のりかえる 一

「なぁ……入っちゃいけないのって、どこまでだ?」ソウヘイ兄が、切れる呼吸を落ち着けつつ、意味もなくコソコソと呟いた。

「鳥居はくぐっても……いいんだよな、な?」今度はイチロウ兄が、言い出しっぺのくせに不安げに振り返る。

「きっとだいじょうぶよ、ほら、あと一歩!」疲れていても相変わらず楽しそうなイナミ姉が、クスクスとはやし立てた。「きっとヤキチは中にいるのよ」

 そんな兄たちを見ながら、ジロウと、それにカイリは、なんだかとてつもないほどに嫌な予感を感じながら、階段の二段下からこっそりと神社を覗いていた。

 背の高い木々が風に揺れるたびに木の葉を舞い散らせ、蛙の鳴き声が、やけにやかましく空気を震わせる。

 ゲコ、ゲコ、ゲコココココ……。

 正直に言ってジロウは、兄たちが神社への暗い参道を上りきって、この鳥居のところまで来るとは思っていなかった。絶対に途中で引き返すだろうと思っていたのだ。おかげで彼はヘトヘトである。こんなことなら、ヤキチ兄が神社にいるかもだなんて言わなければよかったと、ジロウは今更ながら後悔していた。自分だけ引き返せばよかったのに、中途半端な気分のまんま、結局はジロウも最後までついてきてしまった。あとでおっとおに怒られるだろう。

 なぜ、ジロウたちはこんなところに来てしまったか。

 そもそもはヤキチ兄が、村から忽然と姿を消してしまったのが事の発端である。

 ヤキチ兄は昨日から、様子が少しばかりおかしかった。もとから落ち着いた性格とは言い難いが、昨日はとくにソワソワしていて、だがどういうわけか怒りっぽくはなく、どちらかと言えば何かに怯えているようにジロウには感じられた。そして、これまた不思議なことに、ヤキチ兄は昨日、供え棚から小刀を自分の部屋に持ち込んだようなのである。イチロウ兄が、それを見たと言っていた。

 ともかく、ヤキチ兄は今村にいない。昼頃までは確かにゲン兄と練習場で話していたようなのだけれど、いつの間にかどこかへ行ってしまったそうだ。ゲン兄は、ヤキチ兄がいついなくなったのかまるで覚えていなかったけれど、でも、カイリがそれに心当たりを持っていた。

 というのも、実はリンとゼンタが、ヤキチ兄と一緒にどこかへ行ってしまったようなのである。二人の姿が見えなくて心配していたカイリに、スミレ姉がそれを教えてくれたらしい。ヤキチ兄があの二人を連れているのは珍しいことだが、でも、ジロウたちよりヤキチ兄は年上であるわけだから、心配するのは筋違いなのかもしれないが……。

 もしかしたら、ヤキチ兄は神社に向かったのかもしれない。

 ジロウはなんとなく、そんな風に考えた。

 そして一度その可能性を意識してしまうともう、ジロウにはそうとしか考えられくて、どうしても胸の内に不安がふつふつと湧き上がるのを止められなってしまった。ヤキチ兄は、自分では何かを隠しているつもりでも、必ず態度に表れてしまう人だ。ジロウはそういう人間の感情の機微から、真実を導き出せる子どもだった。

 なぜかはわからないけれど、ヤキチ兄は神社に向かった。しかも、このカクレの日に、小刀を持って。

 いったい何と戦うつもりだろう?

 というか、カクレの日に神社に行ったんだとしたら、普通にまずい気がするし、もしかしたら大人に報告した方がいいのでは……。

 と、自分でもちょっと悲観しすぎかなと思えた考えを、ジロウは誰よりも先にイチロウ兄に言ってしまったのがことの始まりだった。ジロウはいろんなことに気がつける子どもではあっても、それを正しい相手に相談するのは苦手な子どもであった。兄やカヤ姉にならなんでも気兼ねなく伝えられるが、大人やヨシ姉に対しては、それとなく気づいてもらうのを待つ、そんな、普通の引っ込み思案の少年だったのだ。そしてなにより、もし間違えていたらとても恥ずかしいというのも大きかった。たかだがヤキチ兄たちの姿が見えないくらい大したことじゃないと、一蹴されるのが不安だったのだ。変に気を揉んだときに限ってなんでもなかったなんていうのはよくあることだ。別に夜になれば、みんな普通に帰ってきてなんでもない話で終わるかもしれない。

