つっかえる

 ヨシが神社への階段を駆けていったことで、下の村は蜂の巣を突いたような大騒ぎとなっていたのだが、だからといって、やはり彼女の背を追いかける大人はなかった。ヨシには理解できないことであるが……タタリと呼ばれた疫病によって親や兄弟にバタバタと死なれた経験のある村の者たちにとって、禁を犯すというのは並大抵のことではなかったのである。

 タタリに関わってはいけない……事態を悪化させてはならない……そういう考え方が、村の大人たち中に根強く、根深く突き刺さるほどに、かつてこの村を襲ったタタリは恐ろしいものだった。

 大人も子どもも、病んだ家族の汗や便を拭きながら、いつ自分も同じ病にかかるかもわからないと震えていた日々。それが、親たるべき大人たちの判断を曇らせた。

 タタリには触れるな。

 それは彼らの臆病さというよりも、身を切るほどに切実な、平和への祈りなのである。

 だからこそ、彼らはヨシを追えなかった。行いとしては矛盾していようと、気持ちの上ではヨシたちのために、追いかけるわけにはいかなかったのだ。

 タタリへと繋がる、曲がりくねった暗闇の参道。季節外れの寒さ渦巻く夜の道は、吐き出される蛙と虫の鳴き声と相まって、タタリを知る大人たちの参拝を拒み続けていた。

 上ることができたのは、子どもだけである。

 タッタ一人、森を抜ける神社への階段を駆けて行ったヨシの背中。その後ろを遅れながらも二人……ヨシがまったく予想だにしていなかった二人が、確かな歩調で追いかけていた。

 一人は、ゲンである。

 ゲンは、階段の下で大変に騒いでる村の大人たちにも、何が待ち受けているのかわからない神社の恐ろしさにも全く無関係な歩調で、ゆったりと参道を上っていた。

 そのかたわらには、アマコがいる。ゲンは、そのアマコの歩調に合わせた速度で、腕を体の前で組みながら、淡々と歩みを進めていた。

 しかし、それがアマコには不安だった。ゲン兄ちゃんがなぜカクレの日を恐れずに神社へと歩き始めたのかが理解できなくて、実のところほとんど泣きそうな気持ちになっていた。ゲン兄ちゃんは、ヨシが走り去ってしまったことでほとんど狂乱状態となっている大人たちの目線をするりと抜けて、この参道を上り始めてしまった。アマコだけがそれに気がついて、慌ててその背を追いかけたのだが……。

 アマコは今、恐ろしい気持ちでいっぱいだった。ジロウたちがみんな帰ってこないというだけで、一人カヤの膝で泣いていたほどであったアマコにとって、この階段を上ることはハッキリと苦痛と表現できるほどに辛いことだったのだ。だがアマコには、兄を追いかけないでいることなどできるはずがなかった。誰かに兄をめてもらうことももちろん考えたのが、人を探しに行く時間でさえ、アマコには耐えられなかった。

 そのわずかな時間で兄が遠くに行ってしまうかもしれない……そう考えることの方が、恐ろしかったのだ。

 恐怖でどれだけ心音が乱れ、ジンジンと頭に血が沸き立っても、兄までもいなくなってしまったらという不安が何よりも優先されてしまう。アマコは、そういう妹だった。

 冷たい水滴が、どこかから飛沫しぶきとなって吹き荒んで、アマコの頬を濡らす。それをゴシゴシと、目からこぼれた涙と一緒に拭き取った。

 草履の裏から伝わる、ジャリジャリとした石段の感触……膝の裏やかかとがジンジンと痛み、疲れのあまり立ち止まりたくなっても、兄が止まってくれない限りアマコは止まれない。

 あぁ……なんでお兄ちゃんは、神社にむかっているんだろう……と、アマコは胸の中でひとり呟いた。誰も帰ってこない場所に一人で向かうなんて、どう考えてもおかしいことである。

 不安に駆られて左右を見れば、萎えた生き物の骨のような木々たちが、闇を背負ってゲココ、ゲコココと笑っている。アマコには、森がそんな風に……悪い考えを持った妖怪か何かのように見えていた。

