ひきがえる 二
一瞬の間に、狂乱がチユリの頭を支配した。
魂を爪で削ぎ落とすかのような金切り声に、目が冴え、全身に爆発したかのような震えが走る。
カラスのように、尖り、かすれたヨシの叫びに気圧されて、ワケもわからず、チユリは後ろへと飛び下がった。
ヨシの顔を縦に引き裂く斧……その、あまりにも異様かつ残酷な景色は、今まで感じていた寒さを火焔のように焼き潰し、全身に燃え立つような熱さをにじませた。
「よ、ヨシ姉ーーェッッ!!!!!?」と、ソウヘイがまた、ひときわ大きな声で、叫び狂う。「スミレ姉っ!? なんでだ、なんでだよ! なんでこんなことするんだよぉーーッッ!!!」
続いてジロウとイチロウらしき泣き声が、重なって喘ぎだす。
カイリは止めどなく、叫び続ける。
蛙は未だ、鳴いている。
そんな中で……。
スミレ姉ちゃんは、ヨシの顔に食い込んだ斧をギチギチと動かし続けていた。
暴れるヨシを片足で押さえて、肩を震わせ……笑っていた。
その形相のものすごさ……両手でしっかり斧を支えながら、器用に足を運び、ヨシの顔に刃を食い込ませ続けている気味の悪い冷徹さ……。その下で、顔に鉄が刺さったまま、しかし為す術なく「イギギギギッ……」と獣のような声をにじませて、ヨシはビクビクと魚のように跳ねている。
お姉ちゃんが斧を動かすたびに、ニチニチと泥を踏むような音が鳴り、真っ赤に染まるヨシの顔。
蛙のようにヌメる血が、ダラダラと流れていく。
視界が霞み、グラグラと揺れ始めた。
(なにが……なにがおきてるの……?)
後ずさるチユリの背中に、グネリ……と何か柔らかいものが触れる。
アッと考える間もなく、体が
まず目に入ったのは、女の子用の紺色の着物。
黒い髪。
不自然に、赤い模様に染まっていて……。
(……あ)
じわりと、胸が痛む。
チユリはまた、悲鳴を上げた。カイリにも負けないくらいの大声で、叫び狂った。
「……ッッ!!!???」
重なり合って倒れてきたそれは……。
リンとゼンタの、死体だった。
頭が半分潰れて、固まった血の中に触れるもおぞましい何かをはみ出させているリンと、首に布のような黒い血が巻き付いたまま、泣いているんだか笑っているんだかわからない表情で固まっているゼンタが、チユリの上にのしかかった。
お腹の底で、ギュルギュルと何かが
同時にチユリは、ようやくすべてを思い出した。
二人がどうやって死んだのかを……リンの頭が真っ赤な花に変わる様と、ゼンタの喉からボコボコと、泡立った血が吹き出す音も、全て。
二人の泣き声が、耳の中でグアングアンと反響した。
「う……うあ……うあぁぁ……うあああああああああああああああああああああ…………」
炎のように、熱い呼吸が胸を焼く。死ぬかと思うほどに、全身が喘ぐ。
チユリは泣いた。
泣き
バタバタと、ヨシが床の上を跳ねる音が、頭を直接揺さぶるようほどに近くから響いてくる。
そちらに向き直ることなど、できるはずがなかった。
怖くて怖くて、仕方がなかった。
逃げ出したいと、チユリはそう思った。
ヨシをどうしたいとか、リンとゼンタが死んでいるとかではなくて……ただただ、逃げたかった。
この場から、離れたくて仕方がなかったのだ。
だが、体はまるで言うことを聞かない。
足に力が入らなかった。
助けを求めるように、カイリを見る。
怯え震えるしかなかったチユリと違い、カイリは未だ吠え続けていた。きっと必死でヨシを助けようと、叫んでいた。この中でただ一人、ヨシのために、頑張っていた。
カイリは優しいから……。
だけど。
ハッとして、目を見張る。
これだけの狂乱と惨劇の中、チユリはたった一人、泣き声はおろか、涙の一滴も見せないで成り行きを見守る瞳に気がついた。