 と、楽観視はしつつもなんとなく嫌な予感は感じていたジロウは、とりあえずはイチロウ兄たちに、ヤキチ兄がリンとゼンタを連れて神社に行ってしまったんじゃないかという話をした。もちろん兄経由で、ヨシ姉か大人たちに伝えてくれないかという期待から話したのであったが……。

 どうにもイチロウ兄は、イナミ姉やソウヘイ兄がいると、話を変な方向に持っていってしまう。

 まずイチロウ兄が言い出したのは、クビソギは実はヤキチ兄なんじゃないかという話だった。いったい何をどう考えたらそうなるのかジロウにはよくわからなかったが、しかし、イチロウ兄は真剣だった。ヤキチ兄がクビソギで、ゼンタとリンの首を取るために神社に連れ去ったんじゃないかと、イチロウ兄はそう言うのだ。確かにクビソギがゲン兄を襲ったときに、ヤキチ兄はどこにいたのかわかっていないのだが……。

 と、馬鹿馬鹿しいと思いつつも、ジロウ自身、なんだか背筋にゾクリっときてしまったのを覚えている。

 ヤキチ兄がゲン兄を襲った犯人で、クビソギの正体。

 ならば、そのヤキチ兄が神社に向かった理由とは?

 ジロウは最初、ヤキチ兄がタタリ神様と戦うつもりなのかと思った。あるいはカクレの日に神社の中に行くのだから、護身のために刀を持っていったのだろうと考えた。なぜカクレの日に神社に行ったのかはわからなかったが、この推論はそこそこ自然に思えた。

 ただ、そこになぜ、ゼンタとリンを連れて行ったのかはわからなかった。リンとゼンタを連れて行ったのだとしたら、やはり神社に向かったわけではないのかもしれない。ジロウより幼いあの二人が自分で神社まで行くのは現実的じゃないし、わざわざ二人を運んでいけるほど、ヤキチ兄に気合いがあるとは考えにくい。

 だがもし、ヤキチ兄がクビソギならば……。

 ヤキチ兄は昔から、妖怪みたいなものを見ることが多かった。それも全部、ヤキチ兄の正体が妖怪か何かである証拠かもしれない。

 そもそもクビソギは、人の首を奪ってしまう妖怪のはずである。もしかするとヤキチ兄は、実は誰も気づかぬうちにその首を奪われていて、妖怪に成り代わられてしまったのかもわからない……。

 なんて、理屈張っていながらもどこか子どもらしい物語じみた想像が、ジロウの正常な判断を曇らせてしまっていた。彼はまだ子どもなのである。

 次に起こったことは、イナミ姉がヤキチ・クビソギ説に、ものすごく反応を示してしまったということ。ヤキチ兄が妖怪かもしれないという発想が、どうやらとても面白かったらしい。「たいへーん! どうする? どうするの? 助けに行くの?」と、イナミ姉は一人で盛り上がり始めてしまった。こうなると、ソウヘイ兄とイチロウ兄は二人しておかしくなってしまう。

 ソウヘイ兄がイチロウ兄に「お前、ヤキチが怖いのかよ」と煽りだしたあたりで、ジロウは嫌な予感がし始めていた。きっとカイリも一緒だっただろう。

 イチロウ兄は、クビソギ騒動のときにソウヘイ兄やイナミ姉と比べて怖がりすぎたせいで、ここ最近ずっと小馬鹿にされて、イライラしていた。実際イチロウ兄は結構怖がりだから妥当な評価ではあるのだが、妥当だからといってイライラが消えてくれるはずもない。

 ここ数日の、イチロウ兄の苛立ちはちょっと深刻だった。それは多分、イナミ姉と関係があるんだろう。

 イナミ姉は、イチロウ兄とソウヘイ兄の、どちらかと結婚する。どっちが選ばれるかはまだ決まっていないけれど、イチロウ兄は、自分が劣位に立たされているのではないかと最近せつに気になり始めたらしい。イチロウ兄はソウヘイ兄より背が低いし、勇気もない。変に強情っ張りでデレデレできない性格が祟って、大事なところでイナミ姉を突き放してしまう。そんなことを続けていると、いつかイナミ姉がソウヘイ兄を選んでしまうんじゃないかって、そう思えてきたのだろう。

 おかげでここ数日、イチロウ兄はソウヘイ兄への負けず嫌いが強くなっていた。取っ組み合いの頻度が増えたし、口論が激しくなりすぎては、おっ母かヨシ姉にメチャクチャに叱られる、そんなことばかり繰り返していた。そして大概、イチロウ兄が悪者にされる。突っかかってるのはイチロウ兄からなわけだから、それももちろん妥当な評価なのだけれど、やはり妥当だからってイラつかないわけもない。

