あまがえる

 寒い……。

 おかしいな……さっきまで、あれだけジンジンと体が燃えたっていたはずなのに、今はこんなにも凍えているなんて……。

 喉がカラカラだ。

 指先だけが、ひどく熱い。

 それなのに、あれだけ切り刻まれ、めくられた肌の上には、すでに痛みは無くなっていた。ただ僅かなヒリヒリが、時折幻のように現れては、消えていく……。

 ……静かだ……。

 トクン、トクンと鼓動が脈打つ。その一回一回が、ひどくうるさく耳に響く。

 外の音が聞こえなくなったのは、いつからだろう。一度、耳に何かを突き刺されたときには、まだアマコの泣き声が、幻聴のように頭を揺らしていた気がするのだけれど……。

 俺、まだ生きてるのかな?

「ゲン……お兄ちゃん……」

 朦朧としながら、ほんの幽かに聞こえている気がする小さな声に支えられて、ゆっくりと、まぶたを持ち上げる。

 暗いなぁ……とても暗い。

 少し遠くに、八間のような光が赤く浮いている。それ以外に明かりは見えない。波間に映る月のようにほのかに揺蕩たゆたう灯火を、何も考えずにぼんやりと見ていると、なんだか真夜中に人形を作る自分の指先を思い出す。

 少しずつ木を削り、角を減らして丸みを持たせていく作業……何もない木の塊から人の顔が生まれていく過程が、小さい頃からずっとずっと大好きだった。好きなものに夢中になると、俺はいつまででも続けてしまう。一度朝まで起きていて、ヨシにひどく怒られたこともあった。

 一人、作業に没頭する夜に、ふと気がつくと、アマコが後ろでじっと俺のことを見つめている。アマコは俺の心配をするのが親から言いつかっている仕事みたいなものだから、夜遅くにわざわざ見に来ているのだと思っていたのだけれど……。

「おにい……ちゃん……」

 と、アマコの声が……最後の声が、いまだに頭の中で反響している。

 血反吐を撒き散らして、ゆっくりと目を閉じていったアマコの声が……。

 ……おかしいな。

 どこで、間違えただろう。

 神社に来たことが、そもそもの間違いだったのか。

 階段を神社に向かって上り詰めていた折に……行く先から、悲鳴みたいなものが聞こえたあのときに、さっさと引き返すべきだったんだ。蛙があんまりにもやかましかったし、何よりもアマコも耳元で泣いていたから、きっと気のせいなんだろうって、勝手に思ってしまったのがよくなかった。あるいは、神社の中からスミレ姉が現れて、「なんなんだよ、今日に限ってどいつもこいつもよぉ!」と叫んだときに、一か八かでも逃げ出すべきだったか。

 どっちにしたって……アマコが死んだのは、俺のせいだ。

 俺って本当にダメな兄だなぁ……アマコは俺が心配で、俺のためにわざわざついてきてくれたのに……。

 あんまりアマコに迷惑かけちゃいけないと思った俺は、昔みたく、アマコを背負うことにした。背負ったということは、アマコの行く先は俺次第ということ。だから俺は、アマコが危ない目に合うような場所には、絶対に行っちゃいけなかったんだ。

 アマコはずっと、叫んでいた。

 俺が人形のように切り刻まれていく間中、ずっと「お兄ちゃん」と叫び続けていた。

 みんなの死体に、囲まれて……。

 ソウヘイ、イチロウ、ジロウ、イナミ、カイリ……それに、ヤキチ。

 みんな、もう、いないんだな。

 クビソギ騒動のあとで、「ゴメン……」とヤキチが謝ってきた、小さな声を思い出す。「危うく殺しちまうところだった、ホントにゴメン……」と、ヤキチは何度も繰り返していたっけ。

