第8話 胡蝶
ある日「仙造、これからしばらく一緒に住むようになった
晩春の午後の光につつまれて、薔薇のアーチの下に立つその人を見たときの驚きは忘れられないね。
その人は、首をかしげてにっこり笑い、「コンニチハ」と片言の日本語で挨拶した。
胡蝶。フーティエ、とアマはその人のことを呼んでいたけれど、多分本名ではないだろう。アマが眉をしかめて、つぶやいた中国語は、そのときは意味がよく解らなかったが、後になって見当がついた。アマはこう言っていたんだ。
「大枚はたいて蝶を飼うぐらいなら、近所の
野鶏とは下級の売春婦のことだ。
だが友蔵さんは借家の離れにある奥室にその人を住まわせて、大事に、それはもう本当にお姫様のように大切にしていた。
胡蝶はある店で客に歌をうたう
友蔵さんはナイトクラブ通いもぱったり止めて、家に引きこもって過ごしていた。私たちが住んでいた借家は赤煉瓦と漆喰のしゃれた洋風作りの家で、部屋数もおおく、ベランダもあれば、アーチ型の門には
外に行くのは時々私と胡蝶をつれてパブリック・ガーデンへ行くぐらいになった。裕福な欧米人の居住地にあるそこへ毎週日曜になると私たちは
白いワンピース姿でパラソルを手にした胡蝶は良家のお嬢様のようで、私まで見ていて誇らしかった。
私は死別した母の面影をけっして思い出さなかったように、パブリック・ガーデンに提示された「犬と中国人入るべからず」という看板にも目を向けなかった。胡蝶は日本娘と見られていたろう。
そうだ、ふりかえれば、私は友蔵さんが連れていってくれた西洋レストランや洋菓子店であじわった料理やケーキの味や、ときどき口ずさんでいたジャズのメロディーなどは鮮明におぼえているのに、路上にへたりこむ阿片中毒者や乞食、中国人を怒鳴りつける日本兵、路地で男を誘うおさない売春婦たちのことはおぼろげにしかおぼえていない。きっと、見たくなかったんだなぁ。
……上海は本当に夢の都でもあり、魔都でもあった。
路地をながれる白系ロシア人のかなでるバラライカと、陽気ではあってもどこか切ない歌声が、子どもの私にふだんは忘れていた郷愁を思いださせた。そして夕暮れどきを歩けば、当時ナイトクラブではやっていた「タブー」のメロディーが耳にひびいてくる。あれは、子どもだった私にとっては、まだ入っていけない場所、すぐ近くにあるのに、足を踏み入れることのできない蜃気楼の象徴のようなメロディーだったね。
当時、マヌエラと名乗っていた日本人歌手でダンサーだった女性によって有名になったその曲は、友蔵さんが教えてくれたことがあるが、もとはある島の青年と聖なる乙女との禁断の恋を謳うものだったという。そのどこか妖しく官能的な音律は、思えば、そのときはまったく気づかなかったが、なにかしら不吉な予兆をしのばせていたんだ。
わたしは幼さゆえの身勝手さで、文字どおりその「タブー」という曲のもつメッセージにはまったく知らんふりをして、街の店々にはられた、大人たちがミステリー・マヌエラと呼んでいたその人の写真をうっとりと眺めて、上海の夜を征服した同胞女性の功績を、まるで自分の手柄のようにいい気になって見ていた。
おなじ上海の空のしたに住みながらもけっして会うことのなかったその人は、夕方が過ぎて夜がくれば立ち去らねばならない、世間を知っているようで知らなかった愚かな少年にとって、夢の都の女王様だった。
昼の上海は欧米人のもたらす外資によって支配され、肩をいからせて歩く野蛮な日本兵が路上でいばりちらしていても、夕闇せまるころにあの曲が流れはじめると、そこは夜の女王の王国に変わる。すべてを受け入れて、外国人にいいようにされながらも、実はすべてを飲みこみ、そこから新しい世界をつくりだす上海。美しくやさしい花の都。
そんなふうに見たいものしか見なかった私の、自分勝手な記憶のなかで一番強烈に記憶にのっているのは、胡蝶の人並みはずれた美貌だった。
胡蝶は、今思い出してもそれは美しい人だった。
日本語はすこし喋るようだったが、私ともほとんど口を聞いたことがない。それでも、小首をかしげて微笑むあの様子は、今思い出しても絵のようだ。
美しい中国人形を西洋の技法で油絵にのこしたような、それこそ上海らしいひとつの芸術品だった。そしてその神々しいほどの美しさの影に、また上海らしい秘密がかくされていたことを私が知ったのは、ずっと後になってからのことだった。
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