第142話 外伝47.1968年 二つの南ア問題その1

――1968年 イギリス ロンドン

 人類初の月着陸が世界中で話題になった1968年……世界は概ね大きな紛争も無く平和を謳歌していたが、紛争にまで至っていないものの貧富の差と飢えに苦しむ国家が世界にはまだ存在する。

 アフリカ大陸は北アフリカを除き、支配者だった英仏などの列強諸国の分割統治によって部族間の関係性がお互いに戦争へ至るほど悪化していた。また、教育も行き届かず、農業も支配諸国の金になる作物だけを劣悪な環境で作るにとどまっていた。

 

 植民地の支配諸国はこうした搾取体制を転換し、現地を平自主独立させ飢えず、争わずに発展できるようアフリカを大きな地域として分けて地域ごとの連邦を作るべく長期計画を実施し始める。

 1940年代にまず西部アフリカで始まったアフリカ復興計画は二十年の時を経て、ついに西部アフリカ連邦として独立した。独立後、十年間は引き続き英仏日の支援を受けることとなっている。独立準備中から西部アフリカにある独立国リベリアも西部アフリカ独立準備地域へ加入し、リベリアは西部アフリカ連邦の一部になる。

 同じく中部アフリカもドイツから独立したカメルーンを加え、中部アフリカ連邦として独立する。

 

 東部アフリカはエチオピア帝国を除き、1970年に独立予定になっており、こちらも独立に向けて順調に推移していた。

 最後に独立準備を始めた南部アフリカも大きな問題が発生せずにここまで来ていたが、南部アフリカ「外部」で問題が発生していたのだった。南部アフリカは対応を元宗主国であるイギリスに求め、対応に苦慮したイギリスは元宗主国であったポルトガル、独立政策を共に行ってきた日本とフランスに対策会議を提案し、ロンドンで会議が開催されることになった。

 

 外部問題とは、南部アフリカに隣接する二つの国家による政治的な問題である。二つの国家とはアフリカ最南端にある南アフリカ共和国とその北東に隣接するジンバブエになる。

 ジンバブエは1960年に独立闘争の結果、白人支配の政治組織が倒され黒人による新たな独裁政権が成立する。新独裁政権は国名をローデシアからジンバブエにあらためる。

 

 ジンバブエに変わって新独裁政権は大胆な改革を次々と決定していく。多くは白人支配者層に奪われていた利権を黒人へという政策だったのだが、早急かつこれまで単純に土地を与えるだけ、会社を潰すだけといった「物質」だけを見た変革の結果、国内は大混乱してしまう。

 特に深刻だったのは、食糧を輸出するくらい豊富だった大規模農園の解体だろう。土地を分け、農業のノウハウの無い者が多数で農業工作機械も無く無軌道に畑を作ったため、食料生産高が激減する。

 食料品が極度に高騰していき、さらにはあらゆる経済政策の失敗に加え通貨政策も無茶を行ってしまったので、ジンバブエの通貨はハイパーインフレを起こし破たんする。

 

 国政運営は完全に失敗したと言えることは明らかであったが、独裁政権は情報統制を行い、白人の支配から脱却したと政権の成功を国内のマスコミを使い喧伝している。

 新独裁政権が成立してから五年がたつ頃には、ジンバブエから脱出しようとする市民が南部アフリカへ流入し始める。

 南部アフリカは未だ独立準備中で外交政策についてはイギリスと南部アフリカ議会の合議で決定しており、ジンバブエから流入する難民問題を協議した。その結果、亡命を希望する者については受け入れることを決定する。

 しかし、単純に受け入れるわけではなく、難民には南部アフリカの技術研修を受けた後、反政治的な思想を持っていないかなど調査し、問題なければ出国制限付きの南部アフリカ滞在権を与えるというものだった。滞在権はジンバブエの情勢を数年単位で経過観察を行い、滞在期間を延長するか決定する。

 国籍付与については今後南部アフリカ国会で協議していくとした。

 

 この決定を受けて、ジンバブエから流入していた難民は南部アフリカへ受け入れられた。受け入れ開始から三年を経過した1968年になると、受け入れ初期の頃の難民は南部アフリカで順調に仕事をこなし安定した生活を送るようになっていた。

 難民受け入れの順調さに不満の態度を示してきたのがジンバブエ独裁政権で、難民が順調に成果をあげていると知ると、難民はジンバブエの国民なのだからジンバブエに税金を納めるよう通達し、納めぬ場合は南部アフリカへ抗議すると南部アフリカ政府へ提議してきた。

 ジンバブエの理解不能な提議に南部アフリカは困惑し、ジンバブエと一応の協議を行うが、その席でジンバブエの放った主張に南部アフリカ首脳陣は呆れかえる。

 

 その内容は、「ジンバブエはそもそも白人国家に搾取されて来た国で、南部アフリカの宗主国がジンバブエの言い分を聞くのは当然なのである」といったもので、協議にならないと判断した南部アフリカ首脳陣は宗主国イギリスへ相談を持ち掛ける。

 これがロンドンで会議が開催されることになった議題の一つ目である。

 

 もう一方の南アフリカ共和国は長年アパルトヘイト政策という人種隔離政策を取っていたが、オーストリア連邦の成立以来、南アフリカ共和国と取引する相手国は減っていき、宗主国であるイギリスもアパルトヘイト政策をやめるよう勧告するが、南アフリカ共和国は勧告を拒否しイギリス連邦から脱退する。

 1950年を過ぎる頃には主だった先進国で南アフリカ共和国と貿易を行う国は、新ソ連成立をもって存在しなくなり、先進国以外でも次々と取引先を失っていく。1955年には中国大陸にある共産主義国家、南米のいくつかの国家以外は取引を行わなくなってしまう。

 さらに、南米の国家群が英米日を始めとした先進国の投資を受けるようになると、南アフリカとの貿易を凍結していく。

 

 ダイヤモンドなどの豊富な鉱物資源も豊富な農産物も輸出できなければ、宝の持ち腐れになってしまう。それでも南アフリカ共和国は数年アパルトヘイト政策を維持する。しかし、富裕層を中心とした白人層が先に音をあげ1960年に南アフリカ共和国で平等な総選挙が開催された。

 その結果、黒人政党が勝利し国の代表が黒人に入れ替わる。白人政権末期から差別的な政策は撤廃されてきており、黒人政権の誕生によって南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策は終焉を迎えた。

 南アフリカ共和国ではジンバブエほど無軌道な政策を行わず、白人富裕層も一定の影響力を保持していることもあり、GNPは政権交代前とそこまで変わっていない。

 しかし、国内は貧困問題が顕在化し、都市部の治安悪化が目立つ。南アフリカ共和国政府はこれらの問題を解消すべく施策をうってはいるが目立った効果は未だあがっていない。

 アパルトヘイトの終焉に伴い、南アフリカ共和国と先進国は貿易を再開した結果、先進国の企業の進出が進んできているが、貧困にあえぐ市民にはなんら貢献していないのが現状だ。むしろ貧富の差がますます広がっている。

 

 状況を打開するため南アフリカ共和国は驚くべき動きを見せる。なんと南アフリカ共和国は隣国の南部アフリカへ自国が加入することができないかを提議してきたのだった。

 この件も重大協議としてイギリスへ持ち込まれ、ロンドン会議で協議されることになった。

 

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