第10話
ひとしきり部下達との絆を確かめ合うと、課長はおもむろに懐からイセエビを取り出しました。
これがただのイセエビであったなら、それこそ騒ぐことではありません。しかし驚くなかれ、それこそがイセエビ型オナガゴキブリ語翻訳装置、名付けてゴキブリンガルだったのです。このゴキブリンガルは、オナガゴキブリ達がメッセージに添付していた設計図をもとに、ミンチョー社の社員達がわずか10時間で作り上げたものです。ミンチョー社でなければ、もう10分は余計にかかったことでしょう。これこそ、筋肉の力です。
ゴキブリンガルが目の前に置かれたのを確認すると、エマーソンは羽を擦り合わせて音を出しながら、しっぽをふりふりしました。すると……おお、なんということでしょう! その音と動きを捉えたゴキブリンガルから、人間の言葉が発せられるではありませんか。
「聞け、人の子よ。我が名はエマーソン。高い知性と優美なしっぽ、滑らかにして輝かしい羽、しなやかな触角、それから……(中略)……更には高潔な精神性を持つ、生物史上空前絶後にして前代未聞の存在たるオナガゴキブリを代表してここに立っている」
これには、さしものミンチョー社の強者達も、思わず筋肉を強張らせました。
「アワワワワ、本当にイセエビが喋りだしましたよ!? どうしましょう、課長!」
一人目の社員が、課長の左腕にしがみつきました。
「オヨヨヨヨ、本当はイセエビじゃなくてこのゴキブリが喋ってるんですよ! 逃げましょう、課長!」
二人目の社員が、課長の右腕にしがみつきました。
「騒ぐことではない」
三人目の社員は、眼鏡を拭きました。
課長は実のところ、仕組みもよく分からないまま作り上げたイセエビ型の機械がゴキブリ――それも、これまでに見たことが無い、長い尾を持つゴキブリ――の動きに反応して喋り出したことに狼狽え、危うくゴキブリンガルを掴み上げてフルスイングするところでしたが、三人目の言葉を耳にしてハッと我に返りました。
――そうだ、騒ぐことではない。イセエビが喋ろうと、ゴキブリが喋ろうと、我らには筋肉がついている。
課長は勇気を振り絞ると、両腕に二人の社員をしがみつかせたまま、エマーソンの方へ一歩踏み出しました。
「オナガゴキブリの代表、エマーソンよ。強い筋肉と優美な筋肉、滑らかにして輝かしい筋肉、しなやかな筋肉、それから……(中略)……更には高タンパクな筋肉を持つ、人類史上空前絶後にして前代未聞の企業たるミンチョー社を代表して尋ねる。お前達の目的は何だ?」
課長のこの堂々たる態度には、さしものエマーソンをしっぽを巻きかけました。当初の予定では、オナガゴキブリの高い知性と優美なしっぽを見せつけられてすっかり腰砕けになってしまった人間相手に有利に交渉を進め、チャベナー撲滅のための手足として思う存分使うつもりでいたのです。しかしエマーソンのしっぽには全オナガゴキブリの命運がかかっています。相手が予定と違う反応を示したからといって、おめおめとしっぽを巻いて引き下がるわけにはいきません。
居丈高に命令して言うことを聞かせられるような相手ではない。しかしながら、オナガゴキブリの名誉としっぽにかけて、謙って下手に出るわけにもいかない。
そうなれば、あとは対等な立場での同盟を求めるのみです。
「人の子よ。我らはお前達と共闘せんと欲す。高い知性も優美なしっぽも無く、羽は油ぎり、それから……(中略)……更には下劣な精神性を持つ生物史上空前絶後にして前代未聞の生きた邪悪たるチャベナーを滅ぼさんがために」
エマーソンのこの言葉を聞いて、ミンチョー社の面々はどよめきました。
「バカな! チャベナーを滅ぼすだと!」
一人目の社員が叫びました。
「そんなことができるわけがない!」
二人目の社員も叫びました。
「さわ……」
三人目の社員は、何を思ったのか、途中で言葉を切りました。騒ぐほどのことではないと口に出して言うほどのことでもないと思ったのかもしれません。しかしながら、本当の愛を知る者の心理は深淵にして凡俗には不可知であるため、実際のところ何を思ってのことだったのかは、自らが同じ境地へと至った者にしか分からないのです。ただ一つ確かなことは、いい加減同じネタを繰り返しすぎて飽きられた頃だろうとか、そんな低俗な理由ではけっしてないであろうということです。
「エマーソンよ」
呼びかけると同時に、課長は右手でくいっ、と眼鏡を押し上げました。その腕には二人目の社員がぶら下がったままでしたが、その重量など課長にとってはミサンガのようなものです。
「チャベナーは百匹いるうちの九十九匹を殺しても、残った一匹がまたすぐに百匹に増える。完全に撲滅することなど不可能だ。だからこそ、我々はずっとあれの駆除を続けているのだよ。世迷い言はほどほどにしておかないと、その優美なしっぽが泣くぞ」
「フッ……」
エマーソンは、不敵に笑いました。
「ミンチョー社を代表する人の子よ、お前こそ、その様な最初から完全勝利を諦める姿勢では、自慢の筋肉が泣くぞ。その上腕二頭筋は飾りか?」
「何だと? 私を馬鹿にすることは許しても、上腕二頭筋を馬鹿にすることはけっして許さぬぞ」
言うが早いか、課長の筋肉が盛り上がり、上半身に着ていたものが全て弾け飛びました。この技は、かつて課長の人生を変えました。このようにして何着も衣服をダメにしてしまったことで、一人目の妻に愛想を尽かされてしまったのです。
この課長の筋肉をもってすれば、エマーソンなどいとも簡単に叩き潰すことができたでしょう。しかしエマーソンは一歩も引くことなく、ピンと伸ばしたしっぽをふりました。その動きに反応して、またもゴキブリンガルが声を発します。
「できるのだ、人の子よ」
「何?」
課長の筋肉が、脈動を止めます。
「我々が力を合わせれば……我らの知性と、お前達の手があれば、百匹いるチャベナーどもを、百匹とも殺すことができる。いかなチャベナーといえども、ゼロとなってしまえばそこから増えることはできない。もう一度言おう。できるのだ、人の子よ。我々は……我々ならば、チャベナーに勝てる!」
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