第9話

 その夜――


 ミンチョー社ゴキブリ対策課の社員達は、メッセージで呼び出された廃屋へと赴きました。そこは、未だチャバネゴキブリに制圧されていない、オナガゴキブリ達の拠点の一つです。

 ……というか、人が住まなくなって随分と経つが故に食べ物がほとんど無く、そのためチャバネゴキブリ達もわざわざ住もうとしないというだけなんですけどね。


 しかしチャバネゴキブリにとっては何の魅力も無い廃屋でも、オナガゴキブリ達にとっては勝手知ったる地です。これは重要なことで、足が遅く飛べもしないオナガゴキブリ達が人間と接触しようと考えれば、いざという時の逃げ込み先を熟知している場所でなくてはいけないのです。


 薄暗い廃屋は、社員達の不安をかきたてます。

「あれを書いた奴は本当に現れるんでしょうか……?」

 一人目の社員が、心細そうに尋ねました。

「あのメッセージではオナガゴキブリ一同と名乗っていましたが、まさか本当にゴキブリということはないですよね?」

 二人目の社員の声も、震えています。

「騒ぐことではない」

 三人目の社員は、こんな時でも泰然自若としていました。しかしそれも当然と言えるでしょう。本当の愛を知る者には、恐れるものなど何も無いのです。


 ――ガサリ


 その時、背後で何かが音をたてました。その何かとは、交渉役として自ら真っ先に人間達の前に姿を現すことにしたエマーソンでした。だから、社員達は何も恐れる必要などありませんでした。なにしろオナガゴキブリは優美なしっぽをもっているので、たとえ突然顔の上に出現したって恐れることはありません。

 しかしなにぶん廃屋内は暗く、しかも突然のことだったため、社員達にはエマーソンの優美なしっぽをしかと確認する余裕も猶予もありませんでした。


「うわあぁげききょぐけれええええええぇぇぇっ!」

 一人目の社員が悲鳴をあげます。

「すっとんがらくちょぎょぎょぎょれぎょおおおおおっ!」

 二人目の社員の悲鳴が、それに続きました。

 そして二人は同時に、懐からある物を取り出しました。

 そのある物とは……おお、ジーザス! ミンチョー社最強の殺虫スプレー『ゴシック殺し』です。そして振り向きざまにそのトリガーを引くまでに要した時間はなんとわずか0.7秒!! 

 これが毎日の――最強たるミンチョー社には休日など無いので、本当に毎日です――の最強土下座により身につけた筋肉の成果です。オナガゴキブリのスピードでは、どれほど急いで隠れても間に合うものではありません。エマーソンは志半ばにしてその命を散らせたかに思われました。


 しかしここで、奇跡が起こりました。ドアも窓も閉じられているはずの廃屋内に突如として突風が吹き、ゴシック殺しの軌道を大きく逸らしたのです。その結果、ゴシック殺しはエマーソンからは外れ、代わりに三人目の社員の顔面を直撃しました。

「騒ぐことではない」

 三人目の社員は、胸ポケットからおもむろにハンカチーフを取り出すと、顔を拭い始めました。まずは、眼鏡からでした。


 ここで今のシーンをもう一度、スローモーションで見てみましょう。


 エマーソンが音をたててから0.1秒後には、二人の社員は既に懐に手を入れています。そこから振り返りつつゴシック殺しを取り出すまでに更に0.1秒を要し、トリガーを引くのにかかった時間が0.2秒です。ゴシック殺しのトリガーは生半可な人間には引けないほど固く、それ故にに鍛え抜かれた社員達でも0.1秒では引けないのです。このあたりが、最強のはずのミンチョー社が売上では最大になれない原因の可能性もあります。そして、トリガーが引かれてから実際に殺虫剤が吹き出すまでにかかった時間が0.3秒。しかし、ああ、なんということでしょう! この0.3秒の間に、横方向からゴキブリ対策課長の高速パンチが繰り出されているではありませんか。これによって生じた突風が、ゴシック殺しの軌道を大きく逸らしたのです。こんな芸当は最強のミンチョー社といえでも、並みの社員にできることではありません。管理職たる課長だからこそ……いや、管理職になるにはこれくらいできて当然だということなのでしょう。


 しかし驚くのはここからです。軌道が逸らされたゴシック殺しが直撃したかと思われた三人目の社員……しかしスローモーションで彼を見てみると、なんと直撃の直前に大きく体を後ろに反らせてブリッジの態勢をとり、実際にはゴシック殺しを回避しているではありませんか。直撃したように見えていたのは、彼本体ではなく、その残像だったのです。これは、課長をも上回る筋肉がなくてはできない高度な技です。それほどのことをやってのけておきながら、彼はあとかもゴシック殺しを避けられなかったが如く、顔を拭いていたのです。これは間違いなく、部下の筋肉が自分よりも上であることを知って課長が傷つくことがないよう慮ってのことでしょう。

 本当の愛を知る男は、気遣いもできるものなのです。


 しかし課長もまた、その気遣いに気づかぬほどには落ちぶれていませんでした。

「私もそろそろ――後進に道を譲るべき時なのかもしれないな」

 どこか寂しそうに課長がそう口にしたのを聞き咎めた一人目の社員が、叫びました。

「そんな! 諦めるのはまだ早いです課長!」

 二人目の社員もそれに続きました。

「そうです! 課長の筋肉はまだまだ伸びます!」

 彼らもまた、この課で最強の筋肉を持つ者は実は課長ではなかったことに気づいたのです。気づいてなお、課長を課長と認めることにしたのです。これは、ミンチョー社においては極めて稀なことと言えるでしょう。

 三人目の社員が、課長の肩にぽん、と手を置くと、首を左右に振りました。

「騒ぐことではない」


「……ッ! お前達っ!!」

 課長と社員達は、廃屋の中心で熊のようにハグし合いました。

 その様子を見ながら、エマーソンはしっぽを捻って考え込んでいました。

 本当にこの人間達と組むことにしたのは、正しい判断だったのだろうか、と。

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