第7話 イエロー・バビロン

 そうさなぁ……友蔵さんは、あの時代の日本の男にしては、とにかくお洒落で派手な人だった。

 私と友蔵さんが初めて出会ったのは……実を言うと、これは功、おまえの父さんにも言ったことはなかったが、まぁ、どうせ私も長くないようだし、今のうちに全部おまえに語っておこう。

 私たちの最初の出会いは蘇州そしゅう河という上海の河のうえだった。観光用の小船から、私の母が私をつき落として自分も河にとびこみ、自殺しようとしたのを、おなじ船に同乗していた友蔵さんが助けてくれたんだ。

 そんなに驚くな、と言っても、やっぱり驚くだろうね。何も世間にまったくない話でもないんだよ、今も昔もね。

 私の父は大工で、当時上海に妻子をつれて出稼ぎに出ていたんだが、仕事中の事故で亡くなってね、異国の地で子どもをかかえて未亡人になった母は、世を悲観して私をつれて無理心中をはかったんだな。母はそのとき亡くなったが、私はその縁で友蔵さんに引き取られることになったんだ。当時、私はたしか八歳ぐらいだったかね。

 子どもというのは、まぁ、時代のせいもあったろうが、案外ふてぶてしいものでね、そんな悲劇を経験したというのに、親切でかっこいいお兄さんに引き取られた私は、母のことなどすぐ忘れて、当時友蔵さんが住んでいた家で、それなりに幸せに暮らしたよ。というより、あえて母や亡くなった父のことは考えないように、考えないようにとしていたんだろうね。

 おもてむきは友蔵さんの使い走りをする使用人として、まわりの人からはボーイとか呼ばれていたね。けれど、実際には家のなかの仕事は、通いで来ていた〝アマ〟と呼ばれていた中国人の老女がほとんど取り仕切っていてね、私は彼女に孫のように可愛がってもらった。

 毎日美味しいものを食べさせてもらい、着るものも、両親と暮らしていたときとはくらべものにならないほどきれいな物をあてがってもらい、ちゃんと上海在住の日本の子たちが通う国民小学校にも行かせてもらって、ちょっとしたお坊ちゃんあつかいだったよ。片言かたことながら英語や中国語もはなせたし。あのころの私は、ふつうの日本の子どもにくらべてかなり幸福な立場だったね。

 この歳になって夢に出てくる当時のことといえば、友蔵さんといっしょに見たガーデン・ブリッジや、サッスーン・ハウス、パレス・ホテルやキャッスル・ホテルという上海の栄華を象徴するようなすばらしい建物ばかりだ。

 ほかにも近代的なデパートや銀行なんて、今思い出してもすごいものだったよ。ぜいたくにも私は黄包車ワンポーツォーに乗って友蔵さんのお供でそんな上海の街を見物したものだよ。季節の花に色どられたパブリック・ガーデンなどは、本当に美しかった。

 当時の上海は、東京とくらべても、いやパリやロンドン、ニューヨークとも劣るともまさらない、まさしく夢の都だったろう。

 とにかくいろんな国の人がいてね、アメリカ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、オランダ人、イタリア人、白系ロシア人などの西洋人もいれば、ユダヤ人、日本人、朝鮮人、インド人、シンガポール人、マレーシア人などもいて、それこそ世界中の実業家、商人、軍人、医者、船乗り、新聞記者、作家、芸術家たちがあつまって、上海にさまざまな言語や文化を持ちこみ、いっそう上海を摩訶不思議な街にしていた。

 当然、悪い目的のために来ていた人もおおかったし、犯罪や暴力行為もしょっちゅうだった。上海を東洋のパリだニューヨークだと謳う人もいれば、上海は東洋の魔都、イエロー・バビロンなどと囁く人もいたさ。

 けれど子どもだった私の記憶にのこるのは、つねに華やかで美しい上海だった。友蔵さんは、遊学中に上海を楽しみつくしたいと言ってね、よく出かけていたのがナイトクラブだ。

 どこの国でもいつの時代もそうだが、大都会は金持ちと貧乏人の差が大きいもので、そのころ上海には〝租界〟といって外国人居住者がすむ場所がわりあてられた地区があり、英米の共同租界、フランス租界と、日本人やユダヤ人、白系ロシア人がすむ虹口ホンキュウという租界があった。 

 虹口は日本人租界と呼ばれていたが、正式なものではなかったと思う。上海が東洋のパリと呼ばれるのは、実を言うとゆたかで洗練されたフランス租界や英米の共同租界のあたりを見た人が言うのであって、日本人がおおく住んでいた虹口は建物も住民も貧相で、けっしてそう見た目にも美しいものじゃなかったね。

 さきほど言った近代的な建物も、ほとんどが欧米人の地区に限られていたものだ。東洋のなかにあっても、チャイナの国のなかにあっても、お洒落で美しくすばらしいものは欧米世界に限られていたんだから、思い出すとちょっと情けない話だねぇ。

 そしてそのゆたかな欧米社会に出入りして欧米文化を満喫できるのは限られたわずかな日本人や中国人だけであって、友蔵さんはその限られためぐまれた人のなかの一人だった。

 西洋風のスーツを着こなし、ダンスホールやナイトクラブで優雅に遊び、外国人たちとまじわっても臆することなく流暢な英語をしゃべり、わずかながらもフランス語も話すことができた友蔵さんは、どこへ行ってももてはやされていたね。外国人の友人は、友蔵さんのことをトミーと呼んでいたよ。

 勿論、友蔵さんは中国語もしゃべれたから中国人の友人にも恵まれていたし、友蔵さんの名誉のために言っておくが、当初の目的だった中国文化の勉強もけっしてなまけてはいなかった。

 昼は虹口の借家で漢文の勉強にいそしみ、夜はフランス祖界のナイトクラブで遊ぶという、夢のような生活を送っていたあのころは、友蔵さんにとって人生で一番幸せな時だったんじゃないだろうか。その甘美な日々が終わったのは、いつだったろう?


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