第11話 影ふたつ

「送っていくよ」

 すぐ隣なのに、とは思ったものの、私は断らずにならんで功の家を出た。雨はまだ降っていて、二人ともそれぞれ赤と黒の傘をさす。

「ごめんな……。実を言うと、あの話、以前にも一回聞いたんだ。きっとこの事、祖父ちゃん誰かに伝えたいんだろうなぁ、と思って。もう菅野先生もいないしさ」

 うん……。

 でも、さすがに自分のお祖父ちゃんが七十年ちかくも昔にボーイズラブにはまっていたとは驚き、というかショックだ。

「でも、菅野先生は、相手の、その胡蝶っていう人が男だとは思ってなかったんだしさ。本気で結婚したいと思ってたみたいだ。プロポーズして、相手も受け入れたんだぜ」

 胡蝶という人はどういう気持ちで返事をしたんだろう? 

 だましとおすつもりだったのかしら? 無理だよね。ばれそうになったら逃げるつもりだったとか?

「なんか、『M・バタフライ』っていう映画みたいな話だなぁ」

 映画好きの功が以前話してくれた、中国人の美しい男性が女のふりしてフランス人の外交官をだます話だ。実際にあった事件をもとにしたそうなんだけれど、あのとき功はこう言っていたっけ。

(この人は、もしかしたら本当に女の気持ちになっていて、本気でこの外交官が好きになったのかも)

 もしかしたら、胡蝶もそうだったのかもしれない。最初はお金の為だったり、苦しい生活から逃げ出すためだったかもしれないけれど、少しはやっぱりお祖父ちゃんを好きだったのかな? 

 功がうちの鉄の門扉を開けてくれて、そこでわかれた。

 雨の庭を歩いていると、青紫の紫陽花がぼんやり光って見える。

 ここで……六歳だった私は功と初めてのキスをして、そしてお祖父ちゃんに見つかって怒られてしまったのだ。

 そうだ、あのとき功が見たのは胡蝶の幽霊だったんだ。子どもだった功には赤っぽい衣装をまとっているので女に見えたんだけれど、十六歳の雛子ちゃんは、それが実は男の子だと直感していたんだ。 

 なんだか、雨霞あまがすみの向こうに、もやもやと赤い何かが見えてくる、と思ったら私は大きくくしゃみをしてしまった。


 その夜、私は熱を出して寝こんでしまった。

 全身がだるくて、頭が朦朧とするなか、ベッドのそばに何かがいる気配を感じた。

 熱にかすむ目に、たしかにそれが見えた。

 あなた……胡蝶なのね。

(はい。胡蝶ともうします)

 驚いたことに声が頭のなかで響く。

 かすんだような、少女の低い声にも思えるけれど、やっぱり男の子の声だった。声の主がしっかりと見えてきた。

 紅いチャイナドレスのようなものをまとった、見た目は美しい少女が闇に浮かんだ。髪はボブカットで肌は白く唇は紅い、仙造さんの言っていたとおりの胡蝶だ。ああ、これって夢なのかな。

(いいえ、夢ではありません。長年お騒がせして申しわけございませんでした。今夜はお暇を告げに参りました)

 胡蝶は悲しそうにうなだれる。苦しそうに寄せられた長い眉が印象的だ。

(ずっとこうしてこのお宅をさ迷っていたのは、どうしても友蔵さんに、わたくしの気持ちを知って欲しかったからです。けっして、欲得であの人のお側にいたのではないのです。本当に、心からあの人をお慕いしていたから……。結婚を承諾したのも、私は心では本当に女のつもりだったから……。あの人もずっと私を忘れないでいてくれた。だからこそ、このお宅に留まることができたのです)

 幽霊の世界のことはわからないけれど、頭のなかにじかに伝わってくるようなその言葉に、私はちょっと複雑な気分だ。

 お祖母ちゃんが気の毒……。それも相手に伝わったみたい。

(あの人は、私のことを本当に妻だと、奥様にも話してくれました。上海にいたとき結婚した。籍こそ入れなかったが、心のうえでは夫婦も同然だったと。今でもその人のことを忘れられない、と。それを承知で奥様はあの人と結婚してくださったのです)

 胡蝶の伏せがちな目は、ちょっと苦しそうだけれど、誇らしげである。そういうところも、この人は女なのだ。

(あの人は亡くなり、私たちの話もお嬢さんに知っていただき、もう本当に未練はなくなりました)

 私は内心ホッとした。

(でも、一人で行くのは寂しいので、この人と一緒にまいります)

 え……?

 闇に、もうひとつぼんやりと白っぽいものが浮かんできた。

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