のりかえる 二

 心臓がバクンと強烈に響き、何かが頭に噛み付いた……そんな幻覚に、ジロウは思わずカイリの腕にしがみついた。

 神社の入り口から、木の枝のように突き出ている顔は、スミレ姉のもの。

 ある意味妖怪よりも恐ろしいスミレ姉が、今、神社から、固まるジロウたちを見下ろしていた。

 蛙がゲコゲコ、鳴いている。

 こんなに寒いのに、唄っている。

 じんわりと、ジロウは喉元に何かが這い上がってくるのを感じた。

 彼らを睨むスミレ姉の顔が、ジロウはとても怖かった。

 そしてとても、暗かった。

 神社の敷地は、今や月も太陽もない空の下、隣のカイリの表情もわかりにくいくらいに黒く曇っている。スミレ姉の顔だってほとんど影法師みたいなもので、ジロウのいる場所からは、髪が短いってことくらいしかわからないほどだったのだが……。

 真黒いの影の中、スミレ姉の、鳥のように大きな大きな瞳だけが、大きく丸く、光っていた。

 普段からどことなく人間離れして感じられるスミレ姉が、本当に妖怪になってしまったと、ジロウはそんな気がした。

 その瞳から彼が読み取れたのは、驚きと、苛立ちと……。

 そして、集中。

 スミレ姉は、おそらくはジロウたちには想像もつかない速度で、頭を働かせていた。この暗闇の中でジロウにそれがわかったのは、彼が、スミレ姉が集中しているときの表情を知っていたからである。チユリ姉が極稀に五石でスミレ姉を追い込むと、こういう目をすることがある。ジロウ自身は、五石でスミレを迷わせられたことなど一度もない。

 もし、時間がもう少し早かったなら……神社にわずかでも陽の光が差していたのなら、ジロウはスミレの顔に浮かぶ表情から、混乱と焦燥も読み取れたことだろう。立て続く予想外の事態に、必死かつ悪魔的な速さで対応策を練る彼女の意図に、あるいは気がつくことができたかもしれない。

 だが、空は青さが黒へと変わりつつある頃であり、巨大な老人の指のような木の枝は、空に残されたほんのわずかな光でさえも、冷たく、無情に閉ざしていた。

 カイリの手が、ジロウの肩にかかる。

 しばらくみんなが、何がなんだかわからないまま、ピクリとも動けず黙り込んでいた。イナミ姉の目線だけが、イチロウ兄たちとスミレ姉の間を行き来する。

 ジロウは心のなかで、何かが大きくなっていくのを感じた。何かはわからないけれど、良くない何ものかが……。

 今にもそれが、喉から爆発しそうな予感が……。

 ふと影法師から、一瞬だけ目が消えた。その瞬間だけ、やかましかった蛙や虫たちの鳴き声さえも、ピタリと止まってしまったような気がした。

 風に混じり、スミレ姉のため息……あるいは深呼吸の音が、かすかに伝わってくる。

 この一呼吸の間だけ、ジロウは……あとから考えれば、人生最後であった落ち着きを取り戻した。

 なぜ……。

 なぜ、スミレ姉が神社の中にいる?

 ヤキチ兄はどこだ? リンとゼンタは大丈夫なのか?

 というか、カクレの日なのになんで神社に……と、

 ジロウは懸命に理性を振り絞った。

 だが、しかし。

 ふいにスミレ姉がバッと神社を飛び出して、雷鳴のように鋭い叫び声を上げた途端、ジロウの頭は雨の湖のように激しく泡立って、冷静な思考など跡形もなく吹き飛んでしまった。

「何をしてるっ!!」

 その声は甲高く、耳障りで、聞くだけで全身が硬直するほどに強い力を発していた。リンのような幼い癇癪かんしゃくと、タツミさんのように威圧的な鋭い怒気……そのどちらをも含んでいるように思える、モノ凄い叫びの声であった。