「お兄ちゃん……?」恐る恐る、アマコは兄へと質問を切り出した。この一声をかける、その決意を固めるためだけに、アマコはもう、参道の半分近くまで上り詰めてしまっていた。「本当に……だいじょうぶなの?」

「大丈夫だよ」普段とまるで変わらない口調で、彼女の兄、ゲン兄ちゃんはつぶやく。

 アマコは先を待ったが、ゲン兄ちゃんはそれ以上何も言わなかった。

「なんで……だいじょうぶなの?」今にも叫びたくなる気持ちをおさえて、アマコはなんとか声を絞り出す。「カクレの日なんだよ……帰らないと……」

「カクレの日は、嘘なんだよ」それがゲン兄ちゃんの答えだった。「昔の誰かが、嘘で作った掟なんだ」

「……え?」

 立ち止まり振り返ったゲン兄ちゃんの顔を、アマコは見つめる。

「母さんがね、昔、教えてくれた」

 お母さん……アマコたちの母親は、普段は外で暮らしている、きれいな人である。なぜこの村で暮らせないのかをアマコはよくわかっていなかったし、お父さんもお兄ちゃんも何も言わないから、きっとそれは聞いちゃいけないことなのだとアマコは思っていた。昔はみんなで一緒に暮らしていたのをかすかに覚えているだけである。

 アマコはその頃でさえ、母と話した思い出があまりなかった。母は仕事をしていない間は、ぼーっと湖を眺めているか、書堂の本を読んでいるかで、話しかけるすきがなかったのだ。今でも母は、年に何回か、村に帰ってくる。だがそんな時でも彼女はアマコには、人形の扱い方だとかを手早く確認するばかりで、アマコの話は聞いてくれない。

「お母さん……が?」アマコは恐る恐る、そう聞いた。

「何かの本に、そう書いてあったんだってさ」ゲン兄ちゃんはそう言うと、また先へ進もうと前に向き直ってしまった。

 仕方なく、アマコもまた歩きだす。

 ……お母さんが、カクレの日はウソなのだと言っていた?

 それは、どういうことだろう……。

 と、アマコは疲れとしびれで動かない頭を懸命に絞っていた。呼吸が詰まるほどに寒いのに、体にじわじわとまとわりつく汗に意識を乱されながら、同じ言葉を何度も何度も反芻はんすうした。

 だが……。

 ふとゲン兄ちゃんがもう一度立ち止まったかと思うと、そのままググっと、目の前に顔を寄せてきたために、アマコの頭の中に色々と渦巻いていた言葉が全部、風に吹かれた砂のようにバラバラと払われてしまった。

 びっくりして肩がすくみ、心臓が止まりそうになる。

 大きな目をきゅっと細めて、アマコの顔を覗き込む兄の顔……時折、妹であるアマコでさえも見とれてしまうことがあるほどに眩惑げんわく的なその顔は、真っ暗とさえ言える木々の下、かすかに光を感じられるほどに白くあやしく浮かんでいる。

