かまえる

 タケマルが神社へたどり着き、入り口からそーっと中を覗き込んだ時、まず最初に感じたのは、鼻を腐らせんばかりにまとわりついてくる、異常かつ不愉快な臭気であった。まるで血を直接に舐めさせられているかのような鈍い酸味の中に、小便か大便、それとも汗か……とにかく、人から分泌されるありとあらゆる生臭さを混ぜ込んだ、霧のように実体感を持ったその香りに、タケマルは思わず吐き気を覚えて、ググッと持ち上がってきた生ツバをなんとか飲み下した。

 鼻どころか目までいてしまわんばかりの悪臭の中に、小雨が持ち上げた重たい地面のにおいがいぶすように絡みつく拝殿の中は、何かしらおぞましい生き物の体内であるかのように異様な佇まいで、タケマルの決意や度胸をし潰す。夜の神社は、彼が駆け上ってきた長い参道と比べてなお暗く、墨で塗りつぶしたかのように黒い闇をうごめかせている。ただ唯一、蛙石かわずいしから漏れ出すロウソクのわずかな灯りだけが、飢えた獣の舌のように鮮烈な色で、蛙の鳴き声とともに揺れているだけであった。

 ゲココココと、いつまでも蛙は鳴く。いくらなんでもこの時期に、こんなに蛙が鳴いているのはおかしい。であるならばやはり今日はカクレの日で、子どもたちはタタリに呑まれてしまったのかもわからない。神社の内側を舐めるように這い回るこの匂いは、この場所で何か、深刻な事態が進行していることを感じさせた。

(これは……俺も、生きて帰れないかもしれないな……)

 口元に無理やり笑みを引きつらせつつタケマルは、震える喉からできる限り気丈な声を絞り出した。

「おーい……ヨシやーい……」

 後退あとじさる左足に逆らって、右の足を擦るように、前へとにじる。

「ゲーン……アマコぉ……いるのかー……?」

 彼の声は、神社の中、反響することもなしに闇に染み込み、蛙の声に呑まれて消えていく。

 誰も答えない。

 つまりこれは、相当にやばい事態だ。

 ピタリと立ち止まったタケマルは、恐怖に逆立つ頭を押さえ、必死で冷静さを保ちながら頭を働かせた。

 タケマルが今日村に帰ってこられたのは、ただの偶然である。もとから今日は初仕事ということで、明日には帰る予定であったのだが……運悪く、運んでいた人形のうちの一体の首が取れていたために、急いで新しいものを用意する必要ができてしまったのだ。おかげでタケマルは初めての町見物を諦めて、一人で村に引き返してきたわけである。

 そうして彼は、村の子どもたちが、カクレの日の神社に行ったきり帰ってこないということを知った。

 ヤキチやイチロウたちはともかく……ヨシとゲンまでもが帰ってこないのだから、確かに何か良からぬことが起きているのだろう。実際のところ、村の大人たちやマキ姉、それにカヤまでもがこの事件をタタリと信じて疑わず恐れおののいているのは、あの二人が帰ってこないことが原因だった。アマコ以外の幼い子どもたちが、本当に神社に行ったのかどうかは誰にもわからない。いや、アマコとゲンだって、いなくなったことに気がついた人はいないのだから、彼らがどこにいるかは未知のままである。村の中は今、この程度の情報共有でさえできていない始末だったので、タケマルはそのあたりの説明は放棄した。

 恐ろしいことだが、本当のところ、この夜に、行方知れずの子どもたちがどこに行ったのかは、わかっていないのだ。

 だが……。

 ヨシだけは、確実に神社に向かったことがわかっている。

 それが何よりも事態の深刻さを物語っていた。

 ヨシは、今のタケマルと同じように、間違いなくここまでは足を運んできたはずなのだ。いくらタタリが怖かろうと、妹たちの安否に関わっている以上、神社を見ぬまま引き返す彼女ではあるまい。そしてもしここに何もなかったのであれば、ヨシはすぐに村へと引き返して、大人たちにそれを伝えたはず。子どもたちがどこに行ったかわからない以上、まず、神社には誰もいなかったという情報がどれだけ貴重であるかくらい、ヨシにわからないワケがないのだ。だがヨシは、未だ村に帰らない。カヤいわくヨシが神社に向かったのは夕方あたりであったのだから、いくらなんでもこの時間まで帰ってきていないのはおかしい。

