第10話 パリ講和会議 オーストリアとトルコ 過去
――過去 藍人
藍人は一目惚れしてしまったひまわりのような女性のことを思いため息をつく。彼は当初彼女が目に入った時、体に電気が走るほどの衝撃を受けた。彼女をじっと見つめたまま固まってしまい。苦笑する彼女から声をかけられたのが二人の出会いのきっかけだ。
その後、藍人は彼女の家を訪ねるようになり今ではそれなりの仲にまで発展していた。彼女の両親も藍人の真面目な性格を気に入り、彼によくしてくれている。それが幸か不幸か彼に判断がつかないことだが、彼女の父親は外交官だったのだ。
そのつてで平和条約が結ばれたばかりのドイツへ渡航許可が出た。藍人の会社としても、どこよりもはやくドイツへ人を派遣したかったから渡りに船とばかりに彼をドイツへと向かわせる。
そして今……藍人は洋上の人となっている。もちろん、ドイツ行の船の上というわけだ……ドイツへ渡航できるのは彼にとって幸運だが、数年は彼女と会えないかもしれないと思うと彼は焦燥感に早くも駆られている。
「ああ。蜜柑さん……」
彼は今日何度目か分からぬ思い人の名前を呟く。
ため息をつく藍人へ、初老の紳士が声をかける。
「藍人君。君の娘を思う気持ちはここ数日でよおく分かった。安心してくれたまえ、帰国したら君と蜜柑の婚姻を進めようじゃないか」
「
藍人に声をかけたのは、彼が愛する蜜柑の父親――
「ほら。君の好きな新聞も航空機が持ってきてくれたぞ。読もうじゃないか」
「響さん。新聞本当にありがたいです」
毎日読めるわけではないが、船が寄港した際に必ず響は新聞を取り寄せ藍人に届けてくれる。立場上、響は情報を集めれるだけ集めなければならないし、ちょうど藍人の慰めにもなる。
藍人は響に感謝しつつ、新聞を受け取り、船内のカフェへと二人で向かう。
新聞はパリ講和会議の結果締結された条約について連日報道していた。今日受け取った新聞の記事はこうだ。
<ドイツの賠償金の一部を日本が建て替え?>
「響さん、ドイツの賠償金を日本が持つって書いてますけどこれって」
響は藍人の疑問へコーヒーに口をつけてから応じる。
「それは、戦中に英仏へ貸し出した資金をドイツに付け替えるってことだね」
「やはりそういうことですか。結局ドイツが支払わなければ英仏は日本へ債権を返却しませんものね」
「そういうこと。破たんするかもしれないドイツへ債権を切り替えることはリスクがあるが、かの国が破たんすれば英仏も支払いを止めるだろうから同じことさ」
「なるほど。条件にドイツからの技術協力ってありましたよね。確か」
「そうだとも。この債権の付け替えは日本にとって損はない話だよ」
「確かにそうですね。ええと賠償金の額ってまだ議論中でしたよね」
「その通りだよ。対ドイツとの平和条約――ヴェルサイユ条約は締結されたけれど、賠償金問題は未だ議論中だ」
「大枠としては、ドイツのマルク建てで賠償金を支払うってことでしたよね」
「当初英仏……いやフランスが強硬に外貨建てを主張したが、フランスに債権を持つ日米が反対したからね。そんなことをして、ドイツが潰れてしまっては日米が債権を回収できないじゃないかと」
「日米にとっても債権回収は死活問題ですしね」
「そういう事だよ。君と政治の話をすると面白い。君は利発だし着眼点も的確だから」
「いえいえ。そんな……」
基本船上では暇を持て余す。多少の娯楽施設は備えているものの、船が寄港した時以外は食事以外基本やることがないのが現状だ。二人はこうして政治談議をしながら、暇をつぶすことが多い。
二人ともこういった話は好んだので話に熱が入ると時間を忘れて話込むことも多々あった。
「オーストリアとトルコの平和条約締結情報も記事に出て来てますね」
「新聞発表はほんと早くなったね。そうだとも。話はドイツだけに留まらないからね」
藍人は本日受け取った新聞と先日の新聞両方に目をやり、オーストリアとトルコの情報を収集し始める。オーストリア=ハンガリー帝国は国名がオーストリア連邦という名前に変わる予定と記事が出ていた。
オーストリア=ハンガリー帝国はあと一歩で解体の危機にあったが、皇帝が自ら立憲君主として権力を全て放棄。新たに連邦準備委員会が発足し、域内の全ての民族の平等がうたわれ、これまでドイツ人とハンガリー人を優遇していたことを皇帝自らが謝罪したのだ。
この記事を見た時、藍人は驚いて新聞を手から落としてしまった。だって、国の権力を手にしていた皇帝が自ら権力を放棄し、かつ謝罪までするなんて。その心意気あってか、国名は皇帝の一族の出身地であるオーストリアの名が残ることになる。
域内は外交と軍事についてはオーストリア連邦政府の管轄となるが、内政については完全に自治が認められている。アメリカ合衆国の州制度に近いが、アメリカよりさらに自治が進んだイメージとのこと。
この決定は世界から称賛され、オーストリア連邦は、国内にオーストリア・ハンガリー・チェコ・スロベニア・クロアチア・ボスニア・ダルマチア・ガリツィアと八つの州に別れることとなった。
まだ内部で特にチェコにおいては革命派がくすぶっているようだが、英仏米の国体変更案を受け入れたオーストリア連邦は彼らの軍事的支援を受けることになるから、そのうち収まって来るんじゃないかと藍人は考えていた。
「考えてみると、オーストリア連邦でしたか……随分と変わりましたね」
「国内の民族抗争が限界を迎えていたオーストリア=ハンガリーがこう変わるとは戦前は予想してなかったよ」
オーストリア連邦の変化は響にとっても驚きだったようで、彼も熱っぽくオーストリア連邦のことを語る。
「これであの地域の紛争が無くなってくれればいいんですけど……紛争は俺のような貿易業には大打撃ですよ」
「ははは。君も言うようになったじゃないか。あの領域はまだ予断を許さないよ。周辺国も虎視眈々と領土拡大を狙っているからね」
彼らの政治談議はまだまだ続く。話題はトルコから英仏米へと遷移していこうとしていた……しかし、彼らの会話を遮るように夜を告げる鐘が船内に鳴り響く。
「お。どうやら、夕食の時間らしい」
「そうですね。また後程」
「もちろんだとも。私もぜひ君と会話をかわしたい」
本日響は同僚と食事の約束をしていたので、この後藍人とは食事に行くことが出来ない。だから彼らはまた明日と最後に言葉を交わしたのだった。
――ワクテカ新聞
日本、いや世界で一番軽いノリのワクテカ新聞だぜ! 今回も執筆するのは編集の叶健太郎。よろしくな。え? まだ首になってなかったのかって? うるせえよ。
俺の人気を知らないんだな? もう連日、叶さん! ってファンレターが届くんだぜ。本当だってば!
パリ講和会議の結果ようやく、ドイツ・オーストリア・トルコとの平和条約が締結される運びになったな。長かったぜ。ドイツは次回特集を組むから待っていてくれ!
え? 勉強不足で書けないんだろうって? そんなことないわ! これでも一応記者だぞ俺は。
よし、じゃあまずはオーストリアからだ。オーストリアはトリアノン条約って平和条約を締結する。戦勝国からの要求で国体変更を迫られたオーストリア=ハンガリー帝国はオーストリア連邦として生まれ変わる。
皇帝の潔い態度に世界から称賛を受けた。皇帝も分かっていたと思う。ドイツでもトルコでも皇帝は退位し、亡命している。粘らず自分が国内に留まれる道を選んだんだろうよ。
オーストリアは戦前の領域をほとんど維持している。イタリアにチロルとトレントを割譲した程度だな。連邦制国家になったものの、国内は疲弊しきり賠償金が無いのは幸いだろう。
チェコで革命勢力がまだくすぶっているから、まずは国内安定に尽力すると声明を出していたな。国内が不安定だろうから、平和維持に戦勝国から軍を配備することになっている。上手く収まるといいな!
オーストリアが絶賛されたのと対称的にトルコ(オスマン帝国)が結んだセーブル条約は過酷なものだった。英仏の野心が漲り巨大国家オスマントルコは解体される。
ギリシャが領土要求をしたものの、これは認められずトラキアと小アジアのスルミナはトルコに維持。その代わりに皇帝は退位する。以後トルコはアンカラにあるトルコ大国民議会(アンカラ政府)に率いられることとなった。
アルメニアは独立。北アフリカはフランスへ。エジプト・イラクはイギリスへ。シリアはトルコに保持された。ただし、聖地があるパレスチナ周辺は国際連盟の管理地域となった。
トルコは、アラビア半島のヒジャーズ王国の独立も承認することになる。まあ、シリアは残ったとはいえ、ものの見事に英仏の領土争いに使われてしまったって感じだな。
今後領土的野心に囚われたオーストリア連邦とトルコの周辺国家は彼らに攻め込むかもしれない。一応終結したとはいえ、これまで大国だった彼らが弱体化した今……特にルーマニアとギリシャには注目だな!
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