 ともかく、そうやって今日までじわじわと蓄積されてきた怒りが、よりにもよってカクレの日の今日になって不意に爆発してしまったらしいのだ。

 イチロウ兄はジロウに、「ヤキチは神社に行ったんだな!?」と怒鳴るように確認したかと思うと、そのまま外へと飛び出してしまった。

 今思えばこの時点で、慌てて追いかけずに誰かに知らせるべきであったとジロウは思う。カクレの日にイチロウ兄たちとヤキチ兄が神社に行ってしまったなんて、大問題になるに決まっている。だがあの時の空気感を考えれば、ジロウが大人にこれを報告しなかったのも仕方がないことである。イチロウ兄が走り出して、それをジロウたちが追いかけたときは、まだみんな笑っていた。ヤキチ兄がクビソギかもなんて話は、言ってしまえば楽しい怪談であって、「ヤキチ兄探し」は遊びの一種だったのだ。まさかそのまま、この長い階段を神社のところまで上り詰めてしまうなんて誰も……少なくとも、イナミ姉以外の誰も思ってもみなかったのだ。

 こんなことになってしまった理由をうまく言い表すのは難しいが……一言で言えばそれは、「引っ込みがつかなくなった」ということになるのだろうか。

 五人で階段を上ってる間、もちろんジロウは引き止め役だった。ジロウは何度も、神社まで行けるはずはないんだからさっさと戻ろうよ……ヤキチ兄のことだって、僕の勘違いかもしれないんだから……と兄を説得した。カイリだって、途中からはほとんど泣き叫びそうな勢いで「ダメだって、ヨシ姉を呼ぼうよ!」と言い続けていたのだ。だが結局、カイリもここまでついてきてしまった。カイリは、リンとゼンタと、きっとそれにヤキチ兄のことも心配なのだろう。

 空気が変わり始めたのは、いつ頃からだったろうか。神社への階段はとても長く、上っていくうちにみんな段々と無口になってきて、そうすると、日の当たらない暗い階段の中、獣たちと蛙の鳴き声ばかりがゾワゾワと四方から響いてくるのが、とてもうるさく感じられるのだ。

 正直に言えば、ジロウはそれがめちゃくちゃ怖かった。耳を食いつぶさんばかりの生き物の鳴き声がたまらないほど恐ろしくて、階段を上り続けるうちに、胸の奥にじわじわと嫌なものが堆積たいせきしてくのが、はっきりとわかるくらいだった。イチロウ兄も、多分ジロウと二人だけなら、途中で引き返したことだろう。今日は、大人にあれだけ脅されているカクレの日だ。実際イチロウ兄は、階段を一歩一歩上るごとに、段々と恐怖で顔が青ざめていって、明らかに無理をしているのがジロウにもよくわかった。イチロウ兄は引き返すべきだったし、その意志も十分に持っていた。

 この状況で本当に問題があったのは、イナミ姉とソウヘイ兄である。この二人が、色々と話をややこしくしてしまった。

 まず厄介なのは、イナミ姉である。イナミ姉はそもそも根っからの怪談好きで、昔からカクレの日の神社を見たがっていた。絶対に入っちゃいけない神社の中で何が起きているのかということに興味津々だったのだ。きっと外から覗くだけならなんでもないんじゃないかと、そう思っているんだろう。実際、そのあたりの細かい掟は大人でさえ誰も知らないらしい。だから危うきには近寄らず精神で、参道を上ることさえ大人は嫌な顔をする。

 イナミ姉は、たまに恐怖がないんじゃないかって思えるくらいに変に勇気がある。実はジロウは、イナミ姉の目が苦手だった。イナミ姉の目はいつも楽しげにキラキラと輝いていて、それでいて平気の平左へいざで、兄たちを手のひらの上で転がしてみせる。おっかないことを笑って話す。

 イナミ姉は、少しスミレ姉に似ている気がするのだ。

 人が怖がるものを怖がらない人は、怖く見える。

 もちろんイナミ姉は、スミレ姉と違って意地悪ではない。きっと純粋にズルくて楽観的なんだろうとジロウは思う。だから決して嫌いではないし、仲だっていいと思っている。ちょっと話しにくいかなって、時々感じることもある、それだけだ。

