あふれかえる
鳴き止まぬ蛙の声。
場をわきまえぬ湿気った渇きを、ゲゲゲ、ゲゲゲゲと吐き出し続ける蛙たちの唄は、腐臭漂う神社の暗闇の中に奇怪なほどつぶさに絡みつき、ひれ伏すカヤの臓腑をグラグラとかき乱していた。
こんなことではいけないと、彼女は膨らみの目立ち始めたお腹を擦る。
焦ってはいけない、心を乱してはいけないと……身重を察した時から
カヤはそんな、自分の胸中に渦巻く言葉のどれ一つとして、意味を持った音として聞くことができなかった。
カヤの目前には、タケマルの大きな体が転がっている。
顎のひしゃげた不格好な
声が、出ない。
頭が痛い。
寒気に誘われて、濁った池のような闇の底に視線を這わせれば、白と赤の人形が、死んだ魚のようにブクリ、ブクリと浮かび上がる。
蛙石の
頭を数えたわけではないけれど、カヤは重なる血みどろのそれらの中に一つの漏れもないことを、確かめるまでもなく理解していた。
スミレ、チユリ、そしてカヤ……今、この場に生きている三人を除いた村の子どもたちが、そこに転がされている。
誰ひとりとして、欠けることなくその場にある。
低い嗚咽が、ア……あァ……と、口から断続的にこぼれ出す。
(落ち着かなきゃ……焦ったり怖がったりすると、お腹の子によくない……)
頭で繰り返す言葉には、もはや、どんな意味も与えられてはいなかった。
カヤは悲鳴を上げた。
自分の耳が聴こえなくなると思えるほどに、大音響で叫び狂った。
甲高く、金属的で、カラスのような絶叫が、漆黒の中に木霊する。
信じられないほどにやかましい蛙たちの声が、慟哭を包む。
タケマル兄。
ゲン。
ヨシ。
ヤキチ。
ソウヘイ。
イナミ。
イチロウ。
カイリ。
ジロウ。
アマコ。
ゼンタ。
リン。
みんな、死んでいた。
ゴロゴロと、汚れた床に体を投げ出すみんなの姿。そのどれ一つとして、生きている人間と思えるものはなかった。漆黒を背景にぼんやりと照らし出される一人ひとり……みんな、向きもバラバラに、冷たく体を横たえている。
じんわりと、カヤの体にどこともなく痛みが襲った。
彼女はいつもそうだった。誰かが痛がったり、怪我した時はいつも、カヤもまた痛くなる。人が怪我した場所と、同じところが痛くなる、というわけではない。ゲンが指を切ったりしたときは、思わず自分の指を押さえてしまうものだけれど、でも、痛いのは自分の指ではない。
痛いのは、ゲンの指……だから彼女も、痛くなる。ゲンの指が、痛くなる。
カヤにとっては、人の痛みは、自分の痛みだった。
だからカヤは、痛みを感じた。
細部が目につくに連れて……その傷口がわかるに従って、徐々に徐々に……気がつけば狂おしいほどに鮮烈な痛みが、彼女の内側に確かな深さで刻まれていく。
痛い。
タケマル兄の潰れた顎が痛い。
縦に裂かれたヨシの顔が痛い。
真っ赤なヤキチの頭が痛い。
形を無くしたリンの頭が、横一文字に抉られたゼンタの喉が、アマコの首が痛い。
肉を撒き散らすジロウの腹が、真っ赤に潰れたイチロウの胸が、引き抜かれたカイリの目が痛い。
平らに潰れて目玉が飛び出たソウヘイの顔が、皮を剥がれたイナミの顔が痛い。
そして、ゲン。
蛙石の下に立てかけられ、ロウソクに両側から照らし出された、ゲンの体。
虫食いのように赤い斑点や焦げ跡がボツボツと残る胴体……その周りに散らばる、たくさんの肉片。
汚れた指。
小さな爪。
柔らかい、何か。
滝のような血の跡が細くなった全身を等しく赤く染め上げているのに、顔ばかりはゲンらしい白い光を残したまま、無表情で、そこにある。耳から血が流れ落ちた跡は見えるけれど、月の光のように艶やかな顔だけは、変わらずに、壊れた人形のように、虚ろを眺めてる。
それが、痛い。
戦慄が、カヤの
ゲンの体に満ち満ちている、苦痛の証左と、その残骸。
無惨という言葉だけでは到底語り尽くせない悪夢の
なんてこと……。
これは、タタリ?
