うらがえる
頭の中に焦りと怒りが同時にフツフツと沸き立っているのを感じながら、ヨシは石の階段を、できる限りの早足で上り詰めていた。時間はまだ夜ではないのだが、すでに太陽は湖の向こうへと沈んでしまったらしい。木々に囲まれているせいで普段から薄暗い参道は、今や一段一段を見誤りそうなくらいに黒く、危うく
だが今、ヨシの頭の中を占める怒りの大部分は、この階段を上ってこない大人たちに対しての、悔しいとも言えるほどの不甲斐無さだった。
今日はカクレの日。それは確かだ。この日は誰もが神社には立ち入ってはいけないことになっているのも当然、ヨシは知っている。村の大人たちが、どれだけタタリを恐れているのかだって、わかっているつもりだ。
(だけど……だけど!)高鳴る心臓を、彼女は歩調を早めることで無理やり体になじませる。(だって、みんな行っちゃったんだから、追いかけないなんてありえないでしょ!)
大人たちが続けていた煮え切らない論争……助けに行くか行かないかというありえない迷いに苛立つあまりに、ヨシは一人、参道前の広場で騒いでいる輪を抜けて駆け出してしまった。イナミたちがここを上って行くのを見たとアマコが言っているのに、いったい何を悩む必要があるというのか。
大人たちは焦るばかりで、意見がまるでまとまらないまま、無駄な言葉だけをグルグルと渦巻かせていた。イチロウたちのおっ
ヨシには、村の大人たちの薄情さも勇気の無さも理解できなかった。カクレの日に神社に立ち入ることに大人たちは恐ろしく
そして、彼らは帰ってこない。
ならば助けに行くのは当たり前だ。
……と、心では結論づいていながらも、実際のところヨシの怒りは心細さの裏返しであったことを、彼女自身も重々に理解していた。
コツっと硬い音がして、ヨシは思わず振り返る。だがそこには何もないし、誰もいない。きっとヨシが気づかずに蹴飛ばした小石か何かが、近くで跳ねただけなのだろう。それでも彼女は数秒の間立ち止まって、誰かが自分を追ってくるのを待ってしまった。
(嘘よ……なんで誰も来ないのよ……)
と、たとえ泣き言を言いたくなったとしても、妹たちへの心配がそれを上回って、また階段を一歩一歩上りだす……その優しさが、ヨシという人間の原動力であった。
だが、それでも、まさか本当に誰も追ってこないとは、彼女は思ってもみなかった。ヨシが一人で駆け出せば必ず大人たちも追いかけてくると、そう信じていた。少なくとも、子どもたちが神社にいないかもなんて言っている大人たちは、絶対に追ってこなければおかしい話だ。他の子たちはともかく、ヨシだけは確実に神社にむかったことがわかっているのだから。
最低限、今できることをする……事なかれ主義は役に立たない……生まれたときからその感覚を備えていたヨシには、自分の
ヨシは階段の途中で一度、できる限りの時間を待ってみた。急いで妹たちのもとへ向かわなければいけない中で、彼女らしからぬ時間を消費して、ただ待った。
ヨシにとっても、カクレの日の神社が恐ろしくないはずはなかったのだ。
森は両側から迫るように黒々と葉を揺らし、立ち止まっていると、鳥肌が足元から虫のようにじわじわと這い上がってきて、居ても立ってもいられなくなる。それでもヨシは、誰かに来てほしいと、自分を呼ぶ声を待たずにはいられなかった。
それだけに、誰も追いかけてこないことを知ったときの落胆もまた、深かった。
ひどい……と、彼女は心の中で、独りごちる。
大人たちは、みんなやヨシがどうなってもいいのだろうか。
(死んじゃったらどうする気なのよ……)
死。
ふいに頭をよぎってしまったその言葉を振り払うように、彼女は歩調を速める。考えすぎだと、必死で頭を振る。きっとこれは、ヤキチあたりがスミレ姉に触発されて考えた、やりすぎなイタズラなのだ。だから、ちゃんとヨシが叱ってやらなくちゃいけない。彼女が叱って、そして、彼女がみんなと一緒におっ母たちに謝らなくちゃいけない。それだけのこと……。
……と、心で何度念じても、暗くなり、凍えるほどの寒さを発し始めた夜の闇の中で、悪い予感をおさめることなどできるはずがなかった。
いくらなんでも、こんな寒い時間まであの子たちが、イタズラ目的だけで神社にとどまるのはおかしい。リンとゼンタまで連れて、この階段を上るなんて普通じゃない。
(いや、きっとそうだ。みんな、調子に乗ってるんだ。そうじゃないと……だって……)
そこまで考えて、ヨシは走った。
これ以上は立ち止まれない。
立ち止まったら、悪い考えに追いつかれてしまう。
ヨシは、自分の臆病さから逃げるように、冷たく濡れた石の参道をひたすらに駆け上った。火がついたように痛みだす太ももを引っ張って、それでもヨシは走り続けた。額から伝った汗が口に入り、しょっぱい味を染みさせる。
こんな時に限ってタケマル兄がいないのが、ヨシはとても心細かった。きっとタケマル兄なら彼女を追いかけて来てくれたことだろう。いやきっとヨシより先に、子どもたちを追いかけたに違いない。タケマル兄はそういう人だ。よく一緒に遊んでいたスミレ姉の影響か、彼はいざという時にはとても度胸がある。昔、今よりやんちゃだったヨシが波立つ湖で溺れかけたとき、誰よりも早くそこに飛び込んで助けてくれたその日から、ヨシは、タケマル兄を信頼すると決めていた。
だけど、そのタケマル兄は今、村にいない。タケマル兄はヌマの向こうに行ってしまった。今日はタケマル兄が、外の町で仕事をする初めての日だったのである。
だから誰も、ヨシを追いかけてなんてくれない。
自分を追いかけてくれる人がいないということは、つまりは、ヨシ以外に、妹たちのもとへと行ける人がいないという意味……。
ふと、スミレ姉の顔が、ヨシの頭をよぎる。スミレ姉とチユリもまた
スミレ姉がいてくれたら……そう思うと、ヨシは複雑な気持ちになる。
ヨシは、スミレ姉のことがどうも苦手だった。というよりも、怖かったのだ。暴力的で人の話を全く聞かず、それなのに誰よりも賢くて……クビソギの正体がスミレ姉だと気がついたとき、ヨシは何も言えなかった。本当はもっと怒るべきだとか色々と考えたのだけれど、スミレ姉を前にすると、いつも喉がきゅっと狭くなって、言葉が紡げなくなってしまう。
きっとそれは、昔一度だけ、彼女が手ひどく殴りつけられたのが関係あるのだろう。ヨシの心の中にはずっと、あの日のスミレ姉の恐ろしさが染み付いている。
それでも……ヨシが髪を縛るのは、少しでもスミレ姉に近づきたいがため。
自分たちの価値観とは全く外れたところで生きるスミレ姉に、一番憧れを抱いているのはきっと自分だろうと、ヨシは思っていた。
スミレ姉ならこんな階段、悠々と笑顔で上っていくに違いない。今、彼女に必要なのは、そういう勇気だ。
ヨシは急いだ。
急ぐあまりに、蛙たちの脅かすような声も耳に入らず、石段にどす黒く染み付いていた血の跡さえも見落として、子どもたちが待つ神社へと走っていった。
(お願いだから……みんな、無事でいて……)そう祈る彼女の心に、蛙の鳴き声だけが答えていた。
ゲコッ……ゲココココッ……ゲゲ……。
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