かかえる

 鬱蒼とした木々の枝が暗くなりつつある空をさらに覆い隠すものだから、神社の敷地はより暗く、石畳の地面は氷のような冷気を立ち上らせている。その上で寒さに震えながら、チユリは心細さを一人胸に抱えて、神社の鳥居にポツンともたれかかっていた。

 カクレの日の神社の威容いようの恐ろしさと、季節外れに鳴き続ける蛙の声におびやかされながら、彼女はひたすらにスミレ姉ちゃんの帰りを待っていた。

 カクレの日に、スミレ姉ちゃんが神社に出入りしていることは昔からチユリは知っていた。だがそれでも、親にあれほど行くなと言われてきた神社の中に、今、自分が身を置いていると思うのは恐ろしいことだった。神社の中で待っていろという姉の命令も聞くことができず、なんとか鳥居のところに足を踏み入れるので精一杯だったのである。

 あと一歩、少しでも神社に近づいただけでも、どこかからか黒い手が伸びてきて、彼女を取り込んでしまうような心地がして、チユリはすがる思いで着物の裾を握りしめていた。

 チユリが神社を恐れた理由は、この日姉が引き起こした、一つの大事件のせいばかりではない。彼女には、あの神社の拝殿の中で、蛙石かわずいしにヒビをいれてしまったという深い負い目があったのだ。

 それは、本当にただの事故だった。蛙石には近寄るなと大人たちが言うものだから、石の形が気になって仕方がなかったチユリは、一度だけ勇気を出して神社まで覗きに行ってみたのである。そんなことができたのは、姉から教わった勇気のおかげだったのだろう。

 その時チユリはとてもドキドキしながら、今にも暗がりから誰かが現れるんじゃないかと怯える心を引きずって、蛙石の間に一人、抜き足差し足で忍び込んだ。

 揺らぐ灯りに照らされて、鎮座していた蛙石……どことなく表面が濡れているように見えるのは何かしらと、彼女は少しだけ首を伸ばして、ゆっくりと近づいて……。

 突然、首筋に何かヒヤっとしたものが降ってきて、チユリは叫びながら振り返った。

 張り裂けそうなほどに緊張していた彼女は、首に降ってきたものがただの雨漏りであることに気づいていながらも、無我夢中で、蛙石の間を覆う白幕を目いっぱいに引っ張ってしまったのだ。

 チユリには、驚くと何かにしがみついてしまうクセがあった。

 彼女が幕を引いた途端、パキッと硬い音が鳴り、幕を支えていた留め具が外れた。

 足がもつれたチユリは、そのままアッと思う間もなく、背中からまっすぐにひっくり返り、頭を売った。

 蛙石に、頭をしたたかに打ち付けたのだ。

 後頭部に強烈な衝撃を感じたあの瞬間、痛い、と思うより前に……全身に、噛みつかれたみたいな凍えが走ったのを彼女は覚えている。

 痛みに悶ながらも起き上がった彼女は、なんだかとてつもないくらいに嫌な予感を感じながら、恐る恐る蛙石を振り返った。

 そこにヒビを見つけたとき……自分が蛙石に傷をつけてしまったのだとわかったあの時ほど、彼女は恐ろしい気持ちになったことはない。すぐにその場から逃げ出したくなったのを踏みこらえ、必死の思いで頭を下げて、祈り棚の前で目を開けっ放しにしたまま、ごめんなさい、許してくださいと何度も何度も繰り返した。

 タタリ神様は、きっと怒っていることだろう。

 いつか、自分を呪い殺しにくるに違いない。

 もしかしたら、村中に何かひどいタタリが降りかかるんじゃないか……。

 そんな想像に散々に心をかき乱されて、チユリは最近ずっと、まともに寝られない夜が続いていた。スミレ姉ちゃんは、そんなの馬鹿げてる、ヒビくらいなんでもないと言ってくれたが、チユリは未だに、タタリ神様が恐ろしくて、蛙の声さえ聞きたくないのであった。

 おっかないながらも、誰よりも心強い姉に会いたくて、彼女はひっそりと目を閉じた。

(お願いします……タタリ神様……許してください……)

 手を合わせ、蛙石にヒビを入れた日のように、祈りをつぶやく。

(お姉ちゃんは、そんなつもりじゃなかったんです……)