 そしてもしこれがヤキチあたりが考えついたたちの悪いイタズラなのだとしたら、ヨシがそれに参加することはありえないだろう。親たちがいかに動転しているのかをヨシはしっかりと知っているのだから……。

 ならばなぜヨシは、神社から戻ってこないのか。

 そこまで考えるとタケマルは、流石に恐怖と不安がゲロゲロと渦を巻くのを止められなくなった。思わずその場に突っ伏して、叫び出したいほどに不安に駆られたが、それでもまたなんとか気を持ち直して、背筋をスクッと引き伸ばし、神社の闇に手がかりを探して、目を凝らした。

 ……まだ、わからない。

 もし、これがヨシたちだけの話なら、タケマルや大人たちの恐れも正当だろう。これはきっとタタリということになるのだろう。

 彼の身にも……何か起こることもあるかもしれない。

 だけど、だけどだ。

 アイツなら……と、タケマルは思う。

 もしこれに、スミレが関わっているならば。

 フーっと深く息を吐いて、わざとらしいクシャミを一つ、ひねり出す。

(スミレは、どこにいる?)

 焦る大人たちよりも幾分冷静であったマキ姉とカヤから子どもたちの不在を聞いたとき……彼がまず何よりも違和感を感じたのは、スミレが今、この村にいないことそのものであった。

 こんな状況で、スミレがいないなんてことが、ありえるか?

 この疑問は本来なら……それこそスミレに言わせれば、根拠もへったくれもない山勘だと馬鹿にされるものだろう。なにせこの時間にスミレがいないこと自体は珍しいことでもなんでもないのだから。スミレは山に探検に出かけたきり、次の朝まで帰ってこないのでさえいつものことである。チユリまでいなくなっているのは少し変だが、そういう日だって今まで全く無かったわけじゃない。もちろん今日がカクレの日であることを考えれば、スミレたちもまたタタリに巻き込まれた、ということもあるのかもしれないし、マキ姉なんかは、他の子どもたちと同じようにスミレの安否も心配していた様子ではあったが……タケマルにとってそれは、それだけは絶対にありえないことのように思えた。あの鬼娘が、タタリという目に見えないものに脅かされる姿を、どうしても想像することができないのだ。これに関してはカヤも同意見のようで、彼女はスミレの帰還を今か今かと待ち望んでいた。きっとスミレなら何かを解決してくれると、そう思っているのだろう。

 だがタケマルは、そんなカヤの考えにも賛成することができなかった。やはりどう考えても、スミレの不在には納得いかない。これだけの大事おおごとなのに、スミレがなんの働きかけもしないなんておかしい。あの、目も耳もさといなんてものじゃないスミレが、これだけの騒ぎに何も気がつかず、呑気に森林探検なんて考えられない。

 もちろん、スミレが山を深く冒険し過ぎているために、村の音など聞こえないということも大いに有り得るだろう。この時間にスミレがいないことは誰でもごく自然だと思えることであり、後でスミレにそうだと説明されれば、信じる他ない。

 しかし、だからこそ、何かが怪しい。

 スミレがいないのは当たり前……その事実を、タケマルはどうしても「不在に対して言い訳が立っている」という風にしか感じられないのだった。

 どうにも、臭い気がする。

 今日もきっと、何かがあるのではないか……。

 当然、根拠はない。

 全ては、勘だ。

 今までずっとアイツに振り回されてきた、長年の勘だ。

 ……と、タケマルは、先ほどまではそんな風に思っていた。正直なところ、スミレがいると思っていなければ、こんな、誰も帰ってこないような神社に来られるはずがなかった。泣きながら彼を引き止めたカヤを振り切って、あの暗く長い参道を上ることなどできたわけがない。

