、その隙間から夏を思わせるようなきつい日差しが薄暗い踊り場の影を無遠慮に割っている。
足を止めた暁平は、ゆっくりと深呼吸をしながら階段を上りはじめた。扉に近づくにつれ、かすかな物音が聞こえてくるようになった。
力を込めてノブに左手を掛け、そのまま手前に引く。
最初に目にしたのは、誰かの上に馬乗りになった久我がこれでもかとばかりに顔面へ拳を打ちつけている、そんな光景だった。
状況を理解する余裕もなく暁平の体は動いていた。
「クガっちやめろ! 殺す気か!」
マウントポジションの久我を突き飛ばすようにして暁平は二人の間に割って入り、どうにか互いを引き離す。
少しよろめいた久我の顔はすっかり紅潮しており、息も荒い。
「ああ、キョウか。どうした、もうあらかた片づいたぞ」
まぶたの上を切ったのか、しきりにシャツの袖で血を拭いながら、久我はあごをしゃくって言った。
「それ、衛田だ」
衛田らしき生徒はコンクリートの床に大の字になったまま、まだ起き上がらない。白いシャツには血が飛び散り、頬や口元は赤く腫れあがっている。
慌てて暁平は衛田の顔を覗きこんだ。どうやら意識はあるみたいだが、目の焦点は定まっていなかった。
暁平はきつい視線を久我へと向けた。
「どういうつもりだ、これは」
「どうもこうもねえだろ。自分の罪深さをそいつの体に教えてやっただけのことじゃねえか」
まるで悪びれることなく、己の手柄を自慢するような久我の口調だった。
その態度にかっとなった暁平は、思わず久我の胸倉をつかんでしまう。力任せに久我を自分のほうへと引き寄せ、息がかかるほどの距離まで顔を近づけた。
「バカかてめえは。こんなことしでかしたら出場辞退はおろか、廃部だってありえるってのがわからないのか」
詰る暁平の言葉に、不満げな久我は黙ったままで眼光を険しくしている。
「おい、何とか言えよ」
「うるせえな。おまえこそ何だよこの手は」
予想していなかった反応に、わずかにつかむ力を緩めてしまった暁平の胸を久我が強く押した。不意を突かれた暁平は手を放して後ろへと倒れそうになったが、すんでのところで何とか踏みとどまった。
目の前にいるのが自分のよく知っているあの久我なのか、もう暁平には確信が持てなくなっていた。
「おまえ、本当にどうしちまったんだよ」
静かに暁平は訊ねる。
そのとき「うう……」とかすれた声で唸りながら、暁平と久我の近くに横たわっていた衛田が徐々に体を起こしはじめた。緩慢な動作ではあったが、彼が自力で動きだしたことに暁平は少なからず安堵した。
だが次の瞬間、本来は得点を決めるためのものである久我の右足が炸裂した。
無防備だった衛田は後ろから脇腹に強烈な蹴りを入れられ、赤く濁った泡を吹きながら再びコンクリートの床の上でうずくまる。
暁平の問いに対する答えとしては充分すぎた。
「もう、いい。よくわかった」
すうっ、と暁平は自分の心が冷えていくのを感じた。
「おれの前から消えろ」
久我の目を見ることなく、感情のこもらない平坦な調子の言葉を吐いた。それは決して仲間に言うはずのない言葉だったのに。
「お望みならばそうするさ」
本心からなのか、強がりからなのか。薄ら笑いを浮かべて久我は歩きだし、暁平のすぐ横を通る。その際に聞こえてきたのは久我なりの別れの挨拶だった。
「ま、せいぜい勝ち続けろよ。見ていてやるから」
離れていく彼の背中に暁平は声をかけようとして、しかし結局できなかった。
甲高い音をたてて扉が閉まり、久我の姿は消えてしまう。とてもよく晴れた空の下で暁平は衛田と二人、投げだされたようにそこにいた。
そんな彼に、聞き覚えのない声が降ってくる。
「やれやれ、どうしてそうなっちまうのかね。おまえら不器用にも程があるぞ」
暁平は衛田のほうを振り返るが、彼ではない。どうにか顔をあげた衛田の視線は、扉の近くに取りつけられてある梯子を上った先に向けられていた。彼の視線を追った暁平はそこに一人の男子生徒がいるのを知る。
先ほどまでまったく存在を気づかせなかった彼は貯水槽のパイプをつかんで立ちあがり、梯子を使わずそのまま飛び降りた。
どん、という衝撃音とともに着地した彼は痛がる素振りも見せず、悠然と暁平と衛田のいるところへと近づいてきた。間近で目にするその体格のよさは暁平以上だ。
警戒する暁平に対しておかまいなしに「おう」とその大男は片手をあげた。
「おまえが榛名暁平だな。二年生の間でも有名だぞ、よくも悪くも」
「――すまないがおれはあんたを知らない」
「え、そうなの? おれのこと、榛名悠里から何か聞いたりしてないのか?」
「いや、まったく」
鬼島中学には近隣の三つの小学校が合流するのだ、暁平が一学年上の生徒を知らなくとも不思議はない。
なぜかがっかりした様子の大男だったが、気を取り直して言葉を続ける。
「んじゃまあ、しょうがない。まずは自己紹介からといくか。おれは四ノ宮亮輔。こんなにやられて血まみれになってる衛田令司の昔からの連れだ」
そう言いながら大男、四ノ宮亮輔は衛田に手を貸して体を起こしてやる。
「……いてえよ……もっと、やさしくたのむ」
「女の子みたいなこと言ってんじゃないよ。ほれ、しゃきっとしやがれ」