 だけど、いつもと変わらぬ、なんの表情も浮かべない兄の瞳に見つめられるうちに、アマコは怒られるかもしれないと想像して、思わず着物の裾を握りしめた。

 不安がじわじわと、お腹の中をもみくちゃに掴むようにうごめきだす。

 アマコは口をついて、「ごめんなさい!」と叫びそうになった。泣きたくて、でも動いてはいけないと思って、唇を噛み締めながら、じっと待った。

 どこかでカラスが、鳴いている。

「あ、そうか」と、ゲン兄ちゃんが、細くかすかな声で呟いた。

「な……なに?」

「アマコ、疲れてるんだね?」

「……え?」

 すくっと、ゲン兄ちゃんは背筋を伸ばして、曲がりくねる階段の下へ視線を投げた。「そうかそうか……そりゃそうだ。アマコは俺より疲れるに決まってるんだ」

「え? え?」

「気が付かなかったなぁ……こんなだから、俺はヨシに怒られる。せっかく追いかけても、これじゃあ意味がない」

「よ、ヨシ姉ちゃん……?」

 ジロリと、ゲン兄ちゃんの丸い目がアマコを見下ろす。

 何がなんだかわからなくて、アマコは思わず下を向いた。何か怖いことが起きるような気がして、つい目を伏せてしまった。

 だが。

「ほら」と、小さな声がしたのに合わせて、恐る恐る顔を上げたアマコの目に飛び込んできたのは、しゃがみこんだ兄の、大きな背中だった。

「……え?」

「ここからは俺が背負うよ。先も長いし」ゲン兄ちゃんは確かに、そう言った。

 最初アマコは、自分が何を言われたのかわからなかった。あまりにも兄らしからぬ言葉に、ただぼうっと、目をパチクリさせるしかなかった。しかし、「ほら、早く」と急かされた途端、アマコはまた、自分がまずいことをしてしまったのだと思い込んだ。

(……私、お兄ちゃんに迷惑かけたんだ!!)

「そ、そんなっ! だいじょうぶ、一人でだいじょうぶ!」慌ててアマコは首を横に振る。「私が勝手についてきちゃったんだから、そんなの……私……重いもん……」

「でも、疲れたんでしょ」ゲン兄ちゃんは階段の上に顔を向けたまま、淡々としゃべっている。「それに、アマコを背負うくらいなんでもないさ。俺、ヨシより力持ちだし」

「……え? いや、だけど……右手が、だって……」

「大丈夫だよ、もうほとんど痛くないから。普段、迷惑しかかけてないし……これくらい、するよ」

 ビビッと、喉が震えた。

 迷惑なんかじゃないと、叫びたかった。アマコはゲン兄ちゃんのためにする、すべてのことが好きだったのだ。

 だがアマコは、何かをやらなければと思えば思うほど……自分で自分を急かせば急かすほど、何がなんだかわからなくなって、周りが見えなくなる子どもであった。一人でどんどん焦り狂って、最後にはその場に泣き崩れる……アマコはいつもそうだった。

 この時もアマコは、ジワジワと喉まで這い上がってきた不安に心が押しつぶされ、真っ白になった頭で、泣きわめく寸前であった。雨の降り出しそうな、幽霊のように青白い空の下、心配と恐怖が幼い心のなかで混じり合い、兄の人形を壊してしまったと思い込んだときと同じように、勝手な被害妄想で胸がいっぱいになっていた。

 だが……。

 ゲン兄ちゃんが無理に近づけてきた背中を、押し返そうとしたのだか、つかもうとしたのだかはわからないけれど。

 ともかくアマコは、困惑したままその両手を、兄の背中に触れさせた。

 その途端。

 バチリと頭に火がついた……そう思ったら、それとは正反対に、心がシーンと静まり返った。

 彼女の中にああだこうだと湧き立っていた無駄な言葉が、霧のように散り去って、音が何も、聞こえなくなる。

 一瞬だけ……本当にちらりと、遠い記憶の中の、懐かしい風景がアマコのまぶたに浮かんだ。

 それはまだアマコが、リンくらいの年もなかった頃。ヨシ姉ちゃんとカヤ姉ちゃんの背中から、ゲン兄ちゃんの背へと移ったときに感じた、言いようのないほどの暖かさ。

 微かに香る、甘く、まろやかな安心感。

 そのまま兄の背中でウトウトと揺れていられた、幼き日の原風景……。

 突然、アマコはそれを思い出した。

「ほら」と、また急かされるままに、ほとんどすがるような気持ちで……お腹が空いたときや、喉が渇いたときとかと同じように……足りない心を埋めるように、アマコはゲン兄ちゃんの背中にゆっくりと手をかけた。

 何も考えずに、それができた。

 ぶわりと、とても柔らかい波が、背中からハクユのような暖かさでアマコの体を包み込む。

 力強い手が彼女の足を抱えて、体が背負い上げられる。冷えていた体に温もりが触れ、体中から力が抜けていく。

 その背中は、アマコが思っていたよりもずっと大きくて……幸せだったあの頃と同じような比率で、すべてがそこにあった。細く柔らかい髪の毛も、白いうなじも、奇跡のような近さで、アマコの視界を埋めていた。