 タケマルが村に帰り着いたときに、まず彼に抱きついてきたカヤの、心配による狼狽ぶりは尋常ではなかった。ここは自分が居残って少しでも安心させるべきかとも考えた。だが、それでもタケマルは神社へと駆け出した。ハッキリ言ってしまえば、これがスミレのイタズラと信じてここまで来たのだ。きっとアイツがカクレの日をコケにするために、村の子どもたちをそそのかして遊んでいるのだと……であるならば、みんなを迎えに行く役目は彼にしか果たせないだろう。これがスミレのイタズラなら、ヨシが帰ってこないことだって説明がつくのだ。

 だが……。

 胸を焼く臭気に、目が霞む。

(この匂いは……絶対におかしいだろ……)

 スミレが何かに巻き込まれるはずはない……ここに来るまでは、あれほどに強固なものに思えていたその確信が、今は、どういうわけかまるで頼りない、希望的観測に過ぎないものであったように思われて、タケマルは今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られていた。

 正直、神社の闇の中から今にも妖怪か何かが飛び出してくるんじゃないかと思えて、気が気じゃなかったのだ。

 今日はカクレの日……何人なんぴとも、神社に入ることは許されない。

 ならばタケマルが今いる、この位置はどうなのか。

 ここはもう、神社の内側なのか?

 あと一歩か、それとも半歩か……。

(ああくそ、こえぇよちくしょう……)

 と、久しぶりの深刻な恐怖に身を震わせていたタケマルであったが、それでもなお動くことなく懸命に拝殿の中に目を走らせることができたのは、ひとえに子どもたち……もちろん、スミレを含む村のみんなの身を案じているがゆえであった。

(まさかスミレまで……)そう思うとタケマルはあの不敵な笑顔を……ああだこうだと文句を言いながらも、なんだかんだ大事なときには一緒に来いと言ってくれる、スミレの大きな瞳を思い出さずにはいられなかった。

(おいおい、まじかよ……俺って、こんなにアイツのこと心配してたのか?)タケマルは無理やり笑顔を頬に引きずり出す。

 否、スミレだけではない。

 もしこの場にスミレがいないのだとしたら、ヨシは……みんなは……。

 ゲンが唐突にいなくなったこと。あれだって、スミレが糸を引いているならありえると思った。それなのに……。

 今日は、カクレの日。

 恐ろしきタタリ神様。

 こんな馬鹿なこと、あるはずが……。

 と、タケマルはこの時点で、かなり気持ちが参り始めていた。立ち入ってはならないと言われている神社の中に、意を決して飛び込んだ先に待ち受けていた尋常ならざる悪臭。いくらタケマルが村の中では現実的な思考の持ち主といっても、この状況下では、タタリへの予感におののかずにはいられなかった。

 だからこそ……。

 すでに逃げる向きへと体が傾いているのを感じながら、タケマルは、ほとんど祈るような気持ちで、その名を呼んだ。


「……スミレ?」


 存外に冷静な声が、静かに闇を引き裂いて、低く濃く、頭のうちに木霊こだました。

 この場には似つかわしくないと思えるほどあまりにも平坦な……それでいて大きく響く声であったために、タケマル自身が何よりも驚いたくらいだった。

 空気が変わった……なんとなく、そんな風に思えた。

 自分よりも冷静であった自分の声に、心を落ち着けられたかのように頭が冴えて、鼓動がほんの少しだけ静かになる。悪臭は相変わらずの濃さで拝殿から染み出してきてはいるが、鼻が慣れたのか、幾分臭さもマシに思えた。

 ……この匂いも、あるいは、探しに来た大人を追い払うためにスミレが用意した罠かもしれない。彼女なら、それくらい突飛なこともやるかもしれない。今もきっと暗闇の中で息を潜めて、タケマルの狼狽えるさまを嘲笑って……。

(神社に隠れるスミレか……)

 ふとタケマルは、昔のことを思い出した。

 それは、スミレが親とひどくケンカして、死ぬほど叱られた挙句に逃げ出してしまったある日の夕方だった。スミレが、タケマルはともかくチユリまで放ったらかしでどこかへ消えてしまうのは珍しいことだったので、仕方がなくタケマルはここかと思える場所をアチラコチラと探し回ったのだが、村の周辺には影も形も見えなかった。だけど、スミレが村の遠くに行ったとはどうしても思えなかったタケマルは、最後の可能性としてわざわざ神社まで上り詰めて、今日のように拝殿の中を覗き込んだ。