 殺す、か……。

 死ぬっていうのは、不思議なことだ。

 ねぇ……ヨシ……。

 血溜まりの中、真っ二つに割れた顔で、微動だにしなかったヨシの姿……それを見たとき、足元が崩れ、自分の中の何かが壊れるのがハッキリとわかった。

 俺が気がついたこと、明日からやろうとしていたこと、そのすべてが意味を失った気がして……。

 重たい気持ちに締め付けられた胸から何かがこみ上げてきて、グフリと吹き出す。

 それは多分、血。

 ……アマコが死ぬときも、こんな風に血を吐いていたな。

 ゆっくりと喉を掻き切られながら、それでもアマコは、俺を見ていた。

 助けてって……泣いていた。

 ……アマコに何かを頼まれたのは、久しぶりだ。昔は「お兄ちゃん、おんぶ」って、よく言われていた気がするけれど……きっと本当に、それ以来ずっと、アマコは俺にものを頼まなくなったのだろう。

 あぁ……。

 じゃあ俺は、それ以来、アマコのために何もできなかったってことか。

 してもらったことは数え切れないほどにたくさんあっただろうに……。

 アマコ……とっても、痛かったんだろうな……。

 ……本当に、なんでこんなことになってしまったんだろう……。

 もう少し……もう少しで、全部うまく運ぶような、そんな気がしていた。

 そのために、ヨシを追いかけたのに。

 じんわりと涙がにじんで、頼りない視界をさらにボヤかしていく。

 痛みを嘆くことに疲れ、体が死んでいくのを感じてる心に渦巻くのは、思い出のようにほのかな、感傷ばかり。

 ここ最近は、色々と考える時期だった。

 ……最初は、俺とヨシが祝言なんて、信じられないって思った。まだまだ自分のことを子どもだと感じていたし、ヨシだってそんな気はまだないんじゃないかなって、勝手に思っていた。それなのに、同い年のカヤは子どもができたっていうし、ヨシはいつの間にかキレイになってるし……。

 髪を下ろしたヨシの姿……思い出すだけでも、顔が熱くなる。ヨシ……本当に、キレイだったな。それがわかってなかったから、きっと俺はヨシの人形をうまく作ることができなかったんだろう。昔から知っていた、強くて背が高い、頼れるヨシ……でも今はそれだけじゃあないんだってことに、にぶい俺は、やっと気がついたんだ。

 そのヨシと俺が結婚するってことは……よく考えれば、とんでもないほどに幸せなんだということも、やっとわかったんだ。ヨシより俺のほうが背が高いとか、力が強いっていうのは未だに全然納得できないけど……それでもめちゃくちゃ、嬉しくなったんだ。

 うれしく……なったのになぁ……。

 ヨシだけじゃない……アマコのことだって、そうだ。

 俺は、アマコのことをできるだけ避けていた。だって、あんまり迷惑をかけたくなかったから……ずっとアマコには世話をかけっぱなしなんだから、普段は俺なんていない方がいいだろうって思ったから……。

