第7話 クロッシング・オーバー〈2〉
どうして誰も動こうとしない。けじめはつけさせるべきだ。
早足で廊下を歩きながら久我は血が逆流していくような感覚に囚われていた。
久我にとって、暁平こそが彼をサッカーへと導いてくれた、いわば恩人といっていいほどの存在だった。
両親の離婚によって久我が母とともに鬼島へとやってきたのは小学四年途中のことだ。誰一人友達のいない町で彼はすっかりふて腐れていた。クラスに馴染もうとせず、けんかっ早く、寂しさと退屈さに流されて心が荒みかけていた。
そんな久我に「暇なんだってな、転校生。サッカーやろうぜ」と声をかけてきたのが暁平だった。強引な暁平に引っ張られるようにして最初は渋々、次第にのめりこんで久我はサッカーをやってきたのだ。
暁平たちの家族が事故で亡くなったのは、久我にとっても相当なショックだった。と同時に、「自分が支えてやらねば」という強い気持ちもそのときに芽生えた。
凜奈は鬼島を出ていってしまったが、共に御幸神社で暮らす暁平と政信、要の三人には目には見えない固い結びつきがあるのを久我は感じとっている。自分がその輪のなかにはきっと入っていけないであろうこともわかっている。
だからこそ、暁平がサッカーで上を目指すというのなら、全力でサポートするのが久我にできる役目だった。ひたすら点を取って取って取りまくればいい。
許せるはずがなかった。衛田グループにはそんな願いを踏みにじった報いを必ず受けさせてやらねばならない。
熱を帯びた久我の顔に直接外の風があたる。
鬼島中学の校舎が建てられたのは非常に古く、廊下の外側には壁というものがない。高さ1メートル強の柵と手すりはあるものの、吹きさらし雨ざらしのひどい建物だ。
少し面積の広い一階に職員室と一年生の教室があり、順に二階は二年生、三階は三年生の教室となっている。四階には特別教室が集まっており、授業で使用していなければ教師も生徒もあまり利用することのない閑散としたフロアだった。
加えて四階のトイレは一階の職員室の対角に位置しており、その点において校内の愛煙家生徒から根強い支持を得ている、といつだったか久我も耳にしたことがあった。衛田グループの何人かもその利用者であるらしい。
そのときは「どうでもいい、くだらない情報だな」くらいにしか思っていなかったのだが、今になって重要さが増すのだから世の中はわからない。
先ほどの教室から長い廊下を歩いてきた久我は、男子トイレの近くまでやってくると気配を消した。試合の最中でもディフェンダー相手によく使うテクニックであり、こうすることで敵の死角から抜け出して一瞬早くボールに触れることができるのだ。
トイレの奥からは何人かの声がしていた。それほど大きな声ではない。一人、二人、三人か。
「そろそろ昼休みが終わるな」
「いいじゃん別に。もう一本吸ってからいこうぜ」
「それって結局五限目にでないパターンだよな」
「はは、まあいいんじゃね。いつも通りってことで」
「教室帰ったら間違いなく榛名がぶち切れてるだろうし、面倒だろ」
「あいつほんとに態度でかいよな。……可愛いけど」
好き勝手なことをしゃべっている彼らの様子を、久我はそっとうかがうように観察する。彼らのうち、知っている顔は二人。久我の記憶が確かならば、その二人こそがサッカー部にいまだ籍を置く衛田グループのメンバーのはずだ。
青白くなるほど固く拳を握りつつも、久我は冷静さをなくしていなかった。まるで絶好のパスをゴール前で受けたときのような気分だった。逸ってしまえばバランスを崩し好機をふいにしてしまう。焦らず、落ち着いてなおかつ迷いなく動かなければ得点を決めることはできない。
ほんの少しの間、久我は待った。三人の目が揃って窓の外へと向けられるまで。
そのタイミングがやってくるやいなや、久我は低い姿勢で猛然と三人へ詰め寄り、いちばん手前にいた一人の鳩尾へ的確にして強烈なボディーブローを叩きこんだ。殴られた少年はうめきながらたまらず膝を折る。
「んうええ」
「おい滋野!」
傍らにいた生徒が殴られた少年の名を叫ぶ。この生徒には見覚えがないので衛田グループではないだろうが、見逃してやるほどの義理もない。
久我は前蹴りで滋野の顔を打ち抜き、叫んだ少年のほうへと吹っ飛ばす。もつれるようにして二人はトイレの冷たい床に倒れこんだ。
「長谷村ぁ! こいつサッカー部の奴じゃねえのか! てめえどうにかしやがれ!」
寝転がったままの姿勢で、見知らぬ生徒は窓際の少年へヒステリックに怒鳴る。どうやら彼自身は荒事が得意ではないらしい。
なら、と久我は長谷村のほうへと体を向ける。とりあえずはこいつをぶちのめせばいいわけだ。