 バサッと、何かが揺れる音がして、チユリは腰を抜かして空を見上げた。

 黒い鳥が、神社の屋根から飛び去っていく。

 また、何か悪い予感みたものを感じて、チユリは赤い目をゴシゴシとこすった。

 ヤキチが、死んだ。

 彼の死体は今、神社の敷地の中に、無造作に投げ捨てられている。

 先からチユリは、そちらを見ることが全くできないでいた。

 ガクガクと、顎が震える。

 もう嫌だと……チユリは顔を覆い、膝を抱えてむせび泣いた。

 辛いことが多すぎて、彼女は優しいマキ姉さんのところに駆け込みたくて、仕方がなかった。

 あの時、口論の挙げ句に突き飛ばされたヤキチは、そのまま後頭部を参道の階段に叩きつけられ、呆気もなく死んでしまっていた。チユリはヤキチのことはあまり好きではなかったが、それでも、死んでしまったことがわかった途端、目の前が真っ暗になって、涙が止まらなかったのを覚えている。

 人が死ぬ……それがどんなに悲しいことか、チユリは今日、初めて知ったのだった。もちろん想像力のあるチユリにとって、今までだって死が軽いものであったはずはない。死んでしまうことの深刻さは、示されるまでもなく、これまでの人生の中でしっかりと感じ取っていたことだった。しかし、だからこそ死を真剣に想像することが恐ろしくて、彼女はそこから目を背け続けていたのだった。

 人の死を目の前に突きつけられて……見知った顔が、命が死ぬということが、姉がたわむれや実験で殺してきた動物たちの死とは比べ物にならないほどに心をかき乱すということがわかって、チユリは今、ヤキチへの申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 チユリは確かに、ヤキチのことが苦手だった。変な目で体を見てくるし、大した用もないのにいちいち話しかけてくるのには、うんざりしていた。カイリと二人で、ヤキチがいかに嫌な奴かを語り尽くした夜もあるくらいだった。

 だが、そんなヤキチはもう、起き上がらない。

 笑うこともなければ、泣くことさえできない。

 彼は、

(あぁ、だとしたら……私は……)

 こんなところで死んでしまうのがヤキチの運命だったのだとしたら、彼女はなんて不親切だったんだろう。

 なんでもっと、仲良くできなかったんだろう。

 もっと、優しくできなかったんだろう。

 死んじゃう人に対して、彼女はなんて意地悪だったんだろう……。

 と、今更どうしようもない後悔が、止めどなく胸から溢れてくるのだった。

 チユリはこの時、なぜ人が人に優しくするかを知った。

 言葉では説明できない、漠然としていながらも重大な命の意味……それがわかっているから、死んだ母親と同様に弱い体を抱えて生きてきたカヤや、かつて村を襲った疫病を生き残ったマキ姉さんは、他の誰よりも優しかったのだ。

 命というものへの聡明さ……スミレがないがしろにしがちな、人間としての確かな知恵を、チユリはしっかりと兼ね備えた子だった。姉の愚かさを、きちんと補える妹だったのだ。

 それはやがて、姉と自分の運命に大きな意味をもたらして、村は平和に回るはずだった。

 だが、この日は全てが、悪くはたらく一日だった。

(あぁ……どうしよう、このあと、どうすればいんだろう……)と、チユリは痺れる頭で、何度も同じ言葉を繰り返した。

 あれは、事故だ。事故だったんだ。スミレ姉ちゃんは、決してヤキチを殺す気はなかったんだ……と、自分に何度も言い聞かせた。

 姉がなぜヤキチを神社に連れて行こうとしたのかは、考えたくなかった。

 ヤキチが死んでいるとわかったとき……スミレ姉ちゃんはなぜか、とても落ち着いた顔をしていたのをチユリは思い出す。喜んだり照れたりしているときは素直じゃないけど、怒っているときはすぐに態度に表れる……そんな姉の顔から、初めて何も読み取れなかった。それが恐ろしかった。

 姉がチユリのことを誰よりも理解しているように、チユリもまた、姉のことを誰よりもよく理解していた。

 村の大人たちは、スミレ姉ちゃんのことをとても悪く言う。マキ姉さんやおばあさん、それにカヤは、姉は本当は優しいのだと思っている。チユリから見れば、それはどちらも正しくて、やはり、どちらも間違えている考えだった。スミレ姉ちゃんは、優しいときも確かにあるけれど、怖いときは本当に怖いし、意地悪でもある。彼女が人に優しいのは、それがやりたいものであるときだけで、人のために自分が何かを我慢するようなことは決してない。カヤのために肌着を繕ったときも、どちらかと言えばあれは、カヤを気遣えていなかった村の大人をバカにするためにやっていたことだった。事実、カヤのお父さんなんかは信じられないくらいに口惜しそうな顔をしていたし。

