第9話 ある夜

 ……やがて、すこしずつ上海の状況は悪化していてき、抗日運動がさかんになり、二度目の事変が起こり、そしてラジオで日本の真珠湾攻撃を耳にすることになった。

 最初は友蔵さんはじめ近所の大人たちは楽観していた。日本の勝利を信じて疑わなかった。

 そのころ、私も小学校で本土とおなじく軍国教育というのを受けて将来は立派な日本兵になるように教えこまれており、子どもの習性で教師や他の子に合わせて愛国をさけんではいたが、正直なところ、心の根っこの部分では、本土日本は遠かった。

 上海生まれの私にとっては祖国というのが今ひとつ実感できなかったんだね。

 だが、友蔵さんや出入りする大人たちの顔色がだんだんすぐれなくなり、たまに友蔵さんが友人同士集まって話すときの様子は暗そうで、これはだんだん日本が危ないことになってきているんだな、というのは実感できた。

 やがて近所に住んでいた日本人のなかにも引き揚げていく者が増えていった。友蔵さんも実家のご両親から再三帰ってくるようにという手紙や電報をもらっていたようだが、動こうとしなかった。その頃にはすでに約束の遊学期間なぞとうの昔に過ぎていたようだ。

 私も心細くはあったが、なんといっても友蔵さんに命を助けてもらった身だったから、何があっても友蔵さんといっしょだと思っていた。友蔵さんが上海で生きるにしろ死ぬにしろ、最後までいっしょにいるつもりだった。子どもとはいえ、やはり私もその時代の少年で、思いこみが激しかったんだね。

 ある夜、友蔵さんの友人である大きな書店の従業員がたずねてきて、友蔵さんと二人遅くまで話しこんでいたことがあった。

 その人は印刷会社を経営していらした友蔵さんのお父さんとも懇意にしているらしく、なかなか避難しようとしない友蔵さんを案じて、夜にもかかわらず友蔵さんを説得するために来ていたのだ。話は深夜まで続いていたようだ。

「遊びじゃない! 胡蝶と結婚するつもりだ!」

 そんな声がすでに眠っていた私の耳元まで響いてきて、私はびっくりして目が覚めてしまった。

 私以上にびっくりしていたのは、友蔵さんの友人だった。

 馬鹿なこと言うな、と相手の人の叫ぶような声には驚愕がこもっていた。そして二人の声はますます大きくなっていく。

 私は子ども心にも心配と、あと好奇心に駆られてベッドをそっと抜けだし、廊下をすすみ、すぐとなりの室の扉に耳を当てた。

 その後、暗い廊下で盗み聞きした話は、あれから半世紀以上たった今でも忘れられない。死ぬまで忘れられない。

「友蔵、おまえ、本当に知らないのか? 気づいていないのか? ……信じられん。……おまえ、もう一年近くあれと暮らしているんだろう? ま、まさか、何もしていないのか?」

 友人の声には驚嘆がこもっていた。

「下品なことを言わないでくれ。結婚するまではだらしないことはしたくない。だが、婚約はしているんだ。気持ちのうえでは胡蝶は僕の妻だ」

「つ、妻って……。お、おまえ、本当に知らないのか?」

 友人は呆れはてているようだった。

「信じられん。瑠璃通ラピストリートりの妓院にいたんだから、当然おまえ、気づいているものだとばかり思っていたが」

「何だよ! あそこがいかがわしい店だということは知っているが、胡蝶はまだ水揚げされるまえの清らかな身だ。胡蝶を侮辱するようなことを言わないでくれ」

「……おまえって奴は……。ああ、おまえのお父上から、友蔵が中国娘と結婚したいと書いてきて困っていると相談を受けたときは、まさかと思ったが。俺はてっきりその場のごまかしだと思って、お父上には、きっと遊学期間を延ばしたいための作りごとでしょう、と伝えたんだが」

 そこで友人は言うべきかどうか一瞬、とまどったようだが、すぐに次の言葉が苦しげに響いてきた。

「あのな、よく聞け、胡蝶は……相公しゃんこんだ」


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