第32話 女。生の魚を食べるんですか?
「えー、生の魚を食べるんですか」
「美貴さんは食べたことないの、美味しいのに」
目の前にあるのは食べ物。
そう、これは食べ物には違いがないが、調理されていない。
魚を切って、お皿に並べただけ。
私は魚が好きな方なのだけれど、これには躊躇してしまう。
舌平目のムニエルとか、魚のフライ、あるいは魚の煮物。
そう、全て火を通した魚料理。
しかし、これは完全に生。
皆さんがおっしゃるには、これは伝統ある和食で昔から親しまれている。
私も和食は好きですけども、まさか、生の魚を切ってそのまま食べるだけの和食があるとは知りませんでした。
システム内に暮らしている人達はこの生の魚を、いつの間にか食べなくなっていったんだと思う。
これは私にとっては衝撃的で、はっきり言って食べたくない。
でも、ママ友さん達が一押しで進めてくれるのがこれ。早く覚悟を決めて食べなければと思うと、余計に固まってしまう。
「美貴さん、固まっているよ。そんなに真剣に悩まなくても、一口食べれば納得がいくよ」
「あ、はい。
今まで火を通した魚料理しか食べたことがなくって。
私、頑張ります」
またママ友さん達が笑っている。
私は真剣に取り組もうとしているのに。
私、変なこと言ったのかな?
「ではこれから食べます。
でも、どうやって食べたらいいんですか。
この横に添えてある緑色の物はアボカドですよね」
そう言うと私は、少しアボカドを取って食べた。
「辛い、これアボカドじゃないです。これなんですか」
また皆さん笑っている。またまた理由が判らない。
「それはワサビと呼ばれていて、植物から作られているんだよ。このワサビをその魚に少しだけ乗せて、魚を醤油に少しだけつけて食べるのが普通だね」
「このワサビは、畑で採れるホースラディッシュに味が似ています。親戚ですか」
「あら、よくわかるわね。ワサビは綺麗な川のほとりで何年もかけて作られる。だからかもしれないけれど、ホースラディッシュに比べて清々しくて、鼻にツンとくる独特の辛味がこの生の魚と相性がいいんだよ」
「そうなんですか、では早速その食べ方でいただきます」
私は彼女が教えてくれた食べ方で、一番小さな生の魚の切り身を口に運んで食べた。
生の魚を口に入れると最初に醤油の味がした。
次に魚の脂の味がして、最後にはワサビの辛味がしたかと思うと、鼻にツンとくる刺激があった。
「美味しいです。これ、とっても美味しい。この料理はなんて呼ばれているんですか」
「お刺身だね。単に刺身と言う人もいるけれど。お刺身の方が品があってこの料理の名前にあっていると思うんだよね。魚の種類もたくさんあってね、それぞれの魚で味が随分と違うんだ。今度はこっちのお刺身を試してご覧よ。さっき食べたのはシマアジで、これは鯛。鯛は魚の王様と呼ばれていて、淡白な味の中には甘みや旨みが程よく調和している。お刺身ですぐに名前が出るのが、この鯛さね」
「これ鯛なんですか。切り身で売っている状態のものしか知らなくて。それに、これには頭も付いている。飾りですか」
「これは飾りだけどね。この頭を半分に割って料理したのが、えーと確かこっちにあった、これ。鯛の兜煮。鯛の煮物で、これも美味しいよ。あと、そうそう。鯛の吸い物を頂いたことはあるのかい」
「鯛の吸物ですか。いえ。それも鯛の料理なんですか」
「あらー、これも知らないのかい。鯛のアラを吸物にしたんだよ。潮汁が私は好きさね。これは海の塩と鯛のアラだけで作るんだけどね、格別な美味しさだよ。誰かが作って持って来ていると、えーと、この鍋だね。はいどうぞ。吸い口を箸で持って口の前で止めて、その状態で吸物を吸う。美味しいよ」
「先に鯛のお刺身を頂きます。それから吸物も頂きます。楽しみです」
鯛のお刺身は先ほど食べたシマアジと比べて、随分と淡白に感じた。
でも、そしゃくしているうちに、甘みと旨みがジワーと口の中に広がって来た。
「先ほどのお魚よりは、こちらの鯛の方が上品で、とても美味しいです。次にお吸い物をいただきます」
柑橘類を細かくした物を箸で取って、口の前で止めて吸物を飲んだ。
最初に感じたのは柑橘類の爽やかな香り、柑橘類を通すことによって吸物が少しだけ酸味が加わる。
いい塩梅の塩加減に、甘みと酸味と旨みが口から喉にかけてダンスしながら通っている感じ。
いや、味の四十奏を奏でているの方があっているかな。
でも、これって、今まで味わったことのない美味しさ。
「これ、すっごく美味しいです。コンソメスープよりも、こちらの方がはるかに美味しい。これが鯛と塩だけで作られたとは到底思わない美味しさです。食べ物で、これだけ感動した事ないです」
「感動しもらって嬉しいよ」
また皆さんが笑っている。
そして、今度は私も笑った。
ふと周りを見回すと、私の周りに人垣ができている。
まただー。目立つ事が嫌いなのに、また目立ってしまった。
「今度はこれをお食べよ」
「あ、それはやめときなって」
「どうして、美味しいのに」
「だってねー。初心者には無理だって」
今度は私に進めるのに、賛否が分かれている。
何だろう。気になる。
「あのう、それは何ですか」
「あ、これはやめといた方がいい。美味しいんだけどね。臭いんだよ」
「美味しいですよね」
「ああ、味は保証するよ」
「それでは、一口だけ食べてみます」
私は、蓋のある容器を開けた。
その途端、まさに腐った匂いがそこからしてきた。
「本当にこれ、食べれますよね」
「間違いなく、食べ物さ」
私は恐る恐る最も小さなのを選んで、口に運んだ。
腐った物を食べた感じがした。
しかし、その後、美味しいと私の舌が言っている。
でも、これは、これは食べられない。
私は思わず、持っていたハンカチに吐いてしまった。
「すみません。せっかくの料理ですが。私には、ちょっと」
「慣れたらいずれ食べれる用になるよ。それに、納豆は体に良いしね」
「はい、私、頑張ります」
人垣の人達は大爆笑している。
私も笑った。
しかし、こんな食べ物がこの世にあるとは。智にも食べさせてあげよう。
体に良いしね。
私はある意味、ここの食生活に断然興味が湧いてきた。
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