 だけど、そのことでカヤから予想以上に感謝されると、本気で照れたりする。

 そして自分が照れていることに苛ついて、あとでチユリに八つ当たりをする。

 そういう人だ。

 そのはずだった。

 ……それなのに、いざヤキチが死んだとき、スミレ姉ちゃんはとても静かだった。

 生まれて初めて、チユリは姉が何を考えているのか全くわからなかった。普段なら、何をしたいのかとかは全然わからなくとも、どんなことを想っているのかだけは必ずわかるものだったのに。

 スミレ姉ちゃんは、死んだヤキチのそばにしばらく佇んだまま、指を噛んで何かしら考え込んでいたかと思うと、黙ってその体を担ぎ上げてから、階段を上り始めた。てっきり村に戻るものだと思っていたチユリは、それにとても動揺した。ヤキチの死を隠す気なのだろうかとも考えたが、そんなことできるわけがない。

(……まさか)

 ビクッと、喉が震える。

 今日は、カクレの日。

 神社に入ったものに、タタリが降りかかる夜。

 ならばもし、ヤキチが自分から神社に入り込んだということにすれば……。

 その可能性に思い至ったとき、チユリはハッキリと、背筋に悪寒を感じた。ジクジクとたまらない痛みが胸に走り、同時に新しい涙が、ジワリと頬を伝い始めた。

 理由はわからないけれど、指先が震え、悲しい気持ちで胸が一杯になった。

 それは、ヤキチが……人が一人死んだという事実に対して、これから先、素直な気持ちで向き合えなくなることへの恐怖だったのかもしれない。自分は一生、ヤキチのことを秘密として、胸に抱えていなきゃいけないことに、聡明なチユリは、早くも気がついてしまったのだ。

 なぜならそうしないと、姉が村の大人たちに殺されてしまうから。

(それは……だめ)

 チユリは強く想う。

(それだけは絶対に……ダメだ……)

 スミレ姉ちゃんは、彼女の小さな世界の中心だった。

 チユリの心の原風景は、軽快な足取りで歩いて行く姉の背中と……そして、姉とはぐれて一人きりになった、恐ろしい森の木々の黒さである。

 山の中、少しも待ってくれない姉を必死で追って、そのまま深い森の中に取り残される……そんな経験を、チユリは幾度となく味わってきた。必死で帰り道を探しても、未熟だったあの頃の方向感覚では正しい道へたどり着けず、思った場所と違うところに出てしまう……あれほど心細い感覚はない。どっちに行けばいいのかわからなくなって、自分は一生村に帰れないんじゃないか、獣に食い殺されてしまうのではないかという取り留めのない想像がジワジワと全身を熱くして、寂しくて、悲しくて、怖くて、大泣きして、そのまま一歩も歩けなくなって、タッタ一人で木のウロの中でうずくまっていたのは、一度や二度じゃない。

 もう一生、誰にも会えないんじゃないかと、彼女は何度も本気で考えた。

 怖くて、暗くて、本当に、恐ろしくて……。

 それでも。

 どれだけ深く暗い場所でも、どれだけ見つけにくいところに彼女がいても、姉は、変わらぬ笑顔でチユリのことを見つけてくれた。

「ほら見ろ、ここにいた。お前は本当にわかりやすいな」と、意地悪くニヤつく姉の顔……それを見るだけで、彼女は涙が止まらなかった。全身の力が抜けて、胸いっぱいの寂しさが一気に溶け出し、安堵の波が痛いくらいに喉を突き刺して、叩かれるってわかっていても、抱きつかずにはいられなかった。

 そしてチユリが叩かれるって思っているときに限って、姉は優しく背中をなでてくれるのだった。

 それだけのことで、彼女は全身はポカポカと暖かくなって、音が何も聞こえなくなる。

 どれだけイジメられても、頼ってしまう。

 その全てが、姉の計画通りであるとわかっていても……。

 それでもよかったのだ。

 チユリは、姉の全てを愛していた。時として残酷なほどの姉の意地の悪さすら受け入れていた。

 その理由をスミレは知らない。妹が、彼女の計画を遥かに超えたところから、姉を愛している理由が、わからない。

 チユリが持つスミレへの思慕の念は、不器用な母親から受け継いだものである。

 スミレとチユリの母親……シズは、ヌマの向こうから子どもを産むために嫁に送られてきた、とある家の三女だった。弱い体をうとまれて、なかば厄介払いのような形で田舎の村に寄越よこされたという、不幸なひとなのである。また悪いことに、村から見ても彼女は、子どもを産めるかどうかも怪しい「期待はずれ」であり、嫁入りの当初は立場も居心地も最悪であったという。