 それに、母親が外から来た家の子たちは、みんな大なり小なり変わったところを持っているというのがジロウの見立てであった。スミレ姉やゲン兄は言うまでもなく、アマコもちょっと心配性が過ぎている。チユリ姉のことはジロウはよく知らなかったけれど、スミレ姉とずっと一緒にいられるのだから、やはり何かが他の子どもたちとは違うのだと思う。ヨシ姉だって、あの男らしい性格は、スミレ姉がいなければもう少し風当たりがきつかっただろう。

 イナミ姉は多分、明るすぎるんじゃないかとジロウは思う。クビソギが出た夜にだって、イナミ姉は一人だけちっとも怖がってなんかいなかった。それはかなり普通じゃない。

 そして、そんなイナミ姉に惚れているソウヘイ兄は……イナミ姉が見たいって言い出したものを、怖いとは意地でも言わない。ましてやイチロウ兄が神社に自分の足で向かったとくれば、なおさらである。

 階段の途中から、みんな疲れてあまりしゃべらなくなっていたが、イチロウ兄とソウヘイ兄の二人が無言で意地を張り合っているのは、幼いジロウでもよくわかった。淡々と階段を上り続けるイナミ姉に少しでも歩調を遅らせたら負けだと、そう思えてしまったのだろう。その手の無言の空気感ほど、子どもにとって大事なものはないのだ。

 それでもなお、ジロウがもう少しだけ歳が上であれば……つまりは体力があって、兄たちと対等の立場であれたのなら、こんなバカげた参拝は止めさせたことだろう。疲れてしゃべるのが億劫おっくうだったことで、イナミ姉の無謀さや、兄たちの意地にズルズルと引っ張られてしまったというのが、ジロウとカイリがここにいる理由である。頭で色々考えていながらも、結局は弟の習性に従ってしまうのも、引っ込み思案なジロウのらしさだった。

 大義名分があるとすれば、それはヤキチ兄たちのためということになる。だがもはや兄たちにとって、ヤキチ兄たちが神社にいるかどうかなどどうでもいいに違いない。ジロウ自身、階段を上に行けば行くほど、ここにヤキチ兄たちがいるなんてありえないと思えてきていた。ヤキチ兄はともかく、リンやゼンタまで、こんな怖い場所にいるはずはない。やはりジロウの考えすぎだったのだ。

 だが今、兄たちにとって重要なのは、とにかく、カクレの日の神社を見るということなのだ。遊んでいるうちに目的が入れ替わっていく彼らの姿は、見慣れている。

(そうだよ……この三人がいけないんだ)ジロウは頭の中でつぶやく。(僕とカイリは悪くない。だって僕らは、止めようとしたじゃないか……)

 ジロウは、怒っていた。人生で一番かもしれないくらい、ムカついていた。

 それはいろいろな怒りの集合だった。

 一つ目は、おかしな行動をやめない兄たちへの苛立ち。カクレの日に神社まで上るなんて、明らかにやりすぎである。

 そして二つ目は、疲れから来るイライラ。

 この長い階段を、いざというときに背負ってくれる大人もなしで上り詰めるなんてどうかしてる。下りのことなんか何も考えてもいないに違いない。

 しかも、こんな寒い日に。

 ジロウは今、大変に疲れていた。汗が衣服をぐっしょりと濡らし、胸の奥から絶えずムラムラと熱い呼吸が湧き立っていた。足はカチカチの棒になってしまったみたいにしびれていて、今すぐにでも倒れ込んでしまいたい衝動に、頭が、思考が固まってしまっていた。おそらくカイリも一緒だろう。年少の二人は途中から、一言もしゃべっていない。

 寒い中で、汗でビシャビシャになるくらいにまで歩き続ける……それが、ここまで心をすり減らすものだということをジロウは知らなかった。こんなに疲れている自分たちをかえりみもしない兄たちの態度もまた、怒りと憔悴を助長した。

 一言でもしゃべったら何か吐き出してしまいそうなくらいの疲れの中、結局そういうときに体を動かしてしまうものは、惰性である。一度階段を上り始めた体の向きを後ろに向ける力がないままに、ジロウは兄たちにつられるまま、神社の鳥居まで体を運んでしまったのだ。

 ゆえに三つ目の怒りは、恐怖の裏返しである。

 カクレの日の神社に、今、自分たちがいるという事実。その実感は、ある意味で疲れ以上に深刻に心を歪ませていた。

 なぜ、こんなところまで来てしまったのだろう。

 どうして引き返せなかった?