突然の襲撃に動揺しているのだろう、まだ火のついた煙草をくわえたままの長谷村の鼻先にまずはジャブを一発プレゼントする。久我としては軽い挨拶のつもりだったが、長谷村は片手で鼻を押さえてよろめいた。灰を散らしながら煙草が地面に落ちる。
手応えのなさに拍子抜けしながらも、まだまだ攻勢を緩めるつもりのない久我はためらうことなく長谷村の髪を両手でつかみ、そのまま顔面に何度も膝蹴りを放つ。一発、二発、三発、四発、五発、六発、七発、八発……。
鼻を押さえていたはずの手はいつの間にかだらんと垂れ下がり、長谷村の顔は鼻の回りが真っ赤になっていた。ヘアスタイルにこだわりがあるらしい長谷村の髪には整髪料がふんだんに使われており、つかんでいた久我の手にもべったりとくっついてしまっている。そのことがますます久我を苛つかせた。最後にもう一発、膝を入れる。
気を失ったのか、久我が手を離すと長谷村はその場に崩れ落ちた。
残りの二人は体は起こしていたが、まだ立ちあがってはきていない。怯えの色を隠せない滋野が腹を抱えたまま、精いっぱいの虚勢を張る。
「お、お、おまえ正気か? こんなことしてサッカー部が無事にすむとでも思ってるのか?」
「おかげさまで。さっき総体への出場辞退を言い渡されたところだよ。てめえらにゃあきっちりその償いをしてもらうからな」
そう言って久我はじろり、ともう一人の見知らぬ生徒を睨みつける。
「おらどけッ」
拳の裏で彼の横っ面を殴り飛ばし、邪魔にならないよう冷たく釘を刺した。
「そこでしばらく寝てろ。用があるのはこっちなんだ」
それから「立てや」と滋野の襟首をつかむ。
「おう、そうそう、そのまま歩け。個室のほうな。はいはい真っ直ぐ――らぁッ!」
個室を仕切っている壁に、久我は滋野の顔を力任せに叩きつけた。つー、と滋野の鼻から血がこぼれるが、長谷村ほどひどい出血ではない。
「悪いな、手が滑った。あーあー、そんなに血で汚しちまってしょうがねえなあ。汚れたらやっぱ洗わねえと。ほら、センパイ」
自分でも気持ち悪いと思うくらいに優しい声色を作り、満面の笑みを見せた。
血を洗い流すのは水だ。その水は、個室のなかの和式便所に溜まっている。
「やめろって、なあ、たのむからやめてくれって」
滋野の震えた声での懇願を久我は一切聞き入れない。
「はーい、きれいきれいしまちょうねー」
そう戯けてから滋野の顔を容赦なく便器に突っこんだ。
力いっぱい押さえつけながら「いーち、にーい、さーん、しーい」と数を読みあげ、きっかり十秒でいったん滋野を便器から解放する。
「さて、不細工な顔が少しきれいになったところで話してもらおうか」
「……なにを」
首元まで濡れている滋野には、もうろくに口答えする気力も残っていないらしい。
「なにを、じゃねえよバカ。とりあえずおまえらは全員半殺し決定だが、衛田の野郎はそんなもんじゃ気がすまねえ。あれだろ、あいつがおまえらのリーダーで間違いないんだろ?」
久我の質問に滋野は返事を言い淀む。ためらうことなく再び久我は滋野の顔を便器の水に押さえつけ、今度は三秒ほどで引きあげてやった。
「で、どうなの」
抑揚をつけずにまた問う。
「うっうっ、そう、だよ」
笑えることに泣きだしてしまった滋野が、涙の痕跡を隠そうと手で目元をこする。
「おい、汚いだろうが。こっちに便所の水を飛ばしてんじゃねえって。で、衛田は今どこにいんだよ」
「たぶん屋上、のはずだ。昼休みの衛田は、いつも、四ノ宮くんとそこにいる」
「四ノ宮ぁ? 誰だそれ」
鼻をすすっている滋野からは答えが返ってこない。また便器に顔突っこまれなきゃわかんねえのか、と久我が考えていると、今度は別の方向から声がした。
「おまえ、四ノ宮くんのことも知らないのか。うちの学校でいちばん強い人だよ。あの人と仲がいいっていうんで、衛田には誰も手出しできないんだ」
そう言ったのは衛田グループではない、もう一人の生徒だった。
「へえ、それはそれは。衛田にはそんなバックがついてたってわけか」
お手あげのジェスチュアをしながら、もう用はないとばかりに立ちあがった久我はトイレの出口へと歩いていく。
そんな彼の背中に、精いっぱいの呪いの言葉が投げ掛けられた。
「行けよ。行って、殺されてこい」
いまだ力なく壁に体をもたせかけている長谷村からだった。くるりと久我は踵を返し、大股で近寄って長谷村の頭上から拳を打ちおろす。
悲鳴と混ざってどこか遠くの世界からチャイムの音が鳴り響いていた。
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