 三人の子どもを立て続けに死産し、いよいよ白い目で見られることとなった彼女は、自害を考えたことも一度ひとたびではなかった。

 そんな彼女が苦悩の末に、ようやく産んだ子どもこそが、チユリの姉、スミレ姉ちゃんなのである。

 スミレ姉ちゃんは疫病後の村で、タケマルとピッタリ同日に生まれた、最初の子なのである。その存在は村中を歓喜に満たし、シズにとっては、出来損ない扱いの地獄のような日々の終わりを意味していた。

 何よりも、母親になれないと思っていた体で娘を産めたことが、どれだけ救いになったことか。

 チユリは、そんな母の切実な想いを、父親やおばあさんから聞いてきた話を繋ぎ合わせることで、ほぼ完全に理解していた。

 母にとって姉は、どれだけ感謝しても足りないほどに……ありがとうって言葉じゃ足りないくらいに、有難ありがたい存在。命よりもずっと大切な宝物なのだ。

 だが母の喜びは、そう長くは続かなかった。生まれてきたスミレ姉ちゃんがあまりにも異質な子であったために、結局はまた辛い視線にさらされることになってしまったのだから。

 それでも愛は、揺るがない。

 だけど。

 いや、だからこそ。

 母は、姉のことを変えようと思ってしまう。

 あまりにも横暴で、他人をかえりみないお姉ちゃんを、それでも見捨てずに、なんとかになって欲しいと、無駄な努力を続けてしまう。

 愛しているから。

 その想いは……だけど、スミレ姉ちゃんには決して届かないことをチユリは知っている。母が姉にこうあって欲しいと思っている姿は、スミレ姉ちゃんにとってはなんの価値もないどころか、この上なく嫌っている最悪の女性像だから。

 母は不器用な人だ。頭が固くて、どうしても姉の「女らしくない」姿が受け入れられない。自分の好きなこと、やりたかったことをたくさん我慢してきた母には、何も我慢しない姉の生き方が許せない。なんとかしなきゃと思ってしまう。

 二人は決して、相容あいいれない。

 二人はいつも、ケンカをしている。

 それが、チユリは悲しい。

 何よりも哀しい。

 あんなに愛されてるのに、その何も受け取らない、姉の姿が切なくて口惜しい。

 二人の間で板挟みであったチユリは、母が渡したいと思っているはずの親としての愛情を、自分のものとして受け継いでいた。

 頑固なところだけとても良く似ている二人のことを、愛していた。

 スミレにとって妹は、何よりも大切な所有物であったが、チユリにとっての姉は、人生と同意義であったのだ。

(あぁ……お願いしますタタリ神様……呪うならどうか私だけに……)

 いつまでもあふれてくる涙をおさえ、チユリは少しずつ少しずつ、一途ながらも残酷な決意を固め始めていた。

 チユリは、優しい妹である。

 ゆえに、狂っている。

 だが、そんな彼女の一生懸命の冷酷さすらあざ笑うかのように、カエルはゲコゲコと喉を鳴らし続ける。


 ゲゲ……ゲコゲコゲコ……ゲココココ…………。


 ふと、かすかに石の階段をコツコツと鳴らす足音。

 スミレ姉ちゃんが戻ってきた。

 チユリはまた泣きたくなってきた気持ちを、姉を怒らせないためにもなんとか抑えつけながら、ゆっくりと立ち上がった。

(大丈夫……私は、お姉ちゃんのためなら……)

 健気けなげな彼女の決心は、しかし、階段を上る姉の姿を目にめるやいなや急速に冷え固まる。代わりに湧いてきた恐怖の叫びが、神社の闇をつんざいた。

 その声も、おびただしい蛙たちの唄に飲み込まれ、消えていく。

「お……お姉ちゃん……な、なに……してるの……!?」

 何も答えず、ゆっくりと、彼女の姉は顔を上げた。

 両腕に、ぐったりとしたリンとゼンタを抱えたまま、口元を引きつらせ、見たこともない表情で、笑ってみせた。

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