イナミ。
喉を枯らして、それでも叫ぶカイリの隣で……同じように、人のものとは思えないようなヨシの絶叫を聞きながら、その妹のイナミはどういうわけか、ただ目を丸くして、うごめく影の後ろで、じっと固まっていた。
イナミは泣いていなかった。
女の子の中では誰よりも可愛らしいその顔には、どんな感情も映っていない。目の前の凄惨な光景に多少は目元を強張らせている気配であるが、つぶらな瞳は逸らされることなく、彫り込まれた人形の目玉のように静止している。イナミが寝かされている位置はスミレ姉ちゃんたちのちょうど真後ろだから、ヨシの姿はよくは見えないのかもしれないが、それでも自分の姉がどんな目にあっているかはわかっているはず。それなのに、イナミは無表情のまま、目だけはしっかりと見開いて、口を一文字に結んでじっとしているのだった。見慣れたイナミの表情であるが、この場においてその様は、ある意味でリンとゼンタの死体よりも異常なものに感じられた。
だけど、その顔もやがて、引きつっていく。
目に見えないほどの速度で、悲しみの色が浮かんでくる。
閉ざされていた口元がゆっくりと痙攣しはじめたかと思うと、乾いていた瞳に涙が光り、唇がムズリと、何かを言おうとしているかのように薄く開いた。
顎にシワが寄り、涙がダラダラと頬を伝っていく。
可愛い顔が、静かに、静かに、歪んでいく。
「うぅ……」
と、小さな嗚咽が一声、喉を震わせ、にじみ出た。
声はゆっくりと長く伸びて……狂乱するカイリやソウヘイ、ヨシの悲鳴の
そして……。
ついにイナミも、泣き始めた。
うぅぅ……ううううぅ……うああぁぁぁぁん……。
と、誰よりも低く、誰よりも静かに……それでいて誰よりも悲痛な声が、弱々しく、血にむせ返る闇の中に揺らめいた。
イナミは顔をくしゃくしゃにして……暴れたり叫んだりすることなく、ただただその場で、泣きむせた。大粒の涙がその頬を赤く腫らし、カイリよりもずっと幼い顔へと、その印象を変えていく。狂乱そのものとさえ言えるこの場には似つかわしくない、あまりにも単調でありきたりな……お母さんに叩かれたみたいな、イナミの泣き声。
それが一番、チユリの心に突き刺さった。
きゅーっと、視界が暗くなる。
燃え立ち、焦るばかりであった心が、真っ黒に、絶望へと落ち着いていく。
混乱に乱されることなく、ただただ素直に悲しんで泣き始めたイナミを見つめるうちに、チユリはごく自然に、何もかもを思い出した。最悪の記憶たちが正確な順序で……抱くべき失意と共に、頭の中に浮かび上がった。
ヤキチの死から始まって……スミレ姉ちゃんがリンとゼンタを
不意にバキリと、何かが壊れる音。
スミレ姉ちゃんの、舌打ち。
ゴトゴトとやかましい音が響き、カイリが
振り返ったチユリの眼前いっぱいに、真っ赤なヨシの顔が広がった。
息が止まり、血の気が引く。
あまりにも常軌を逸した光景に、全身が
震えるヨシの、赤い顔。
そこに折れた斧の刃が、挟まるようにグッサリと突き刺さっていた。
木の実のように潰れ、歪んだその顔……声を漏らすたび左右に裂けた唇がブルブルと震え、真っ赤なヒダのような肉が、虫のうごめくように張り詰める。
吐き気が、腹の底から持ち上がった。
ズル……ズル……と、食い込んでいた刃が、滑るようにヨシの顔を這う。
濁った
やがてボトリと、斧の刃が、折れた前歯と一緒に床に落ちた。
かつて鼻のあった場所から、おびただしい量の血が流れ出す。
二つに分かたれた、顔。
キレイなはずのヨシの器量は縦に引き裂かれ、ヌメる真っ赤な血に
痛そうとか、そんな言葉では語り尽くせないほどに、それはありえなかった。
「うぅぇ……アァァァ……ァァァ……」と、蛙のように不気味な声で、ヨシは