 彼女の胸の中で、何かが膨らみ始める。

 鼻の奥が痛くなって、耳の奥から、シー……ィンと静かに音が響く。

 アマコを背負ったまま、ゲン兄ちゃんは、そのまま階段を上り始めた。

 一歩一歩、思っていたよりもずっと力強い足取りで、進んでいく。

 その振動……上下する視界、浮遊感……何よりも、耳を直接揺らすような呼吸の音……それらを肌に感じたとき、アマコは完全に、思い出した。

(そうだ、私は……ここが、好きだったんだ……)

 細い涙が、ツーっと、彼女の頬を伝っていた。

 それは、普段アマコ泣くときのような、右も左もわからなってしまう混乱とは違う、おだやかな涙だった。

 慌てたり、過剰に喜んだり、不安になったりする必要のない、どこまでも体になじむ、アマコの場所。

 彼女はずっと、この背中に帰りたかったのだ。

 ゲン兄ちゃんの声が、こそばゆいほどにすぐ近くから、響いてくる。「……背負うの久しぶりだね。アマコ、いつの間に大きくなってたんだ」

「……重い?」アマコは、そう聞いた。しゃべったつもりはなかったのに、気がついたら言葉が出ていた。

「全然。昔より軽いよ。俺も大きくなったみたいだから……知ってた? 俺、ヨシより背が高くなってたよ」

 クスクスっと、体が喜ぶのを感じる。「お兄ちゃん、知らなかったの?」

「知らなかった」

「……お兄ちゃん?」また、口から勝手に言葉があふれた。

「ん?」

「あ、えっと……」なにか言葉を探す。「お……お兄ちゃんは、ヨシ姉ちゃんを追いかけてるんだよね?」

「そうだね」

 ゲン兄ちゃんはゆっくりと、いつもどおりに短くうなずいてから、やや間を置いて喋りだす。「俺もさ、人形ばっかり作ってないで、もっとちゃんとしなきゃなって、思ったんだよ」

「……ちゃんと?」

「ヨシはみんなを心配して、怖いのに追いかけていったのに……怖くないって知ってる俺がそれを追わないのって、おかしいかなって。あ、ねえ、アマコ?」

「なに?」

「腕、首にかけてくれるかな? そのほうが、背負いやすい」

 一瞬だけアマコはどきりとしたが、すぐに落ち着いた気分になって、肩にかかっていた両腕を胸のところにまでギュッと回した。

 とても暖かかった。

 心が、ポカポカするようだった。

 体の内側から、何か、とても心地よいものが染み出してきて、景色までが、ほんのりと明るくなったような気分になる。

「これでいい?」アマコは、聞く。

「うん」

 うん……。

 その、何気ない返事が、なぜだがアマコの心を激しく揺さぶった。

 いつからだろう。

 ゲン兄ちゃんと話すのに、緊張するようになったのは。

 ゲン兄ちゃんに、アマコは触れちゃいけないと思うようになったのは。

 かつて、アマコが親に言われた言葉……お兄ちゃんの邪魔をするな。それは小さかった頃のアマコの中で、兄と話してはいけないという意味となり、兄に触れてはいけないという意味となって、彼女の心を縛っていた。自分では迷惑をかけているつもりのなかった……実際に迷惑などではなかった行為を大人に迷惑と断じられたことで、アマコは自分の感覚を信じられなくなった。何が迷惑かわからないから、あれやこれやと試してみるのではなく、あれもこれも我慢するようになった。自分がしたいと思っていることは、してはいけないことなんだと考えるようになっていた。

 あれから今日まで、アマコにとって大事だったのは、いかに自分のしたいことをしないでいられるか、だったのだ。

「なんか……あれだね」ゲン兄ちゃんの素朴な声で、背中にいるアマコに優しく語りかける。「こっちのほうが、話しやすいのかな。俺、顔が見えてると、人形のこと考えちゃうし」

「うん、知ってる」

「へぇ……すごいな。よく見てるね」

 アマコはまた、笑った。「みんな、知ってるよ」

「俺、わかりやすいからね」ゲン兄ちゃんもゆるく笑いながら、ゆったりと歩を進めて行く。「なんでもすぐにバレちゃうんだなぁ」

「ゲン兄ちゃん……よくしゃべる」喉が震えているのを感じながら、アマコは、今度は自分から話しかけた。

「……ヨシにね、もっとアマコと話せって、怒られたんだ」

 その言葉を聞いた途端、アマコはまたしてもドキリとした。これまで積み上げてきた習慣が不意に首をもたげ、不安のあまりに、頭皮がゾワゾワとさかだってしまった。もしかしたらお兄ちゃんは無理をしてアマコとしゃべってるだけで、本当は面倒臭がっているんじゃないかと……一度、ヨシ姉ちゃんの前で気持ちを吐露してしまったことが、お兄ちゃんに伝わって、迷惑をかけたんじゃないだろうか……と、そう疑った。