 それが全部勘違いだったってわかったとき……すごく申し訳ないって思ったけど、でも、やっぱりちょっと嬉しくもなった。

 こんな俺でも……いいって言う人がいるんだなぁ、って。

 嫌われてるって思いながら世話を受けるのは疲れる。でも、愛されてるって思えるのは、とても有り難い。

 未だに信じられない……アマコが俺のことで、嬉しくて泣いてくれたなんて。ヨシが俺なんかによろしくって言ってくれたときと同じように、本当に、暖かい気持ちになった。

 みんな、バカな俺のことを好きって言ってくれる。

 みんな、いい人たちだ。

 いい人たちだった。

 ふと、頬にほころびを感じた瞬間に、キリリと胸が震え、息が詰まる。

 本当に……全部、もう少しだった気がするのに。

 自分が何をすればいいのか、少しずつだけど、わかり始めていたんだ。

 みんなと比べて今までダメだった分は、ちゃんと、今からでも取り戻していける。悩んだ末に、いつしか、そんな勇気が胸の奥に湧いてきた。

 全部、ヨシの……みんなの、おかげだ。

 みんなのように……ヨシのようになりたいって、思ったんだ。

 階段を上ることにしたのも、それが理由。

 自分からやれないのは相変わらずだけど、でも、誰に言われたわけでもなく、ちゃんと考えて、一歩を踏み出した。

 一歩を……踏み出せたんだ。

 そうやって、これから一歩ずつでも……本当に、何もかもよくなっていくはずだった。その予感があった。失敗しても、ヨシやアマコや……みんながちゃんと助けてくれるって……。

 思ってたのになぁ……。

 結局、俺が余計なことをしたせいで……アマコは……。

 やるせなく、震える腕を持ち上げる。

 真っ赤な手……指なんて、一本も残ってない手を、突き上げる。

 ほんと……もうちょっとだったのに……。

 こんな形で、終わりか……。

 ああ、

 なんて……、

 本当に……口惜しいなぁ……。

 ヨシ……アマコ……。

 あんなに優しい……大好きな二人なのに、今思い出せるのは、血まみれになって人形のように動かなくなった顔ばかりで……痛くて、苦しくて、仕方がないまま死んだっていうのが、これでもかというくらいにわかる顔で……。

 悔しいなぁ……。

 ヨシなんて……泣いてる顔とか、ほとんど見たことないのに……死ぬ前はすごく泣いてたって、わかる顔だった。

 あぁ……でももう、ダメだ。

 嘆くことすら、疲れてしまった。

 今はただ、寒くて仕方がない。

 喉が震えて、息ができない。

 体が全部、なくなっちゃったみたいにうつろな感じがした。

 しょうがないさ……まるで人形を作ってるみたいにガリガリと、体を削られたんだから……。

 爪を剥がれて、指を切られて、肉をがれて、骨をこすられて……。

 すごく痛くて苦しかった気がするけど……なんだろう、今は痛みを、思い出せない。

 でも、わかる。

 俺も、死ぬんだなってこと……。

 なんで死ぬんだっけ? もう何もかも、わからない。とてつもないほどに恐ろしい妖怪に、恐怖とか、怒りとか、いろんなことを思った気がするけれど……それも今となっては、夢と同じくらいにおぼろげにしか感じられなくなっていた。

 こんなヒドいことが、どうして起きたんだろうか……。

 やっぱり、タタリは本当だったのかな?

 スミレ姉なら、知っているだろうか……。

 ふと、暖かい手が、指のなくなった彼の手のひらを握る。

 光が遮られて、髪の長い女の子の影が、顔を覆った。

 ……アマコ?

 いや、ヨシ?

 わからない。

 わからないけど……。

 ……ごめん……。

 俺は……もっと二人には、ありがとうって言わなきゃいけなかったのに……。

 いや、ちがう。

 もっと、ありがとうって言いたかったのに……。

 突き上げていた腕を、その背中へと、ゆっくり回す。

 俺、また間違えた。

 震える肩を、抱きしめる。

 泣いてるの?

 ごめんね……。

 崩れ落ちるように、すがりつく体を抱き寄せた。

 ほんのりと、寒さがやわらぐ。

 また少し、涙がこぼれた。

 こんな時にまで、二人は優しいんだなぁ……。

 こんな俺を、慰めてくれるなんて。

 ……ほんとうに……ごめん……。

 俺は最後まで、情けないまんまだ……。

 …………。




 やがて、わずかな震えや幽かな鼓動も静まって……眠るようにはかない表情のまま、ゲンは動かなくなった。

 その腕の中で、チユリは、姉に首を掴まれ、無理矢理に引き剥がされるまで、泣き続けていた。

 他の誰もが苦痛に悶え、鬼のような表情で死んでいった中で……影の下、タッタ一人穏やかな表情で死んだゲンの顔に、救いを求めるように、泣いていた。

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