チユリはその姿を、ヨシのものだとは思えなかった。
信じられなかった。
チユリにとって、ここ最近は特に頼れる友だちとして意識していた……二人でいても楽しく過ごせる相手だったヨシの顔と、今、目の前にいる、長い髪の毛を振り乱す妖怪とがどうしても結びつかなかった。
「だす……げえぇ……ぇ……」
怯えるチユリの元へ、ヨシは這い寄る。手足を縛られたまま、芋虫のように、ズルズルと擦り寄ってくる。
その姿が、恐ろしい。
何よりも、恐ろしい。
タタリ神様のように、怖ろしい。
「ひっ……ひいぃ……」
怯え、思わず
そんな二人の上に、ふわっと暗い、影が差す。
顔が真っ赤に血に染まり、ワナワナの震えるヨシの後ろで……背の高いスミレ姉ちゃんの影が、音も無く、立ち上がった。
逆光で、
タタリ神様のように。
悪寒が走り、ガクガクと顎が震える。
「お姉ちゃん……やめて……」
チユリはヨシを庇おうとした。いつかのように、抱きしめてあげようとした。
……もう一度だけ、慰めてあげたくて……。
だけど。
ガクッと肩が軋み、縄が手首にキツく食い込む。
動けない。
チユリもまた、縛られているから……。
今更になって、体を思うように動かせない窮屈さに息が詰まった。
指先だけが、無意味に
「スミ……ぇ……ぇ……チ……ユイ……いだいよぉ……おぉ……」ヨシは、呻く。哀れに、悲痛に、喘いでる。
なのにチユリには、何もできない。
何も……。
にわかに、お姉ちゃんの影が動く。
赤い光を背に受けて、ゆっくりと、何かを振り上げる。
ゾッと、背筋が凍った。
「だっ……だめ……やめて……っ!!」
ふわっと、顔に風を……風のような、気配を感じた。
思わず、歯を食いしばる。
来る……。
と、まるで、自分が叩かれるみたいな気持ちで、身を固くして……。
ドスッと、鈍い音。
瞬間、ビクンとヨシは跳ねた。
白目を剥いた目を見開き、「ゲッ……」と息の詰まった音がこぼれて……。
「いやああああああああああぁぁぁぁっ!!!!!」と、カイリの金切り声。
「やめろおおお、バカヤローッ!!!!」ソウヘイが、大泣きしながら、叫んでいる。「ヨシ姉っ、ヨシ姉ぇーー!!」
イナミの泣き声が、高くなる。
色んな声が蛙の鳴き声と混じり合い、ありえないほどやかましく、神社を揺らす。
ジイーン……と耳が鳴り、めまいがした。
身がはち切れんばかりに硬直した、ヨシの体。
その背中にスミレ姉ちゃんは、小刀を深く、突き立てていた。
わなわなと、ヨシの縦に裂けた唇が、何かを言おうとしているかのように、ゆるく開く。
そこからのぞく真っ赤な舌も、蛇のように二股で……。
あ……あ……と、かすれ濁った息が漏れて、鼻のあたりから、新しい血がビュッと吹き出す。
その一瞬。
音が消えて。
すっと、ヨシの赤いまぶたが開く。
血走っていながらに、物憂げで、どこか澄んでいるようにさえ感じられる瞳が、何かを探すように不揃いに揺らめいて……わななくチユリを捉えたところで、静止した。
少しだけ、見つめ合った。
何を思うわけでもないのに……何かを必死で訴えるように、互いの瞳の底を覗いて。
きっと、そこに救いなど何もないことを確かめ合った。
蛙が、鳴く。
ゲコッ、ゲコッ、ゲコココココ……。
すうっと、ヨシはまた、目を閉じる。
まぶたの隙間からこぼれた小さな涙が、湖に映る月のように、きれいな光を反射した。
やがてヌルリと、ヨシの背中から刀が引き抜かれた……と、思う間もなく。
すぐにドスッと、音が続いた。
スミレ姉ちゃんが、再びヨシの背を突き刺した。
ドクンと、爆発するような、鼓動が一つ。
また抜いて、また刺した。
スミレ姉ちゃんはヨシのことを……狂ったように、