 神社の中は暗く、人っ子一人いないように思われたので、無駄足かとも思ったのだが……。

 諦めかけた瞬間に、いきなりスミレの声が彼の耳に届いたときにはたいそう驚いた。

「なんだよ、鬱陶しいな……」

 びっくりしつつも慌てて脇を見てみれば、そこにはスミレが、いかにも面倒くさそうに苛つきながら、膝を抱えてうずくまっていたのだった。

「わざわざこんなところまで探しに来たのか? 弱虫め……まだ私と一緒じゃなきゃ寂しいのか」

 あからさまな挑発に幼かったタケマルは少しムッとしたけれど、でもすぐに気を取り直して、持ってきた握り飯を差し出した。

 スミレはこの日、何も食わないまま行方不明になっていた。というか、親を怒らせたせいで飯抜きにされていたのだ。だからきっと腹を空かせているだろうと、タケマルはスミレを探していたのだ。

「これ……腹、減ってるだろ」

 そう言って握り飯をスミレの顔の前に突き出したときの、アイツの表情は忘れられない。一瞬だけ、本当にただポカンとしたみたいに目を丸くしたスミレは、すぐにシッチャカメッチャカに取り乱して、怒鳴りながら、タケマルを殴りつけようと拳を振り上げた。あんなに焦るスミレをタケマルは知らなかったので、こっちもひどくビックリしたのを覚えている。

 あのときは、スミレがなんであんなに怒ったのか……というよりも、焦っていたのかが、わからなかった。

 無論、今ならわかる。

 スミレはきっと……その握り飯を持って自分を探していたのは、チユリだったと気がついたのだ。そしてタケマルが、スミレに必ず届けるのを約束して、自分を探していたことでさえ、わかっただろう。

 スミレは、傍若無人に人にものをやらせることはなんとも思わないのに、先手を打つように気遣われるのは大嫌いだ。きっとこの日のタケマルの行為は、珍しいことだけれど、スミレの予想外だったに違いない。

 普通なら苛立つだけの結果で終わることだけれど……あのときのスミレは、本当に腹が空いていたんだろう。

 自分がごめんとか、ありがとうとかって、一瞬でも思ってしまったのを、彼女は受け入れたくなかったのだ。

(まったく照れ屋というか根性曲がりというか……)震える頬でタケマルは苦笑する。それで結局スミレは、彼が持ってきった握り飯も意地を張って捨ててしまった。その時は本当に残念な気持ちになったのをタケマルは思い出す。

(あの握り飯はなあ……)

 ふと、追憶がかき乱されて、停止する。

 偶然か幻か、あれだけ絶え間なく唄い続けていた蛙が、ほんの一瞬だけ鳴き止んだのを感じて、タケマルは我知らず耳を澄ませた。

 重たい深閑が耳を襲う、静寂の狭間。

 ガタッと、何かが動く音がした。

 戦慄が彼の全身を這いずる。

「……っ!?」

 思わず逃げ出そうとした体を、入り口にかけていた手に力を入れることでなんとか押さえながら、タケマルは愕然と闇を睨みつけた。

 何かが、闇の中を動くのが見えた。

「す……スミレか!?」

 震える声で、そう呼んでみた。

 だが答えたのは蛙だけ。

 ゲエーゲッゲッゲ……ゲゲ……。

 揺らめく赤い灯火を頼りに、タケマルは拝殿の中に注意深く視線を這わせた。一見して、神社の暗さに変化は見られない。居並ぶ人形の棚も、蛙石のも、全て元のまま、漆黒をおぞましく彩り続けているように思える。

