第8話
最強の名に相応しい朝の挨拶を終えたミンチョー社ゴキブリ対策課の社員達は、思い思いに自らの席に戻りました。そして、パソコンの電源を入れ、パスワードを入力してログインします。
一人目の社員は、パスワードを彼女の誕生日に設定していました。その彼女は三次元でした。
この一人目の社員は、業務時間中ずっと彼女とメッセージアプリで甘ったるい会話を続けており、前日にも彼女の誕生日にどこに行くかを話し合っていました。そのため、それを背後から覗っていたオナガゴキブリ達に、このパソコンのパスワードは筒抜けになっていたのです。
その日もいつも通りログインした社員は、そこに表示されたものを見て、思わず叫びました。
「ああ!」
「どうした?」
叫びを聞きつけて、ゴキブリ対策課の課長が席へと近づいてきたます。社員は、パソコンを立ち上げたらいつも真っ先に起動しているメッセージアプリを慌てて閉じ、代わりにエクセル方眼紙を立ち上げました。業務時間中ずっと彼女といちゃついていることがバレないよう、いつも課長が背後を通る度に、このエクセル方眼紙を表示させていたのです。
しかしこの時は、エクセル方眼紙をものともせず、最前面にでかでかとメッセージが表示され続けました。
『主人がチャバネゴキブリに殺されてから一年が過ぎました。』で始まるその文こそが、オナガゴキブリ達が夜中にキーボードの上をぴょんぴょん跳ねたりしっぽを打ちつけたりして入力したメッセージです。
「何だこれは……?」
「私にもさっぱり」
一人目と課長が騒いでいるのを横目で見ながら、二人目の社員も自分のパソコンにログインしました。この二人目の社員も彼女の誕生日をパスワードに設定していましたが、その彼女は二次元でした。
この社員は業務時間中ずっと画面の中で彼女とデートしたりキスしたりその先に進もうとしたりしており、その中には誕生日イベントも含まれていたたため、やはりパスワードはオナガゴキブリ達に筒抜けでした。
「ああああ!」
やはり叫び声をあげる二人目の社員。課長と一人目の社員が、それを耳にして寄ってきます。
「どうしたどうした」
二人目の社員は、パソコンを立ち上げたらすぐに彼女と会えるようスタートアッププログラムに設定していたギャルゲーを慌てて閉じ、代わりにソリティアを立ち上げました。業務時間中ずっと彼女といちゃついていることがバレないよう、いつも課長が背後を通る度に、このソリティアを表示させていたのです。
しかし一人目の社員の時と同様、オナガゴキブリからのメッセージはソリティアにも負けず最前面に大きく表示され続けました。
「なんなんだこれは……?」
「私どもにもしっぽり」
一人目と二人目と課長が騒いでいるのには目もくれず、三人目の社員も自分のパソコンにログインしました。この三人目の社員も彼女の誕生日をパスワードに設定していましたが、その彼女は一次元でした。
この社員は業務時間中ずっと、彼女である画面の中の直線――いや、両端が存在するので、数学的には線分と呼ぶべきでしょう――を見つめていました。
そこでは、甘ったるい会話など不要でした。デートもキスも、その先も無用でした。
なぜなら、本当の愛がそこにはあったからです。
その愛には、いかなるアプリの起動も必要ありませんでした。
なぜなら、彼女は最初からデスクトップの背景に設定されていたからです。
この社員は、業務時間中ずっと彼女と愛し合っていることがバレないようエクセル方眼紙やソリティアを立ち上げるなどという姑息な真似はしませんでした。たとえ課長が背後を通っても、臆すること無く気にすること無くデスクトップ上の彼女を見つめ続けていたのです。
これは当然のことと言えるでしょう。
なにしろ、彼の愛は本物なのですから。
もちろん、この三人目のパスワードも、高い知能と優美なしっぽを持つオナガゴキブリ達には筒抜けでした。しかしオナガゴキブリ達は真実の愛に敬意を表し、彼のパソコンでは、デスクトップ上の彼女と被らない位置に小さくメッセージを表示させるだけに留めました。
彼の目はそのメッセージを捉えましたが、一人目や二人目のようにみっともなく狼狽えたりすることはありませんでした。
ただ一言、厳かに口にしただけでした。
「騒ぐほどのことではない」
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