 だが……。

「俺……アマコは俺と話したくないんだって思ってた」その言葉に、またしても不要な言葉たちは温もりに溶かされて、いなくなった。

「俺は昔から、アマコの話を聞くのは好きだったよ。でも、俺って返事がつまらないし、アマコも面倒くさいんじゃないかって、勝手に考えてた」

 喉がいきなり熱くなった。今にも鼻水が、こぼれそうだった。

「アマコは……俺に話したいことって、あるのかな? あるんなら、聞きたいんだけど……」

 パチパチっと、アマコの頭のなかで何かが燃え立つ音がした。

 信じられないほどたくさんの言葉が一度に湧き上がってきて、あっという間に全身がブルブルと震えだした。

 それは例えば、カイリが作った歌のことや、ジロウが教えてくれた五石での勝ち方の話。

 最近チユリ姉ちゃんが遊んでくれることとか、ちゃんとヨシ姉ちゃんと結婚してくれるのかどうかなんてことも。

 こっそりと作ってみた下手っぴな人形の話に、お父さんが外から持って帰ってきたおみやげの話。

 聞きたいこともたくさんあった。

 人形を作っているとき、夜は寒くないのかとか。

 たまにでいいから夜更かしして、人形作りを、後ろで見ていたいこととか。

 昔一度だけ作ってくれたアマコの人形を、今でもずっと大切にしていること。

 そして、お母さんのことも。

 昨日のこと、一昨日のこと、去年のこと……その前にもあった、いろんなこと……たくさんのこと……。

 これまでずっと話しそびれてきた、アマコの話。

 それが一度に喉元へと這い上がってきて、アマコはまた、何がなんだかわからなくなった。

 話したいことなんて、数え切れないくらいにたくさんあったのだ。

 ハチャメチャな頭をぐるぐるさせて、アマコは何か、言おうとした。だけど、口からこぼれだしてくるのは、「あ……あの、えっと……あのね! あ、いや……えっと、ええっと……」と、しどろもどろな、言葉ばかり。

 そんなアマコを見て、だけどゲン兄ちゃんは、とても和やかにクスクスと微笑んだ。「いやいや、何もそんなに急いで話さなくても……」

「……あ……うん……」

「まだ先は、長いんだからさ」

 先は長い……。

 フーっと、緊張していた頭が、湯気でも立てているみたいにほぐれていく。

(そうだ……もっとゆっくり考えてもいいんだ……)アマコはそれに気がついた(急がなくても……お兄ちゃんの背中は逃げないんだから)

 アマコは鼻から息を吸って、目を閉じた。

 ぎゅっと、抱きつく腕に力がこもる。

(だって……こんなに近くに、お兄ちゃんはいるんだもの……)

 いつの間にかとてつもないほどの涙が、ゲン兄ちゃんの着物を濡らしていた。声をあげないでいられるのが不思議なくらいに次々と涙がこぼれだしてきて、まるで顔がパンパンに腫れあがってしまったみたいに火照ほてっていた。

 でもアマコはもう、ぴくりとも動ける気がしなかった。

 泣いてる心を、泣くのに任せていられたのはいつぶりだろう。いつもならアマコは、なんとか泣き止もうと必死になるのに。

 ……こんなに幸せで、いいんだろうか?

 なんて、素敵な時間なんだろう。

 いつまでも、このままでいられたらいいのに……と。

 アマコはそう、願っていた。

 今日がなんの日で、ゲン兄ちゃんが今どこへ向かっているか……それどころか、なんのために神社へと向かっているのかさえ、アマコは忘れてしまっていた。

 山を上るにつれ、やかましさを増していく蛙たちのあざけりさえ、その耳に入りはしなかった。

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