ザクッ、ドスッと、土を掘るような音がくぐもって……。
そのたびにヨシの体は跳ね回り、おぞましい痙攣が顔中に走る。
ガラガラの声が、小さく小さく、絞り出される。
地獄のような景色だった。
チユリはそれを、信じられないほどの真近くで、眺めていた。
目の前で死んでいくヨシのことを、叫ぶことも忘れ、ただただ見続けていた。
苦悶を超えて、悲しさだけが泥のようにへばりつき、歪んでしまったヨシの
あまりにも恐ろしくて、あまりにも可哀想なヨシの有様に……チユリはなぜか、いつかの笑顔を思い出していた。
それはお婆さんの家で、
「やっぱりチユリは姉妹だから、顔は似てるんだね」そう言って笑っていたヨシのきれいな顔。
当たり前の景色。
いつかの声。
掻き消されて。
やがてゴフッと水っぽい音が鳴り、ヨシの口から血が吹き出した。
びしゃっと、それは生暖かく、チユリの唇を濡らす。
「ヨシ……ごめんなさい……」
やがて……。
どれくらい時間が経ったのかは、わからない。
気がつけばチユリは、倒れ伏し、物言わなくなったヨシの顔に、自分の頬を寄せていた。
心が、凍えていた。
一呼吸一呼吸が、喉に針が刺さるように苦しくて、頭が重くて、胸いっぱいに、ドロが詰まったみたいに膿んでいた。
本当に、とても寒い。
未だ温もりの残るヨシの肌に、チユリはすがるように額を押し当てた。あふれる血が顔を濡らすことなどお構いなしに、ただ、祈った。
その下で……。
ヨシはもう、事切れていた。
「ハハハ……臭いな」
頭上でキンキンと、声がする。
「漏らしたんだな、こいつ……汚え……」
ビクリと、喉が震えた。
「ヨシが……はは、ヨシもやっぱり、怖いと漏らすんだなぁ……」
こんな状況で、あれだけ泣いていたヨシを馬鹿にしたような言葉を吐いてみせた、その意志に……腹の底からムクムクと反感が湧き上がる。
愕然と、チユリは顔を上げた。
深く息を吸って、ゆっくりとスミレ姉ちゃんを見上げた。
朱色の明かりに
思ったよりも血で汚れてはいないけれど……。
汗でびっしょりのまま、どことなく恍惚としたような表情で、お姉ちゃんは、ヨシを見下ろしながら、笑っていた。
眉根を八の字に引き釣り上げ、
それに気がついた瞬間、チユリの胸にほんのわずかばかりに芽生えた姉への
ガクガクと、膝が震える。
(これは……誰?)チユリは、そう思う。(ほんとうに……スミレ姉ちゃん?)
「あははははは……」
スミレ姉ちゃんのような何かは、笑う。
「ククク、いひひ、うわっはっはっは……」
天井を見て、額を片手で押さえながら、笑い狂う。
「アハハハハハ、うぁ、しし……クスクスクス……ふっ、うふふふふふ……あぁ、あああああ、へへへへへ……」
ああ、やめて……と、チユリは目を閉じた。
そんな無理して笑わないで……お姉ちゃんの声で笑わないで……と。
耳をふさぎたくなるように
ふいにカイリが、何かを叫んだ。
なんと言ったのかはわからないけれど……ともかく、とてつもないほどの否定と恨みのこもった声で、カイリは涙声を響かせた。耳が痺れるほどの
ピタリと、スミレ姉ちゃんの笑いが止まる。
カイリの叫びだけ、闇の中に
シー……ィンと、蛙の鳴き声が作る静寂に、すべてが飲み込まれいく。
「うるさいなぁ……」
先程までとは打って変わった低い声が、スミレ姉ちゃんの喉から、ポツリと響く。
「カイリ、お前が一番……うるさいよ………」
ブツブツと虚ろな声で呟きながら、スミレ姉ちゃんが、カイリのことを振り返った。
カイリの表情が、凍りつく。
涙で腫れ、
まだ何も、終わってない。
タタリの夜は、まだ始まったばかりだった。
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