これが、カクレの日?
(でも、だからって、こんなの……)
ぐるりと、お腹が鳴る。
キュッと腹帯の内側が痛くなり、大きな腕に引き掴まれているかのように圧迫され、重たい毒気を含んだ汗がジクジクと染み出してきた。
不意にカヤは、お腹の中の命のことを意識した。
ゼーゼーと、必死で息を吸う。
(ダメ……この子だけは……)
ズズッと背後で、草履が擦れる音。
お腹を押さえながら振り返った視線の先で……スミレ姉は黙ったまま、呪われた人形のように凝然と、嘆くカヤを見下ろしていた。
カヤを神社へと
スミレ姉が村に現れる前……カヤは、おばあさんの屋敷の中の一室で、おっ父やマキ姉と一緒にじっと座りながら、手を合わせて祈り続けていた。一人で駆け出していていったタケマル兄の無事を、ヨシの無事を、みんなの無事を必死で願いながら、小さく抱き固まっていた。時間はもうかなり深かったが、とてもとても眠ることなどできなかったのだ。
心細くて、心配で、体がどうにかなってしまいそうになるのを、彼女は親しい人の体温で繋ぎ止めようと必死でもがいていた。
だが……。
スミレ姉が軒先の影から顔を出したあの時ばかりは、カヤは一人だった。
力持ちのおっ父は、外で暴れだしたというケイゴさん……イチロウたちのお父さんを抑えるために駆り出され、マキ姉は、心労で倒れてしまったシズさんを支えに、屋敷の
ゆえに、スミレ姉がふらつく足取りで村に戻った時、カヤは一人だった。
八間の明かりに影が差したように感じて、閉じていた目を開けた先にいたスミレ姉……思わず叫びそうになったカヤの口を押さえて、シーッと指を唇に押し当てていた、暗い相貌……。
そのとき、カヤは本当に一瞬の間のことではあるが……子どもたちのことも、タケマル兄のことも、お腹の子のことも忘れて、目の前にいるスミレ姉の、見たこともないような有様に仰天してしまっていた。
赤みがかったロウソクの光にぼんやりと照らされた、額に髪がべったりと張り付くスミレ姉の
つまりは、とても不安定な状態に思えたのだ。
「助けて……くれ」
スミレ姉は、カヤに向けてそう言った。
カヤは本当に驚いた。助けてという言葉以上に、スミレ姉の佇まいがあまりにも見慣れないものだったのだ。普段のスミレ姉にあふれているあの自信、割り切れたガサツさ、予想もできない言動の数々……普段は絶対に乱れない、スミレ姉だけが持つ強さがまるでどこにも見当たらなくて、まるでアマコかジロウのように、あまりにも頼りなかった。
そして何より、恐れていた。
大人のことを。
自分のことを。
タタリのことを。
カヤのことを。
スミレ姉は、明らかに普通じゃなかった。尋常じゃないと言っていいくらいだった。
そしてだからこそ、カヤは……スミレ姉と共に、神社へ向かうことにした。
スミレ姉が、こんなにも
それでも。
ごめんなさい、ごめんなさいと……何度も心のなかで繰り返しながら、カヤは息を切らせて、階段を上った。
信じていたのだ。
みんながまだ、生きていることを。
途中からスミレ姉に背負われて……それでもなお、苦しいなんてものじゃあなかった道のりを越えて、ここまで来た。
本当はカヤも……ずっと神社に行きたかった。
みんなことが心配だったから。
だが……。
転がるタケマル兄の体の向かい側……ゲンの体の直ぐ側で。
蛙石の
「おね……ぇちゃん……なん……で……カヤまで……」
その声にこもる悲痛。
その涙に映る苦悶。
あからさまな絶望。
カヤは、理解した。
スミレ姉の不審な態度や、不安定な言葉、迷いや焦りまでもが……どういう意味であったのかが、わかった。
わかってしまった。
「スミレ姉……」カヤは呆然とスミレ姉を見上げながら、つっかえる喉の底から必死の思いを絞り出した。
スミレ姉は、何も言わない。
「スミレ姉が……やったの……?」
山よりも重たく、湖よりも深淵な問いが、
ロウソクに煌々と照らされたスミレ姉の表情が、そよ風に吹かれたかのようにわずかに揺らめいた。
「そう……見えるか?」
ドロリと、頭が重たくなった。