 イチロウ兄とソウヘイ兄、それにイナミ姉までが、ほとんど聞いたことのないようなスミレ姉の怒号に射竦いすくめられる。

 タッタ一声だけで、みんな動けなくなった。

「なんでここに来た!? バカやろうどもがっ、ここは危険だぞ!」

 そして、ジロウは……。

「早く敷地に入れ! もう帰るには間に合わねえ!」

 張り詰めていた神経に、怒鳴り声という衝撃が加わったその瞬間。彼は膝から、腰砕けに崩れ落ちた。

 ゼンタのように、リンのように、まったく自分でも予想していなかった有様で、うわっと大声を上げて、泣き出してしまった。


 うっ……うぇぇ……うあぁ……。


 おぇ……ゲホッゲホッ……うぅ……。


 うあああああああああああああん……。


 暖かい腕が、すぐに彼の背に回される。

「だいじょうぶよジロウ! だいじょうぶだから!!」と、カイリが耳元で、必死でジロウに言い聞かせる。「じ、ジロウは来たくて来たわけじゃないのよ、ね!? 疲れたのよね!? お、お願いスミレ姉、怒らないでっ!!」

(あぁ……そうか)

 涙とともジロウは、ようやく自分が何をしたかったのか理解した。

(僕はただ、泣きたかったのか……)

 こんな寒い日に、こんな怖い思いをさせられて、疲れ果てるまで歩かされた……ただそれが辛くて辛くて、子どもの彼は泣きわめきたかったのである。

 同時に彼は、カイリがここにいる本当の意味も、理解した。

 カイリはただジロウのことが心配で、ここまでついてきてくれたのだ。

 胸の奥が熱くなり、涙がいっそう溢れ出した。

 カイリが、慌ててジロウの肩を抱いて、周りに彼が疲れていると伝えた、その早さ……カイリにはとっくに、ジロウが泣きそうなことがわかっていたのだろう。

 だからずっと、彼の隣にいてくれた。

(カイリだって怖かったはずなのに……カイリのほうが怖がりなのに……)

「なんっっでこんなところ来ちゃったのよ! イナミのバカ! ソウヘイのバカ! イチロウのバカ!」と、カイリもまた、涙声で叫んでいた。きっとジロウのために、泣いていた。「ジロウの足じゃここまで来るの、つらいに決まってるじゃないっっ!!!」

(あぁ、僕ってなんて、情けない……)

 優しいカイリの暖かさを感じながら、涙を必死で拭いつつ、なんとかジロウは前を見ようとした。イチロウ兄たちや、スミレ姉が、どんな顔をしているのか見ようと思ったのだ。

 だけどもう、涙で曇った目には、神社の闇は暗すぎた。

 何もかも、遅すぎた。

「わかった、わかったから……だが、泣いてる時間はねえんだ」スミレ姉が、やや語気を緩めつつも相変わらずに怒鳴っている。「今日はやばいんだ、早く敷地内に入れ! 死ぬぞ!」

「え……でも……だけど……」と、急にしどろもどろになった、ソウヘイ兄の声。

「いいから急げ! グズグズしてるヒマはねえ!」スミレ姉は、かつてジロウが聞いたことが無いほど刺々しく、焦りをにじませた声で叫び続ける。「カクレの日ってのはな、神社に入っちゃいけない日じゃない! 神社の周りが危ない日なんだ! お前らもヤキチのようになりてえか!」

 ヤキチのように……。

 そこからの話は、あまり聞こえなかった。

 慌てたイチロウ兄たちに引っ張られ、神社の敷地をあっさりとまたいでしまっても、何も感じなかった。

 本当にただ、ジロウは泣きたかった。

 苦しかった。

 疲れていた。

 一つしか歳の違わないカイリの胸で、ずっと泣いていた。

 参道の長さと闇の恐ろしさは、賢いジロウを、ただの幼い男の子に戻すには十分なものだったのである。

 気がつけば、みんな神社の前に集められ、スミレ姉に威圧されるがままに、冷たい地べたに正座をしていた。スミレ姉の無闇に心を急かすような言葉遣いもまた、ジロウの涙が止まらなくなった理由である。

「お前ら、なんでこんなところに来ちまったんだ? 今日がいつだかわかってんだろ?」

 と、叱るような調子で問い詰めてくるスミレ姉に、今さらオドオドと焦りだした三人があれこれと弁解をしている。きっと順序はめちゃくちゃで、要領を得ない説明になっていたと思うけれど、スミレ姉はきっとすんなりとあらましを理解して、爪を噛みつつ頷いていた。

「す……スミレ姉はなんで、ここにいるの?」ようやく焦りだしたイナミ姉が、それでも冷静な質問を投げかける。

「私もヤキチを追いかけて来た」スミレ姉は答える。「あいつがここに来たんだとしたら、まずいってことわかってたからな」

「じゃあヤキチは……ここにいるのか?」イチロウ兄が、多分、半泣きで、それを聞く。

「あぁ……リンもゼンタも、中で寝てるよ」アゴで神社を指し示しつつ、スミレ姉は一瞬ちらりとカイリの顔を確認する。

 カイリはジロウを抱きつつも、自分も震えながら、つばを飲む。「ね、ねてるってどういうこと……なの……?」

「大丈夫だ……心配するな」すっかり冷静さを取り戻してしまったスミレ姉は、淡々とそう返事をしたかと思うと、サっときびすを返して神社の入り口へ、背の高い体を滑り込ませた。