四ノ宮の大きな手で背中を軽く叩かれた衛田が、咳きこんだついでに血が混じった唾を床へ吐く。
「なんで、助けなかったんだ」
「んー?」
「2対1ならそこの衛田がそんなにやられることはなかったはずだ。むしろボロボロにされてたのはきっとクガっちのほうだろう。あんた、昔からの仲間だってんならどうして助けないのかと聞いてるんだよ」
もし同じ立場だったなら、暁平には助けないなどという選択肢は存在しない。
しかし四ノ宮から返ってきたのは思わぬ理由だった。
「そしたらレイジが困るだろ」
さも当然のごとく彼は言う。
「考えてみろ。もしさっきのあいつがやられてたら、おまえどうする。間違いなくおれやレイジに報復しようとするはずだ。そしてレイジがおまえらとともにサッカーをやる機会は永遠に巡ってこないだろうよ」
「おれたちとサッカーって、それってどういう……」
「まんまだよ、まんま。こいつも素直になれんやつだからなあ。本当はおまえらみたいなサッカーバカなのに、部に幻滅してアホな連中と退屈しのぎにつるんで、あげく部がまともになっても練習に戻りたいと言いだせないうちにこんなことになっちまった」
恨みがましい目をして「……よけいなことを」と呟いた衛田はまるで相手にされずに「な、素直じゃないだろ」とマイペースな四ノ宮はなおも話を続けた。
「しかしレイジだけじゃなく、おまえらもそうだったみたいだな。まったくどいつもこいつもガキったらありゃしない」
「あ?」
「あ、じゃねえよ。何でおまえ、さっきの元気なバカ野郎に突き放すようなことを言ったんだ。あれじゃああいつも先に詫びは入れられねえだろ」
「ちっ。あんたには関係ないよ」
「そうかい」
四ノ宮はよいしょ、と声に出して衛田を背中に担ぎあげた。
「何にせよ、すまなかったな。とりあえずは今から病院に行くが、いずれきちんとこいつの口からも謝らせる。それで勘弁してくれ」
そう言って四ノ宮が短く刈りこんだ頭を下げる。暁平の目には、四ノ宮にあわせて衛田もわずかに礼をしたように見えた。
何も答えず黙ったまま暁平は二人を見送り、とうとう一人きりになった。
◇
この翌日、体のあちこちに包帯を巻かれた衛田がサッカー部員の前で謝罪した。
そもそも彼は今回のカツアゲ事件とは無関係だったと後でわかるのだが、そんな言い訳は一切することなく、出場辞退に至ったことへの許しを乞うとともに、今後の練習参加を希望する旨をあわせて伝えた。
「おれは、おまえたちとサッカーがしたい」
はっきりと彼はそう口にしたのだ。
納得がいかない様子の部員もやはりいたものの、暁平が「今後の練習の態度で判断すればいい」とささやかな後押しをしたことで、条件付きながらも衛田の実質的な部への復帰が決まった。
来る者あれば去る者あり。衛田をはじめとする数人に校内で暴力行為を働いた久我は停学処分となり、その処分が明ける前に彼は転校してしまう。
姫ヶ瀬FCは以前から暁平同様、久我のゴールゲッターとしての能力を高く評価していた。その久我が暴力事件を起こしたと知るやいなや、彼らはさっそくスカウトに動いたのだ。普通のチームならむしろ問題児として敬遠するのだろうが、さすがに本気で世界一を目指すチームは貪欲というほかない。
こうして久我は姫ヶ瀬FCが敷地内で運営する寮に住まうこととなり、暁平たちに何も告げることなく鬼島地区から出ていってしまった。
ボタンの掛け違いというにはあまりに寂しい結末だ。
凜奈にだって内緒にしておくわけにはいかないだろう、ということで悠里に頼んで簡潔に事実だけを伝えてもらった。やはりというか、返ってきた手紙には必要以上の感傷を込めまいと「残念です」とのみ触れられていた。
けれども暁平には、そのたった一言が「わたしが愛したあのチームはもうどこにもなくなってしまったのだ」という叫びにきこえてならなかった。
そう、10番もエースストライカーももういない。
無邪気にフットボールがみせる夢を追っていた少年たちもいない。いる必要もない。ここにいるのは、息苦しいまでに勝利を目指すリアリストでなければならないのだ。
頼りになるスコアラーが抜けた穴は大きかったが、鬼島中学のメンバーは蹴球団時代の恩師であるホセの力も借りつつ攻撃陣を整備してきた。サッカーについては素人だった顧問の貝原はホセと親しくなり、個人的に彼から様々なコーチング技術を学んでいる。まずは日本サッカー協会認定の指導者ライセンス、その入門にあたるD級を取得した。
「なるべく早くC級も取る。もしS級までたどり着いたら貝原ジャパンだって夢じゃないんだぞ」
まったくの冗談かと思いきや、その表情は意外なほど真剣だった。これほどの熱意を持って自分たちと接してくれる貝原にはさすがの暁平も頭が上がらない。
衛田はといえば寡黙に、そして真剣に練習に取り組むことで徐々にチームメイトからの信頼を得ていった。そしてこの春にはひとつ年下の要や五味らが入学する。
たとえ親しい仲間が自分の元から去っていっても、暁平に立ち止まるつもりはなかった。大事なのは勝つこと、勝つことは前に進むこと、前に進めなければ自分たちに価値などない。そう信じて。
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