ガラガラと足元が崩れだし、世界のすべてが希薄になって、自分が今、いったい何を想っているのかさえわからなくなった。
「どう……いうこと……」幽かな声が、喉から漏れ出す。
「さあ……よくわかんねえな」
「もうやめてぇ……っ!」背後でチユリが、かすれた声で叫び立った。「お姉ちゃん……もうやめてよぉ……カヤは、カヤは……お腹にぃ……」
お腹に……。
思い出す、大切なもの。
まだ、生きている命。
思わずお腹をかばったカヤの仕草……それを見てからの、スミレ姉の行動は早かった。
ガタリと、大きな影が揺らめいた……と思う間もなく、顔に鈍く、熱い感触。凄まじい力に押し出されて、痛いと感じるよりも早く倒れ伏したカヤの腕を、スミレ姉はムズリと掴んだ。
心音が、ありえないほどの音量で、高鳴った。
「ひっ……いやぁ!!」
カヤは暴れた。頬がジンジンと腫れだすのを感じながら、スミレ姉から離れようともがいた。
が。
ドスリと、顔の真横に、刀が突き刺される。
血の気が凍り、また、お腹が痛くなる。
「暴れたら、腹の子を刺す」魂を凍らせるほどに冷徹なスミレ姉の声が、息を吹きかけるように、耳元でささやく。
お腹の子……。
その存在を意識させられただけで、カヤはピクリとも動けなくなった。
肩を乱暴に曲げられ、丁寧に腕を縛るスミレ姉の怪力……伝わる体温、息遣い、近さ……その全てに途方も無いくらいの恐怖を覚えながらも、体は凍ってしまったかのように、身じろぎ一つ取れなかった。
殴られた頬が、ジンジンと潰れてしまったみたいに痛み続ける。
腹ばいに押し付けられお腹が圧迫され、胸が詰まった。
何もかもわからなくなってしまいながらも、必死に、少しでもお腹を浮かせる。
「待って……この子だけは……」必死で紡いだつもりの言葉は、音にすらならなかった。
縛られたまま、カヤは胸ぐらを捕まれ、ぐるりと仰向けにひっくり返される。
息を切らすスミレ姉の顔は、怖いなんてものじゃ無かった。
スミレ姉は……スミレ姉じゃない顔で、笑っていた。
「やめて……おねがい……たすけてぇ……スミ……レ……姉ぇ……」カヤは必死で声をしぼった。気味の悪い笑顔の奥にいるはずのスミレ姉に、なんとか思いを届けようとした。
「カヤ……」右の手でカヤのアゴを掴みながら、スミレ姉は、ヘラヘラと笑う。ほんとは笑ってないくせに、とても醜く笑っている。「お前に聞きたかったんだよ……なぁ……」
長く、白い指先が頬を撫でる。涙を拭くように、おぞましく、舐め回す。
「カヤぁ……これ、どう思う?」スミレ姉は、釣り針で無理やり肌を引っ張ったみたいに歪んだ笑みを口元に貼り付けたまま、カヤの瞳の底を覗き込んだ。「わかるだろ……みんな死んだんだ。私が殺した……全部殺した……なぁ、どう思う?」
「スミレ……姉ぇ……」
「どう思うって聞いてんだよっ!!!!」
耳を
蛙のように開いた口。
伝わった、確かな殺意。
じわりと、目頭が熱くなった
ダラダラと、涙が頬を真っ直ぐに、伝っていく。
ハチャメチャな心の中に、確かな念が、形を取る。
「スミレ姉は……何も思わないの?」
「…………」
「……死んでるんだよ? ねぇ、スミレ姉……」
思い浮かぶ、みんなの姿。
「死んじゃった……リンが……ゼンタが……カイリが……」
自分の口から、その名前がこぼれたとき。
カヤはとてつもなく、悲しくなった。
「ジロウが……イチロウが……っ」
段々と、声が大きくなる。
「ソウヘイが……ヤキチがぁ……」
名前が一つ溢れる度に、重たいトゲが、胸のどこかに深く突き刺さる。
「イナミ……ヨシぃ……」
後ろでチユリも、グスリと泣いている声がする。それを聞いて、カヤももっと、悲しくなる。
「アマ……コ……ゲン……が……」
ビリっと、胸が震えた。
ふいに重たい石のような何かが、喉の奥からせり上がってきて……そして……。
想いが、
「どうして!? どうしてなのスミレ姉ぇっ!!」
大きな声だった。
まっすぐな気持ちだった。
「なんでっ……なんでこんなことしたのよぉ……」