 だが……。

 タケマルは、この時初めて、気がついた。

 蛙石の前、正面の床にベットリと残る、黒々とした汚れのあとに。

 それは誰がどう見ても、血の水たまりだった。

 感傷が吹き飛ばされ、血の気が引く。

 よく叫ばずにいられたと思えるくらいに、心臓がすくみ上がった。

 同時に布をこするような音が、気のせいかと疑うほどに幽かではあるが、断続的にガサガサとささやき始める。

 何かが、いる。

 葛藤が、彼の頭を巡った。恐らくは一呼吸のうちに、一夜分の考えが、展開されただろう。

(ヤバい……ヤバいヤバいヤバい。これは、もう、ダメなんじゃないか? 流石に逃げるしか、ないか? というか、血溜まりだと? じゃあこの匂いは、本当に……ここで誰かが、死んだ? ウソだろ……おい……お、俺も逃げないと……あぁ、だけど、これがもし本当に血なんだとしたら……ヨシたちは、ここにいるのか? ひょっとして、まだ生きているかもしれない? 待て待て、俺がここで逃げちまったら、それこそあいつらは……今の音だって、もしかしたら、子どもたちの誰かかもわからないじゃないか……というか、普通、そうだろ? でなきゃこんな時間に、何が神社にいるってんだ? じゃあ俺は逃げちゃダメだろ……だけど……)

 声にならない引き攣った笑いが、彼の喉をクククと震わせた。

(……あぁ、やっぱスミレってすげえわ……アイツはきっと、こんな状況でも神社の中へとズケズケと進んでいけるんだろうな。こんな……おっかなくて、息もできないようなところに……)

 シーン……と、静寂しじまが耳を突いた。先ほどらい響き続けていたさつ音がピタリと止んだのだ。

 かと思うと、すぐにゴトリと硬い音がそれに続いて、誰かが苦しそうに喘いだ……気がした。

 また彼の体に金縛りのような硬直が全身に走り、その場に釘付けになる。

 汗が首筋をダラダラと伝っていた。

(誰だ……)

 心臓が、桁外れの音を発している。

 恐ろしいものが現れた場合に、ごうも迷わず逃げる準備を整えて……。

 そして……。

 ゴトンと、向こう側……蛙石のの右にある棚の影から、ふいにそれは現れた。

 息を呑む。

 影からヨロヨロと這い出たのは……髪の長い、一人の女の子だった。

 弱々しく、疲れ切った有様で……背中を突き飛ばされたかのようにふらついて……チユリが、蛙石の前に倒れ込んだのだ。

 瞬間、タケマルは神社の中へ駆け出していた。

「ち、チユリ!? 大丈夫かっ!?」

 凍えているように頼りない動作で、チユリはタケマルを振り返る。その体は裸で、アチラコチラに血とおぼしき飛沫しぶきのあとが染み付いている。

 逆光の中、見えにくかったその表情が、一歩一歩近づくに連れて、少しずつ浮き上がってくる。

 涙で目を腫らし……殴られたあとをはっきりと頬に残した、痛々しいチユリの姿。

 その口元が、幽かに動く。

 こちらに手を伸ばして、口をいっぱいに広げて……涙をボロボロと流しながら、何かを必死の思いで、訴える。

「来ちゃだめ……」

 その声が彼の耳に届いた、その瞬間。

 視界の端で、何かが動いた。

 棚の影から、すっと何かが、伸びてくる。

 ドキリとして、体が強張った。

(あっ……スミレ……)

 鼓動と鼓動の狭間はざま、急停止して手をかざしたタケマルの腕をかいくぐり、しゃがんだまま懐に飛び込んできたスミレの顔に、視線が引き付けられる。

 見下ろす格好になった彼の眼前に迫る、黒い物体……その後ろで、鬼気迫る眼光を光らせている、青白い肌のスミレの形相。

(スミレ……お前……)

 コツっと、アゴに硬い何かが触れた……それを確かめる間もなく、キーンと耳の奥で音が鳴り、地面がフッと、消え去った。

 何かが砕ける衝撃が鈍く頭へと伝播して、すぐに何も見えなくなる。

 最後に瞼の裏に残った残像……スミレの、表情……。

 見下ろしたスミレの顔は、なぜだろう……つい先ほど脳裏に巡った幼きあの日と同じものに思えた。

 だからタケマルも、また残念な気持ちになった。

(あの握り飯……飯抜きだったお前のぶんを、チユリが我慢して残してくれてたんだぞ……)

 破裂音が、頭蓋に響く。

 目が飛び出そうなほどの衝撃が、アゴから頭上にまで一直線に突き抜けて、そして……。

 刹那に凝縮された、骨の砕ける痛みの膨張……思考も追憶も全て吹き飛ばしてしまったそれが、タケマルの最後の感覚だった。

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