 あぁ、早く帰ればよかった……と、

 ジロウはもうそんなことばかり考えていた。ヤキチ兄たちのことも、イチロウ兄たちも全部ヨシ姉にまかせて、体力のない自分は下で待ってれば良かったと本気で後悔していた。

 悪寒が何度も、波のように背中を這い上がる。

 だが、それでも……。

 幼いジロウには、この階段を一人で帰るなんて怖いことが、できるわけがなかった。

 きっと怖がりなカイリがここまで来てしまったのも、同じ理由だろう。

 兄の背中を追いかけてばかりで、自分からは何もできない……ついてきたのは自分なのに、怒りをイチロウ兄たちに向けている……そんな自分への不甲斐なさが、四つ目の怒りであった。

 しかし、彼の怒りは兄たちには届かない。

 もはや一声さえも発したくないくらいにヘバッているジロウとカイリとは違い、三人の年長組の冒険は、今がだったのだ。

 幼く、体力のないジロウやカイリの足では、この階段は辛すぎた。そういうのをいつも気にしてくれるヨシ姉がいかにいかにありがたい存在なのか、ジロウは今、はっきりと理解した。正直今日まで、ちょっと口うるさすぎるかなと思っていたくらいだったが、今はヨシ姉に助けてほしくて仕方がなかった。

(僕はまだ子どもだなぁ……)頭の中でジロウはそう呟く。朦朧もうろうとしかける意識の中で、時折周りの声が聞き取れなくなるほどにボンヤリしてきたジロウの目が捉えたのは、兄が鳥居をまたいで、神社の敷地の石道に足をかけた瞬間。

 ゾワッと、頭皮が逆立つ。

 今、自分がいる場所を、理解する。

 今日はカクレの日……そしてここは、タタリ神様の神社。

 何か、よくないことが起きるに決まっている。

 カイリと二人、気がつけば手を握り合っていた。

 イチロウ兄は苔の生えた神社への石畳に、今、たしかに足を踏み入れた。

 ペタッと、湿気った音がかすか響く。

 しばらく、何かが起きるんじゃないかとみんなが息を止めていた。

 そして、震えながらもイチロウ兄は振り返り、勝ち誇ったような顔でソウヘイ兄を見下ろした。

 恐怖、負けん気、意地、勝利……今までの恐怖を、この一瞬で全部克服したとでも言いたげな病的な光が、そこに宿っていた。

(イチロウ兄……やっぱり無理してたんじゃないか……)

 だけど、そんな二人の幼い争いなど眼中にもないといった足取りで、イナミ姉がイチロウ兄に続いた。

 鳥居を超えて、石畳に一歩足を踏み入れたかと思うと、あっさりとイチロウ兄よりも先に、トトトっと歩いていってしまった。

 固唾を呑んで、ジロウとカイリはそれを見守る。

「もう……帰ろうよ……」と、ほとんど聞き取れないような声でカイリが呟いたのを、ジロウはたしかに聞いた。

 無論、彼も同じ気持ちだった。

 だけど、そんな切実な願いとは裏腹に、ソウヘイ兄がここで引き返すわけはなかった。「俺の負けだ、もう帰ろう」なんて言ってくれるはずはないのだ。

 ソウヘイ兄もまたフンっと鼻で息を吸い込んでから、気合のこもり過ぎた一歩を、神社へ向かって踏み出した。

 カクレの日の神社。その鳥居の向こう側に、三人は入り込んでしまった。

 明らかに、みんなおかしくなっている。

 蛙が鳴いてる。

「な? やっぱ、神社に入らなきゃ大丈夫なんだって」イチロウ兄が、ほっとしたようにつぶやいた。肩を抱きつつ、胸だけ反り返らせて、気を吐いた。

 ソウヘイ兄は引きつったような笑顔で、それに答える。「あぁ……だけど、ヤキチはいねえな……」


「あっ」


 っと、イナミ姉の小さい、だけど確かな声が上がった。その短い一息の中に何かしら重要な意味が含まれていることを感じた僕らは、みんなしてビクリと背筋を震わせて、黒く威圧的な神社へと目を向けた。

(出たか?)

 ジロウは、そう思った。何かはわからないけれど、何かがのではと、そう疑った。

 振り返り、彼は一目散に逃げようと思った。だけど疲れに邪魔されて、結局ピクリとも動けなかった。

 そして……。

 今度こそ本当に、背筋が凍りついた。

 横向きについている神社の入り口……そこから、スミレ姉が、冷たい表情で顔をのぞかせていたのだ。

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