吠えながら、カヤはワンワンと泣きじゃくった。
子どものように幼い気持ちで、ひたすら涙を流した。
「うう……うあぁ………………うえぇぇぇ……ん…………」
「わからない……わからないんだよ」歯切れの悪い、スミレ姉の言葉。「私が何をしたのか……全然……しっくりこないんだ……」
「ウソよっっ!!!!」
カヤは、叫んだ。
スミレ姉の表情が、わずかに動いた。
「だってスミレ姉も……タケマル兄のこと……」
タケマル兄……。
カヤの、夫。
大切な人。
そして……。
「……タケマルが……なんだってんだよ……」スミレ姉は、口元だけボソボソと動かして、どことなく苦しそうに声を紡いだ。
……やっぱりそうだと、カヤは思った。
スミレ姉が思っているよりも、スミレ姉にとってタケマル兄の存在はずっと……。
「スミレ姉は……タケマル兄まで殺しちゃったから……村に来たとき、あんなに……震えてたのよね?」声を震わせ、鼻を垂らしながら、カヤは必死の思いを、スミレ姉に向かって語りかける。「そうでしょ……?」
「……違う」
「うそよ……本当は……ひどいことしちゃったんだって……わかってるのに……」
「うるせえ……」
「ねえ、スミレ姉……もう、タケマル兄はいないんだよ……?」
もう、いない……。
自分で口にしたその言葉に、胸が、引き裂かれる。
そして確かに……スミレ姉の瞳にも、動揺が
世にも悲痛なチユリの泣き声が、一段と大きくなる。
「もういい……黙れよ……」
「あんなに一緒に遊んでた……タケマル兄のこと……殺して平気なわけない……」鼻声で、なおも尽きない想いを訴える。
「その名を……」
「お願いスミレ姉……否定しないで……」
蛙が一声、せせら笑った。
「だってスミレ姉は、タケマル兄のこと……」
「その名を出すんじゃねえっっ!!!!」
スミレ姉が、ガラガラに枯れた叫び声を上げたと同時に、肩から胸にかけて一筋、熱い感覚がぬるりと滑った。
……っ!?
ついで怒りに任せた蹴りが、カヤの頭に降り注ぐ。
「なんだよ、惚れてたんだろとでも言いたいのか、あ!? てめえと一緒にすんじゃねえよ!! 私を誰だと思ってるっ!!!」
グラグラと頭が揺れて、目の前が暗くなる。
……そういうつもりではなかった。スミレ姉がそういう人じゃないことは、カヤもよくわかっている。
スミレ姉にとって、タケマル兄は大切なタガであったと、カヤはそう言いたかったのだ。
だけどもうスミレ姉は……人の言葉を聞ける状態ではなかった。
「あぁ、くそ!! なんだこれ!! どうしちまったんだ!! なあ、教えてくれよカヤ、なんで……なんで、こんなことになってんだよっ!!?」
赤い血が、着物の上にじんわりと滲んでくる。
体を……斬られた。
今まで感じたことのない、未知の緊張。
きっと、ホンモノの戦慄。
怒りに呑まれたスミレ姉が、何かを振りかぶる動作を見て、心臓が止まりそうになる。
蛙が、鳴く。
ひっ……いやぁ……。
「やめてっ!! スミレ姉ちゃん!!!」チユリの叫びが、必死の気持ちを伴って頭上で響いた。「カヤのお腹には……タケマル兄の子どもがいるんだよ……ぉ……っ」
ピタリと、スミレ姉の動きが止まった。
カヤはお腹だけ庇おうとなんとか腹ばいになろうとしたのだが、肩を踏まれ、無理矢理に姿勢をそのままに固定される。
足の裏に触れた傷口が、ジンジンと痛みを訴える。
「ははははは……」
スミレ姉は、笑う。
最初は静かに……徐々に徐々に魂を削るほどに不気味に声音が上がっていき、最後には甲高い声で、狂笑する。
キンキンと、耳が痛んだ。
「あぁ、そうだよな、チユリぃ……」
血走った目が、カヤを見下ろす。
「そうだな……私はちゃんと、みんなを殺さなきゃいけないんだよな…………」
そうつぶやきながら、スミレ姉は、カヤの股の間に刃を差し入れた。
蛙が鳴く。
蛙が、鳴く。
「待って、スミレ姉……おねがい……」
最後の一人の悲鳴が、神社の闇の中に、木霊した。
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