 そしてまた、そこから顔だけを突き出して、彼らを見下ろす。

「いいか、バカども。今日はカクレの日だ……神社の周りには、妖怪がウヨウヨいる。死にたくなかったら、神社の中で祈るしかない」

「う……うん」と、カイリがジロウの背中をなでつつ、頷いた。

「お前ら、ここに入るための作法は覚えてるな?」

「覚えてる覚えてる」イナミがコクコクと、首を縦に振る。

「……じゃあ、それをしてろ。終わっても、私が戻ってくるまで座ったまま待ってるんだ」

 有無を言わさぬ調子でそう命じたスミレ姉は、かすかに赤い光の灯った神社の中へと、するりと身を隠してしまった。

「えっと……作法って確か……」ソウヘイ兄が、頭をひねりつつ、パン、パン、と手をたたく。「で、えっと二回お辞儀して……」

「違うよ、先に二回お辞儀してから、手を叩くのよ……」と、イナミ姉。

 最後に一礼も……と、ジロウは付け加えようとしたが、口を開けた瞬間にまた嗚咽おえつがこぼれだして、結局何も言えないまま頭を垂れた。

 指先がブルブル震え、ジロウはもう何をどうしたらいいのか、よくわからなかった。

 ものを考えようにも、鼻水がズルズルと邪魔をする。

 ドンっと、微かな音が神社から響く。同時に、くぐもった高い悲鳴みたいな声も聞こえた気がしたけれど、蛙がやかましすぎるせいで、それが気のせいかどうかもジロウはわからなかった。

 振り向けばススのように暗い森が、鳥居の向こうに広がっている。時間はもう夜になってしまったのだろうか。大人たちはさぞ心配しているだろう。

 スミレ姉は、カクレの日は神社の周りが危険だと言っていた。

 それがどういう意味なのか、ジロウは知りたいと思ったけれど……あまりにも血相を変えたスミレ姉に気圧けおされるがまま泣いてしまった彼には、もう、質問を投げる気力さえ残っていなかった。

 やがて儀式を終えた彼らの前に、またスミレ姉が顔を出す。

 未だに頭は全く働いていなかったが、それでも涙はだいぶおさまってきていたジロウは、この時初めて、スミレ姉の顔を、暗い中にもはっきりと仰ぎ見た。

 そしてまた、ドキリとした。

 短い髪は汗でおでこにベタリと張り付いていて、目元は眠いみたいに黒ずんでいる。だけど、その血走った瞳は力強く、何か尋常ではない感情のこもった迫力で、頑然と彼らを見下ろしている。

 そして確かに……スミレ姉は、笑っていた。

 口元をヒビのように引き裂く、歪んだ月のような笑みに、ジロウはまたも耐えきれず視界をにじませた。

 だが、それだけだった。

 ジロウは何も、気づけなかった。

 わざと子どもたちを焦らせているスミレの口調の裏に隠された真意も……右手を常に隠していることも、その訳も、わからなかった。

「いいか、よく聞け」耳に残る独特の声で、スミレ姉は語り始める。「今から一人ずつ、神社の中に入ってもらう。いいか、一人ずつだ」

「う、うそでしょっ!?」と、カイリが驚く。「神社に入るの? 無理よ、そんなのムリっ!」

 カイリがそう叫ぶ意味を、きっと僕らはみんな、理解できていただろう。

 ジロウは涙に暮れながらも……兄たちが恐怖のあまりに震えていることは、わかっていた。この期に及んで更に神社に入るだなんて、そんな怖いことできるわけないって、きっと、イナミ姉でさえも思ったことだろう。

 だが……。

 恐怖の只中、この神社にまで足を踏み入れてしまった彼らには、今や誰よりも何よりもおっかないのは、スミレ姉であった。

 目に見えない妖怪よりも、今、目の前で、彼らを脅かしているのは、スミレ姉なのだ。

 だから、結局はジロウたちにとって、スミレ姉の言葉は絶対だった。

 全ては、スミレがあの一瞬の間に立てた計画の通りに、進んでいた。

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