第10話 蝶の骸

 相公――。玩童がんどう、もしくは龍陽りゅうようともいう。

 日本語でいうなら陰間のことだとは、当時の私でも見当がついた。意外と子どもというものは大人の世界のことをよく見聞きしているものなのだ。

 そのころは上海でもすでにすたれつつあったが、美しい少年が少女の衣装をまとって、少女のような言葉づかいや仕草で客の相手をする相公という職種というか人種がいたのだ。

 つまり、胡蝶は男だったのだ。

 これには、私もびっくりした。

 にぶい話かもしれないが、私は休みの日以外は学校へかよっていて、胡蝶は日中のほとんどは奥の離れでなにやら楽器の練習や書に励んでいて食事もそこで取っていたため、顔を合わすこともすくなく、私も胡蝶を少女と信じて疑わなかったのだ。

 アマは気づいていたようだが、何も言わなかった。いや、アマもまた友蔵さんが知ったうえで胡蝶をひきとったのだと信じていて、あえて主人の趣味に口出したりひやかしたりするようなことはいっさい言わなかったのだろう。

 その後の友蔵さんの悲痛ぶりは、今思い出しても辛いものだった。

「嘘だ! でたらめ言うな!」と、深夜にもかかわらず叫びだし、呆然としている私には目もくれず、そのまま室を出ると、離れの奥室に向かった。あんなに怒った顔をした友蔵さんを見たのは後にも先にも一度きりだったね。

 その後、何があったのか。奥の闇からは悲痛なののしり声と、叫び声、そして泣き声が響いてきた。

 何がどうなったのか。私は布団のなかで怯えてちぢこまったまま、まどろみ、いつしか朝をむかえていた。

 そして裏庭の庭木の枝で、首を吊った胡蝶を、仕事に来たアマが見つけて叫ぶ声にうすい眠りをさまたげられた。 


「その後、どうしたの?」

 訊いたのは功だった。

「なんといってもあの騒乱の時代だったからね、言ってはなんだが中国人の男娼ひとりが首を吊ったところで工部局、つまり当時の警察もたいして気にもとめず、遺体は中国人墓地にでもほうりこまれたはずだ」

 仙造おじいちゃんは首をふりふり言う。

「そして、その後戦況はますますひどくなって、やがて敗戦の知らせを聞いたとき、私は友蔵さんに連れられて文字どおり逃げるように日本へ帰ったよ。本当に大変だった。蒋介石は『暴をもって暴に報いるな。恨みには徳をもって報いろ』というありがたい声明を出してくれたが、やはり虐げられた中国民衆の怒りはおさまるもんじゃない。復員していく日本兵の行列には腐ったトマトや果物が投げつけられていたよ。無理もないがね。

 そうやって苦労して船でたどり着いた先は鹿児島で、そのときたまたま桜島が噴火していて、初めて日本を見た私は、まだ戦争が終わってないんだと思いこんでびっくりしたのをよく覚えているよ」

 そこで仙造おじいちゃんは苦く笑った。

「……胡蝶の遺体を前にしたときの友蔵さんの嘆きは、ひどかったが……私はあれで良かったと思っているんだ。あともう少したっていたら、きっと胡蝶は声も身体も完全に変わってしまい、美しさは損なわれて……。どのみち悲劇に終わっていたんだよ、あの二人は。仮に胡蝶が女だったとしても、時代の状況を考えたら幸せになれるわけがない……。だが若くして死んだ胡蝶の美しさは永遠だ」


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