第150話 外伝55.1960年 サウジアラビア 藍人
――1960年 サウジアラビア 藍人
十八世紀ごろまでは世界で最も勢いのある国の一つであったオスマントルコは、エジプト、ペルシャに至るほとんど全てのイスラム圏国家を自国に呑み込む。しかし、西洋列強が産業革命に至り、技術力の差からオスマントルコを圧倒し始めると、この国は昔日の勢いを取り戻すことが無かった。
オスマントルコは広大な領域を誇っていたが、西洋列強と宗教の違いもあり全ての西洋列強国から搾取の対象とされる。
黒海北部のように列強へ割譲する地域、ギリシャなど独立する地域、同じイスラム圏でも列強の後ろ盾を得たペルシャやエジプトは自立していくと勢力圏は縮小していった。
藍人の訪れているサウジアラビア王国のあるアラビア半島でも長くオスマントルコとの紛争があり、最終的に日本と深いつながりのあったナシュド王国が覇権を握る。ナシュド王国はサウジアラビア王国と名前を変え現在に至っているというわけだ。
サウジアラビア王国は日本と異なり王の権限が政治に影響を及ぼす。といっても、サウジアラビアでは成人男女の普通選挙が行われ、選出された議員が内閣を構成し議会を運営する複数政党制の民主主義国家である。
日本と同じく議員の選挙によって首相が選ばれるが、首相に就任するためには国王の承認が必要になる。また国王は内閣の解散権を持つ。しかしながら、これまで国王による首相の否認や内閣の解散は行われたことはない。
もし、サウジアラビアでクーデターなど国家転覆の危機が訪れた場合、国王権限で内閣の解散、総選挙という事態が起こるかもしれない。
サウジアラビアの法制度は他のイスラム諸国と同じで世俗憲法が採用されている。信教の自由、宗教による差別を禁じ、宗教的慣習を元にした法に反する行為は認められていない。
ほとんどのイスラム諸国は列強植民地または列強の支援を受けて独立したが、列強国は独立の条件として「世俗化」を強く要求した。その結果、「世俗化」はどのイスラム国家でも採用されているというわけだ。
上記で記載したように、サウジアラビアもその例外ではない。
1961年現在、イスラム諸国は稀にイスラム教徒内の派閥の違いを原因とした衝突はあったが、概ね平和が保たれている。ユダヤ教徒が多く住むエルサレムにおいてもトルコ政府の厳重な管理体制が功を奏し、ユダヤ教徒とイスラム教徒の抗争は皆無であった。
話をサウジアラビア王国へ戻すと、中東と呼ばれる地域でサウジアラビアの存在感は非常に大きい。サウジアラビアは円経済圏が形成された初期からのメンバーで日本との繋がりが深く、日本の開発援助を受け最も早く近代的な石油精製設備をつくりあげることができた。
その後、円経済圏内へ石油を輸出するとともに、石油一辺倒に頼る経済体制を危惧した政府は他の産業の発展にも力を入れてきた。その結果、多くは日独墺とサウジアラビアとの合弁会社であるが、化学プラントが年々増えてきている。
また、国家的な実験プロジェクトとして砂漠を緑化し農業を起こすことはできないかという試みも進められている。
藍人は数年ぶりにサウジアラビアの地を訪れていた。というのは、彼が立ち上げ当初関わったとある石油を取り扱う会社が国王から表彰を受けることになり、藍人も関係者の一人として出席してくれないかとオファーが来ていたからだった。
藍人はサウジアラビアの首都リヤドの空港に到着すると、すぐに石油関係の会社社員に迎えられタクシーに乗り市内へと移動する。到着したのは何故か立派なスタジアムだった……
「ここって、サッカーのスタジアムでしたっけ?」
藍人は車中の後部座席の隣に座る社員へ尋ねる。
「はい。リヤドが誇る中東一、収容人数の多いスタジアムですよ」
「サッカーの観戦でもするんでしょうか?」
「国王による式典は明日の夜なんですが、国王から皆さんへとサッカーの観戦チケットをプレゼントしてくれたんですよ」
「おお」
サッカーに余り詳しくない藍人は、何故か興奮した様子の社員のことを不思議に思いながらも一応相槌を打つ。
「藍人さん、これから行われる試合をご存知ないんですか?」
藍人の反応がイマイチだったことから、社員は驚いたように藍人に尋ねる。
「すいません、正直言って……」
「これから始まるのはサウジアラビア代表と日本代表の試合ですよ!」
社員の言葉にようやく藍人はこの社員が興奮していた理由を理解できた。これから行われるのは日本対サウジアラビアのサッカーワールドカップ最終予選だ。
日本サッカーは欧州や南米の強国と対戦すれば若干レベルが落ち、ワールドカップ本戦の最高成績はベスト十六が最高と記憶している……しかし、アジアの中で日本の実力は抜きんでており、アジア予選ならそうそう負けることはないだろうと思う。
サウジアラビアの人気スポーツはサッカーで、国内リーグの観戦者も多い。世界各国の選手が集まる日本リーグの放映も行われているので、日本代表のメンバーはサウジアラビアの人達にとってなじみ深いものなのだろう。
そんな日本代表とサウジアラビア代表の重要な一戦がこれからこのスタジアムで行われる。なるほど、確かにチケットを取るのが困難だから、この社員は興奮しているのか。
藍人は納得がいったようにポンと手を打つ。
藍人が理解した様子を見て取った社員は笑顔で彼にチケットを手渡すと、「紛失しないように注意してください」と念をおしてくる。
藍人がチケットに目を落とすと、「特別席」とチケットに記載されていた。
「この座席……『特別席』ってなんでしょう?」
「その通りの意味ですよ。普通の人は座ることのできない座席なんですよ。楽しみにしておいてくださいね!」
「は、はい」
終始この社員に圧倒されっぱなしの藍人なのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます