フラスコの中の私

上尾つぐみ

フラスコの中の私

 垂れ込めた雲は硝石。スポイトから落ちるような滴に濡れた、木々の葉の色は緑青(ろくしょう)。窓から見える景色をなじみのあるものになぞらえて、私は気を紛らわせていた。

 私、ルトゥール男爵家第一令嬢ミルクは、嫁入りのためにこのゾルト侯爵家へやってきた。

 会ったこともない遠い領地の侯爵様が、辺境男爵の一人娘である私を側室にしたいとのお手紙。理由は全くわからないけど、ずっと爵位が上の相手からの申し出を断るわけにもいかない。何かの間違いではないかと、不安で心臓がバクバクと音を立てる。

 ああ、こんな時は実験室に籠りたい。私が錬金術なんかに興味を持って、父上は当然いい顔をしなかったけれど、それでも根負けして城の地下に小さな実験室を作ってくれた。

 もちろん、ここでまでそんな我儘を言うわけにはいかないし、もう一生錬金術なんてできないかもしれない。そう思うと、気分が余計に重くなる。

「ミルク様、ゾルト侯爵様がお呼びです」

 女中に呼ばれて、私は椅子から立ち上がる。開けられたドアをくぐると、真っ赤な絨毯が敷き詰められた応接室の奥で、真鍮の椅子に腰かけた男性が目に留まった。

 「――おい、何を呆けている」

 青く澄んだ瞳。銅の化合物が溶けた水溶液みたいで、私は吸いこまれるような錯覚を覚える。鋭いけれど冷たさは感じない、不思議なまなざし。そんな目で睨まれて、私は息がつまる。

 この人が、私に求婚してきたゾルト家侯爵の、ヴィスター様? 十八の私より年上ではあるのだろうけれど、想像よりは幾分か若い。

「すみません! 私がお手紙をいただきました、ミルク・ルトゥールです!」

 私は頭を下げる。

「そうか、お前が例の娘か。噂にたがわず、なかなか面白そうなやつだ。私がこの一帯を治めている、ヴィスター・ゾルトだ」

 クスリとヴィスター様が笑う。

「――長旅で疲れただろう、早速だが今から部屋に案内する。ついてこい」

 私の横をすり抜けて、ドアから出ていくヴィスター様。それに続いて、私も待合室を通り抜け、廊下を進む。

 求婚した相手と会ってすぐ、挨拶もそこそこに部屋に案内。これからすることを想像して、思わず頬が熱くなる。

「着いたぞ、ここがお前の部屋だ」

 最上階を西側に進んだ突き当たりで、ヴィスター様が告げた。隣の部屋のドアとの距離からして、私が以前住んでいた部屋の三倍はありそうだ。ヴィスター様が、私に金色の鍵を差し出した。

「開けてもよろしいですか?」

 ヴィスター様が無言で頷いたので、私は鍵を差し込み、そっとドアノブを回す。

「わぁ……!」

 私は思わず感嘆した。

 なんと私の部屋の半分が、たくさんの実験器具で埋め尽くされていた。実験器具だけじゃない。錬金術に使う素材も触媒も、棚に収まり切らないくらいだ。冷却水と書いてある樽も、私が一人収まるぐらいに大きい!

 その上窓も大きく開くようになっていて、これなら瘴気が出るような実験だって安心して出来るだろう。

「思った通りの錬金術娘、というわけだな」

 鼻で笑われて、私はびっくりして振り返る。

「ご存じでしたか!?」

「砂糖より塩、金銀より銅を多く買う貴族がしていることなど、多少錬金術の知識のあるものなら誰でも勘づく」

「そ、それは」

 私は頭を抱えた。どうやら自分が思っていた以上に、私が錬金術を行うことは知られていたらしい。

「あれ、それじゃあヴィスター様は知っていてなんで私に」

「勘違いするな」

 尋ねようとした私を遮り、どこか怒ったような声。

「私が興味を持っているのはお前自身じゃない。お前の錬金術だ。お前には私のためにホムンクルスを造ってもらう」

 ホムンクルスとは、人造生命体のことだ。錬金術において、賢者の石に並ぶ秘法とされている。それを私に造れとは、いったいどういうことだろう?

「我が正妻コミエッタは、流行病の後遺症で子を為すことができない」

 少ない言葉だったが、私はそれで理解する。私だって貴族だ。わかってしまう。

「つまり、私が造ったホムンクルスを、コミエッタ様との子供と偽装したいということですね」

 ヴィスター様には私のほかにも側室がいる。世継ぎができないということはないだろう。でも、側室がたくさん世継ぎを産んでしまったら、正室の立場は当然悪くなる。かといって長らく側室と夜伽をしないというのも不自然で怪しまれる。それに、側室が浮気してできた子供をヴィスター様の子供だって偽ることもできるのだ。

「だからヴィスター様は、私を利用しようと……?」

 余所から錬金術師を雇ったところで、その人が秘密を漏らしてしまってはおしまいだ。側室の立場なら、例え私が喋ってしまっても、嫉妬による嘘でごまかせるだろう。

 確かに会ったこともなかったのだから、恋愛結婚ではないことは最初から明らかだった。政略結婚だろうというぐらいは思っていた。でも、政策すら関係なくて、たった一人のためだけに?

 ――やっぱり侯爵様なんて、男爵家の人間なんかその程度にしか思っていないってこと?

「まずはお前の実力を見定めるために、明日の昼までに錬金術を使って何かを作ってこい。その成果を見て婚約の成否を決める」

 私の困惑を知ってか知らずか、ヴィスター様は一方的に要求を突き付けて去っていってしまう。

 だんだん遠ざかる足音を聞きながら、私の困惑はだんだん怒りに変わっていった。

――なんなの、あの態度は!


 窓から夕陽が差し込む時間になっても、私はせっかくの実験室に一歩も足を踏み入れず、部屋の反対側のベッドで物思いにふけっていた。

 夕陽の色にカルシウムが燃える炎を連想したけど、それを振り払うため首を左右に振る。そして、ふと小さくため息を漏らしたときだった。突然ドアが勢い良くノックされたのは。

 大きな音に、思わず肩がびくりと跳ねる。

 女中ならもう少し遠慮があるだろうし、ヴィスター様のイメージにも合わない。でも他に来客なんてあるだろうか。疑問に思いながらドアに駆け寄ると、鍵をかけ忘れていたみたいで、外側からドアが開いた。

「あれっ、留守かしら」

 開いたドアからひょっこりと顔を出したのは、一人の女の子。私と同じぐらいの年頃だろうか、金髪と同系色でまとめた黄色いドレスが、快活そうな雰囲気だ。

「それにしてもすごい量の実験道具。あの二重になってるガラスの管なんて何に使うのかな――」

「それは外側の管に水を流して、内側の管の中にある気体を冷やすのに使うんですよ」

「へー、そうなんだ……って、わわ! あなた、居たんならもっと早く声かけなさいよ!」

 女の子はびっくりした様子で私を見る。知らない子がいきなり部屋に入ってきて、びっくりするのは普通こっちじゃないだろうか。

「あの……どちら様ですか?」

「あれ、ヴィスが説明したって言ってたけど」

 ヴィスというのは、ヴィスター様のことだろう。でもヴィスター様が話していた人物というと……思い浮かぶのは一人しかいない。

「正室のコミエッタ様!?」

 私は貴族としては晩婚だし、第一夫人が同じくらいの年でもおかしくない。『後遺症』と仰っていたので、流行病自体はもう治っているのだろうし。何もおかしい点はないのだけれど――想像していた薄幸の美女が、頭の中で潮解していく。

「そんなかしこまらなくていいよ。正室も側室も、同じヴィスの妻に変わりないんだし、実家も同じ男爵家だし。気軽にエッタとでも呼んで。私もミルクって呼ぶから」

「う、うん。わかったよ、エッタ」

 下手に断っても押しきられそうだったので、私は早めに折れた。もともと錬金術以外のことに対しては推しが弱いから、こういうのは苦手だ。

「それにしても……せっかくヴィスがこれだけ立派な研究室を用意したのに、あなたもしかしてまだ何もしてないの?」

 錬金術の知識がなくても、棚にあるものが一切出されていないことぐらいはわかったのだろう、エッタがため息をつく。

「いいじゃないの、ミルクは錬金術がしたい、ヴィスはあなたに錬金術してもらいたい。利害の一致で。なんて、私が言うのも変かもしれないけど」

「でも」

 私が口ごもっていると、突然エッタは語気を荒らげる。

「それとも何? ヴィスに惚れたとか!? 悪いけどヴィスの心は私だけのものなんだからね!」

 私は驚いて目を瞬(しばた)かせたけど、すぐにエッタが尤もな誤解をしていることに気付いた。私がヴィスター様に一目惚れして、利用目的の結婚だったことに腹を立てていると思ったのだろう。

「違うの、そうじゃなくて。私は早く子供を作らないといけないから」

「……どういうこと?」

 エッタが首をかしげる。どの道、私の出自から簡単に推測できることだし、隠す必要もないだろう。私はぽつりと語り始めた。

 母は一人娘の私を産んですぐに亡くなって、今現在ルトゥール家本家には跡取りとなる男子がいない。血筋を重んじるルトゥール家では、このままでは父と仲の悪い叔父が跡取りになってしまう。だから、私が男児を産んで父の養子に入れるしかないのだ。

「なるほどね。貴族あるあるってやつ? まあ、私に言わせれば下らないわ」

 話を聞き終わったエッタがやれやれと首を横に振った。

「そんな、下らないって、他人の家のことを」

「そう、それって『家』のことであって、ミルクの意思は関係ないんでしょ?」

 エッタに言われて、私は一瞬考えてしまう。確かに、私自身は錬金術が好きだ。続けたい。その気持ちを押し込めているのも事実だ。

「でも、錬金術がやりたいなんて、それこそ私の我儘だから」

 縛られているのは自分でもわかっている。私を閉じ込めている檻はフラスコのようなガラス製。壊すことはきっとたやすいのだと思うけれど、細かな破片が自分を傷つけそうで、臆病にさせる。

「錬金術やってるなんて聞いたからどんな面白い子かと思ったら、とんでもない頑固者なのね。せっかくお近づきの印にってブローチを持ってきたのに」

 エッタが私に大粒のブローチを差し出した。色違いの宝石でできた二匹の蛇が、翼の生えた金の杖に巻き付いている。錬金術の神ヘルメスの杖(ケリュケイオン)。よく見ると、二匹の蛇の尾が繋がっていて、二つの色を持つ一つの宝石で作られているのがわかる。そのことと細かい加工ができることから、私はその石の名前に思い至る。

「蛍石?」

「そ、ゾルト領では余所に売るほど採れるのよ」

 蛍石は宝飾品としてだけでなく、製鉄の融材としても使える。そんな名産品があるなんて、伯爵領だけのことはある。

 エッタはブローチを渡すかどうか一瞬ためらっていたけれど、なにせ私向けのデザインだ。持ち帰ってもしょうがないと思ったのか、私に押し付けるように手渡した。

「じゃあ、私はこれで」

 くるりと私に背を向けて、エッタはドアに手をかける。でも、ドアを開けたところで一旦動きをとめて。

「――最後に一つ言っておくけどね。ヴィスは家より私を選んでくれたわよ」

 と、背中で言って、足早に廊下を去っていく。その足音を、私はずっと聞いていた。

 足音が聞こえなくなったところで、私は考え込む。

 流行病は結婚してから罹ったにしても、侯爵家が男爵家の娘を正室に娶るなんて、当然家からの反対があったはずだ。それを押しきってエッタと結婚して、でも、ホムンクルスでもいいから子供がほしいと思うぐらい今幸せで。だからきっと、私も一歩踏み出せば自分の幸せを見つけられると誘(いざな)ってくれたのだろう。会ったこともなかった私のために。不器用だけど優しい人だ。

 でも、私にこの分厚いフラスコを破ることができるだろうか。

 じっと見つめた手には、エッタから渡されたブローチが光っている。

「蛍石……フラスコを……破る……」

 私の頭を一筋の光が駆けた。明日の昼に提出する錬金術のアイデア。

 そして、このタイミングでそんなアイデアが浮かんだことで、私の中でひとつ踏ん切りがつく。ああ、私ってやっぱり、根っから錬金術が好きなんだ。

 さて、明日の昼までに完成できるように、今のうちに下ごしらえしておかないと。私は研究室に入り、さっそく棚の中身を調べ始めた。


 翌朝、日も昇り切らないうちに目を覚ました私は、窓を大きく開いた。昨日とは打って変わって、空は青く澄んでいる。

「寒い!」

冷たい風が足を撫でて、私は思わず身震いした。初夏とはいえ、この地方ではまだ朝晩は冷え込む。瘴気を起こす作業をする以上、仕方ないのだけれど。口に布を当て、度なしの眼鏡をかけて――準備完了。

 硝子瓶、フラスコ、ビーカーを順にガラス管で繋ぎ、フラスコに触媒の白金を、ビーカーに水を溜める。ビーカーに続くガラス管に樹脂のコックをつけたら、装置の完成だ。

 戸棚から硫黄を取り出し、硝子瓶の中で火をつける。青白い炎は何とも美しくて、見蕩れそうになるけど、放っておいたら瘴気の餌食。すぐに瓶の蓋を閉めて瘴気を閉じ込める。

 瘴気はガラス管で白金のフラスコを通って性質を変える。そして次のガラス管から樹脂のコックの手前にたまる。ビーカーの水に温度計を差したら、ここからが一番難しいところだ。私は息を止め、そーっとコックを開いていく。

 瘴気を少しずつ水に溶け込ませると、水の温度がすぐに上がり始める。沸騰させたら毒霧が発生する、危険な作業。慎重にコックの開き方を調節して瘴気を水に溶かしていくと、やがて温度の上下が落ち着く。私はほっとため息をついた。――よし、あとは大丈夫。

 ちょうどそのタイミングで、ドアがノックされる。反応は落ち着いてはきたけど、まだコックから手を離すのは危ない。だから私はノックには反応しなかったけど。

「おはよう、ミルク。入るわよ」

 と、エッタが勝手にドアを開けて入ってきてしまった。また鍵をかけ忘れていたみたいだ!

「エッタおはよう! 机の上のもの絶対に触らないでね、だいたい全部危ないから!」

 とりあえず早口でそれだけ告げて、私はすぐに意識をコックに戻す。ガラス管の先の小さな気泡がなくなったところで、瘴気の流れが止まったことを確認して一安心。

「何よ、これだけ大がかりにいろいろして、その変な水が完成品?」

「これは触っちゃダメ! 指が溶けるよ。硫酸って知ってる?」

 手元の薬液に触ろうとするのを慌てて止めると、エッタはさあっと青ざめた。

「硫酸って……何でそんな危ないもの作ってるのよ」

「瘴気でも毒薬でも、きちんと使ってあげればちゃんと人の役に立つんだよ」

 そういうところが錬金術の真骨頂だと思う。けど、エッタはちょっとだけ引いた表情。いきなりの硫酸は、ちょっと驚かせてしまったかも。

「それで、それで完成なの? あいにくとヴィスに誰かを毒殺する予定はないし、そんなのじゃ受け入れてもらえないと思うけど」

「ううん、まだ少し作業が残ってるの」

 硫酸をさらにランプの火にかける。

「そんなことして大丈夫なの?」

 エッタがランプから後ずさった。驚かせすぎたかな。

「素人がやると危ないんだけど、私は慣れてるから大丈夫」

「錬金術師ってすごいのね」

「そんなことないよ」

 錬金術は基本的に地味な作業の積み重ねだ。そんな風に感心されることなんてめったにないから、つい照れてしまう。でも、やっぱりすごいって言ってもらえると、やる気がわいてくる。

 ビーカーからかすかな白煙が立ち上りはじめたら、すぐに火を止める。これでやっと下準備が終わりだ。

「あれ、こっちは? 汚れた瓶に何か入ってるみたいだけど」

 エッタが別の場所に置いておいた、石蝋を被せたフラスコに気付く。さっきから危ないものを見せられ続けていたからか、さすがにいきなり触ろうとはしない。

「それはまだ錬金術は関係ないんだけど、披露する時に使うから触らないで」

 命が危ないようなものではないのでやんわりと注意する。

「ふうん、準備万端みたいね」

 エッタは瓶に触らずに、顔を近づけたり離したりして、それが一段落すると。

「手伝おうかと思ったけど、手伝えることとかなさそうだし、そろそろ行くわ。ミルクも朝食までには一回降りてきなさいよ」

 と、言って部屋を出ていった。朝食に呼びに来るだけなら女中の仕事のはずだ。もしかして、昨日のことがあったから心配して見に来てくれたのだろうか。それならエッタのためにも、最後の仕上げをがんばらないと。


 南の空高く日が昇る頃。私は昨日とは別の応接室に通された。殆ど同じ造りだけれど、錬金術の薬品を扱うことを見越してか、こちらには真っ赤な絨毯がない。石畳の上に直に置かれた真鍮の座椅子、そしてそこに座る高貴な立ち居振る舞いのヴィスター様。その隣に、こういう状況になれないのかそわそわした様子のエッタがいるとなれば、なかなかに奇怪な光景だ。

「――その表情。準備万端といった様子だな。実家に関しては諦めがついたか」

 ヴィスター様が鼻で笑う。

「ちょっとヴィス。そんな態度だからいつも誤解されるんでしょ」

 エッタがヴィスター様を肘で突っついた。二人セットで会うのは初めてだけれど、やっぱり仲が良さそうだ。私をここに呼んだ理由からしても、本当にヴィスター様は心からエッタのことが好きなのだろう。でも、若干尻の下に敷かれているようにも見えて、私は思わず苦笑してしまう。

「何が可笑しい」

 ヴィスター様は私を軽く睨んで。

「紹介しよう。我が正妻コミエッタだ。こちらが新たに我が側室となるミルク」

 と、エッタと私をお互いに紹介する。どうやらエッタが私の様子を見に行ったことはヴィスター様に伝わっていなかったようで、エッタはぎくりと肩を震わせる。

「――もっとも、二人は初対面ではないようだが」

 どうやらヴィスター様はお見通しだったみたいで、ククッと微かに笑う。

「もう、知ってたならそう言ってよ!」

 顔を真っ赤にしてエッタが怒る。ヴィスター様からエッタに対する意趣返しなのだろうか。こちらに来る前に抱いていた伯爵様と正妻のイメージとはだいぶ離れているけど、それでも仲睦まじい関係が伝わってくる。喧嘩するほど仲が良いといった感じだ。

「さて、無駄話はここまでにして、本題に入ることとしよう。準備は――できているようだな」

 女中に押して来させた台車を見て、満足げに頷くヴィスター様。私が錬金術を行うということは、もちろん女中にも内緒だ。だから当然台車に載せた『作品』には分厚い布が被さっている。

「ヴィスター様。これが私の答えです」

 私はさっと布を剥ぎ取る。途中経過で毒薬ばかり作っていたのを見ていたエッタが、飛び散るのを恐れて後ずさろうとしてか、椅子ごとひっくり返りそうになった。

「ふむ、これは」

 台車に載っていたものを見て、ヴィスター様は首をかしげる。それもそのはず、私が台車に載せてきたものは、冷却水を入れた瓶と加熱用のランプ、唯一作品らしいものは、薄い石蝋で覆われた三角フラスコの中のデッサン人形だ。

「まさかそれがホムンクルスだ、などと言うつもりではないだろうな」

 ヴィスター様が不快の色を顕わにした。エッタも動揺を隠さずにこちらを不安げに見つめている。

「まさか。この人形はただの人形です。ボトルシップの要領で作ったもので、錬金術による作品でもありません」

「どういうつもりだ?」

 ヴィスター様の声が苛立ちで震えているのがわかったけれど、私はあえて無視して話を続ける。

「この人形は――私自身です」

 フラスコをそっと火にかけると、ゆっくりと石蝋が溶け出す。私はそれをそっと拭き取る。すると、フラスコの模様がくっきりと姿を現した。

「鳥籠……? 綺麗……」

 籠のような網目状の曲線模様が入ったフラスコを見て、エッタが呟く。

「これは、私を閉じ込める檻です。私はルトゥール家の娘である自分に、そんな自分の役割にずっと捕らわれていたんです。その檻はこのフラスコの硝子のように、その気になれば壊すこともできて、でも、そうしたら自分を傷つけそうで、私は怖くてたまらなくて、勇気がないんです」

 石蝋が完全に溶けた。そろそろ頃合いだろう。

「でも私、気付いたんです」

 ランプの火を消して横に避けると、私はすぐに瓶の冷却水をフラスコに書けた。

「あっ、そんなことしたら――!」

 エッタが思っている通りだろう。熱いフラスコは急に冷やされたことで、ぴしりと音を立ててフラスコが砕ける。

 ――籠の模様に沿って。

 私を傷つけるような尖った小さな破片は一つもない。さっと上を払えばきれいなフラスコの底に腰かけるデッサン人形だけが残った。

「こうやってちょっと工夫すれば、傷つく勇気がなくても外に出ることができるって、ね」

 私は得意げに、ヴィスター様とエッタに笑いかけた。

「えっ、今の、どうやったの? フラスコに模様が描いてあっただけでしょ?」

「描いてあったと見せかけて彫ってあった――? いや、あの複雑な曲線模様を硝子に彫るなど、一流の彫刻師でも難しいだろう」

 エッタもヴィスター様も、フラスコの仕掛けがわからずに首をかしげる。錬金術になじみがない人にはない発想なのかもしれない。

「描いたのでも掘ったのでもなくて、その模様に沿ってフラスコを溶かしました」

「溶かした……!? それじゃ硫酸で? でもあの時硝子の容器はなんともなかったけど」

 エッタが目をきらきらと輝かる。

「硫酸にそれにあるものを反応させると、弗酸っていう硝子を溶かす薬液が作れるの」

「それで、あるものって?」

「それは……その……」

 詰め寄ってくるエッタに、私は思わず冷や汗をかく。まさかここまで興味を持たれるとは思わずに、『あれ』を材料として使ってしまったけど――ヴィスター様がいる前で、エッタに隠し事するわけにはいかない。

「エッタ、ごめんなさい!」

 私はエッタの前に、ポケットから取り出したものを付き出す。蛇がいなくなった杖(ケリュケイオン)。

「弗酸を作るのに蛍石が必要だったから」

 いくら売るほど採れるとは言っても、あの時間から別の蛍石を用意してもらうのは間に合わないからと、つい合成のため硫酸に溶かしてしまったけど――やっぱりプレゼントを溶かされたらいい気分はしないだろう。

「そうなの、私のプレゼントがさっそく役に立ったのね。嬉しい!」

「へ!?」

 エッタが満面の笑みで返してきて、私は思わず唖然とした。

「同じ男爵家って昨日話したけどね、私の生家ってミルクのところよりずっと貧しくてね。プレゼントなら実用的なものが一番って育ったんだけど。でも今の侯爵夫人の立場じゃかえって日用品なんて触らせてもらえないでしょ? だから上げるものがなくて仕方なくブローチにしたんだけど、使ってもらえてよかったー」

 確かに、そういう考え方もあるのかもしれない。私も単に豪奢な装飾品よりも、錬金術の素材のほうが嬉しいほうだし。でも、若干の引っかかりを感じるのは。

「もしかして、私もエッタに対する『実用的なプレゼント』の一つですか? ヴィスター様」

「それがどうした。先ほどの錬金術はその立場に甘んじるという答えと受け取ったが」

 ヴィスター様が不敵な笑いを浮かべ、私に手を差し伸べる。握手を求めているのだろう。でも、私はその手を払いのけた。

「勘違いしないでください。私は自分のことも実家のことも諦めるわけじゃありません。何も失わなくていいように、『工夫』するんです」

「『工夫』? 面白い。どうしようというのだ」

 払われた手をさすりながら、それでもヴィスター様は笑みを崩さない。

「私はホムンクルスを二体造ります。一人はヴィスター様とエッタの子供ということに。もう一人はヴィスター様と私の子供ということにしてルトゥール家の養子に」

 この選択で間違いはないはずだ。これならエッタとヴィスター様はもちろん、ルトゥール家も断絶しない。

 私を縛りつけてきたと言っても、それは過去の呪いのようなもの。実験室を作って応援してくれた父も、うすうす勘づきながら錬金術の素材を提供してくれた領民も、今のルトゥール領の人たちが悪いわけではない。だから我儘でルトゥール家を断絶させるのは気が引けた。

「なるほど。しかし、一度の成功ですら神話や伝説の域であるホムンクルスを二体か。そのようなことができると?」

「できたら私は伝説の錬金術師ですね。そのためにゾルト侯爵家のお力、お借りします」

「――ほう」

 ヴィスター様が眉をひくつかせる。今度は私が不敵に笑い、手を差し出す番だ。ヴィスター様が私を利用するというなら、私もヴィスター様を利用させてもらう。これでお互い様だ。

「なるほど。お前はお前でなかなか強かだな」

 苦笑して頭を左右に振り、私の手を取るヴィスター様。それと同時に、指にひんやりとした感触が走る。私の薬指に白金の指輪が嵌められていた。

「約束通り。ミルク、お前を我が側室として迎え入れよう」

「よろしくお願いします」

 私は少しわざとらしく頭を下げた。

 この指輪は私とヴィスター様の契約の印。そしてその契約は、私をフラスコの外に解き放った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

フラスコの中の私 上尾つぐみ @TsugumiCAMIO

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