第2話 紫陽花語り

 若いときに留学先で好きな人の一人ぐらいいたって、不思議じゃないはずなのに……。でも、自分のお祖父ちゃんていうのが、ちょっと……。

 私があんまり驚いているせいか、功のアーモンド型の目のはしが後悔にゆがんだ。

 今時のアイドルやタレントはみんな目が二重で、男も女も二重なのが素敵だと思いがちだけれど、功にかんしては、一重の、ちょっと吊りあがったその目が私は好きだ。少しきつく見えるけれども、男らしいのだ。でも、今は妙にイライラするぞ。

「その人って、どんな人なの? 何やってた人? どういういきさつでお祖父ちゃんと知りあったの?」

 私の声は尖っていたかもしれない。

「えー……、あの、俺が祖父ちゃんから聞いた話だと、歌手だったそうだぜ」

「歌手?」

 すぐ近くで、相変わらず大人たちが忙しそうに立ち働いている。私は大きな声を出してしまったことを反省した。葬式会社の人か、スーツの男の人が怪訝そうにこっちを一瞬見たけれど、すぐ作業の話にもどった。

「しーっ、声が大きいって」

「ごめん」

 私は白ブラウスの襟に首をすくめた。

「で、でも、本当に歌手なの? びっくりしちゃった。有名な人?」

 自分の祖父が、若いころ中国に行っていて、しかもそこで歌手と恋愛していたなんて、これは本当にかなりびっくりだ。

「いやぁ……それがさ」

 功が気まずそうに頭をかく。

「あのなぁ……歌手っていっても今みたいにテレビに出て全国的に有名になるとかいうタイプの歌手じゃなくて、どっかの店で歌っていたみたいなんだ」

「店? ライブハウスみたいなのが中国にあったの? もしかしてクラブとか、バー?」

 洋画とか、ちょっと古いテレビドラマに出てくる、夜のお店で歌っている、ああいうタイプの歌手?

「そんなお店、昔の中国にあったの?」

 現代ならともかく。私の素朴な質問に、功はうんざりしたように首をふった。

「おまえ、ほんと、無知だなぁ。昔の中国っていったら、国民服着た集団しか思いつかねぇんじゃないのか? 戦前とか戦時中を舞台にした映画とかで見たことないか? 中国っていっても、上海とか香港なんかは国際都市としてひらけていて、満州とかでも外国人があつまる場所はいろんなお店があってさ、パリやロンドン、東京なみにすっげえ発展して、洒落ていたんだぜ。ほら、映画の『ラストエンペラー』とかでも、ちょっと高級そうなクラブなんかで、ラストエンペラーがダンスするシーンがあったろう?」

「そんな古い映画知らないって。……功、くわしいね」

 私はちょっと感心した。

「まあな。祖父ちゃんから、中国滞在時代の思い出話とかいろいろ聞いているうちに、俺も興味がわいてきていろいろネットとか本で調べてみたんだ」

「ふーん。そんなにいろいろ聞いてたの?」

 功はちょっと神妙そうな顔になった。

「実を言うと、うちの祖父ちゃんも最近……ちょっとぼけてきてな。今のうちに昔のこと知りたいと思ってさ。祖父ちゃんの機嫌が良さそうなときに、それとなく中国時代の話とかに水を向けてみたりしたんだ。時々祖父ちゃんが思い出したようにつぶやいたりすることも、書きとめてんだ」

 私は一度も自分のお祖父ちゃんに昔の話なんて話してもらったことない。お母さんだって話してもらってないと思う。つい、そんなことを不満気につぶやいてしまうと、功はさらに真面目な顔になった。

「……うーん。おまえが女だからじゃないか? その、おばさんも女だからさ、過去の恋愛の話なんてしづらいのかもな。それに、やっぱ戦争の話なんて娘や孫娘にはしたくないんじゃないか?」

 私や、お母さんは女だから話せないって? 

「それに、菅野先生が元気なときって、おまえが小学……二、三年生ぐらいのころまでだろう? 小学低学年の女の子に、お祖父ちゃんは昔中国に行っていて、そこで綺麗な歌手を好きになったんだ、なんてあんまり言えねえぜ、ふつう」

 そりゃ、そうかもしれないけれど……。

「それでな、その人のことなんだけれど」

 功がそう言いかけたとき、

「あら、あんたたち、まだいたの? こっちも掃除しなきゃならないから、そろそろ出てくれない?」

 きつい声がふってきて、私たちの話は途切れた。

 そこに立っていたのは喪服ではないけれど一応黒いシャツとスカート姿で、そのうえに白エプロンをつけた貞子叔母さんだった。死んだ友行叔父さんの奥さん。つまり私にとって義理の叔母さんになる。

「あんたたちったら、手伝いもせず、お祖父ちゃんが亡くなったっていうのに、遊んでばかりね」

 きつい言い方に内心ムッとしたけれど、貞子叔母さんの口のきついのはいつものことなので、私は急いでちゃぶ台のうえに散らばっている包装紙や食べカスをかたづけた。

「お邪魔してます」

 功はあわててぺこりと叔母さんに向かって頭を下げる。

 貞子叔母さんは叔父さんが亡くなった後も二年ほどこの家に住んでいたので、功とも顔見知りだ。

 もっとも、功は叔母さんのことを影で「あのガミガミ婆ぁ」と呼んでいたけれど。うっかり、お母さんにそのことを言ってしまうと、お母さんは一瞬笑いながらも、そのあと必死に顔をしかめた。

(そんなこと言わないの。貞子叔母さんは、いろいろ苦労して大変だったんだから)

 叔母さんは二十三歳で結婚して、その後すぐ叔父さんが病気になってしまい、けっきょく助からず二十五歳で未亡人になってしまった。二年後この家を出て子連れの男性と再婚したのだけれど、そこでもいろいろあるらしい。

(貞子叔母さんだって、若いころはそれは綺麗だったのよ。亡くなった叔父さんもとてもハンサムでね、結婚式では美男美女のカップルだってもてはやされたんだから)

 お母さんは、少し自慢そうに、そして少し悲しげにそんな話をしたことがあったけれど、髪を後ろでひっつめてガミガミ言っている今の貞子叔母さんからはブーケを手にウェディングドレスを着て、周囲から誉めそやされている姿なんて、正直とても想像できない。

「功君、お久しぶりね」

「どうも。ご無沙汰してます。あ、雛子ひなこちゃんは、お元気ですか?」

 雛子ちゃんとは叔母さんの再婚相手の娘さん。私とおない齢で、三回ほど会ったことがある。実を言うと、雛子ちゃんは功と同じ高校、私立明応しりつめいおう学園に通っている。

「まぁ、元気にやってるわ」

 叔母さんはそこで黒縁メガネの向こうの濃い眉をしかめた。叔母さんにしたら、功がどうして、継子とはいえ優秀な自慢の娘の先輩になるのだろうか、と不思議かつ不満なんだろうなぁ、きっと。 

「ほら、あんたち、はやくどいて。ここ掃除機かけるんだから」

 私たちはあわててその場を退散した。


「おっかねえな、相変わらず。再婚して家を出たんだから、もうべつに手伝いに来ることもないんじゃねえか?」

 はいってきたときと同じように功は縁側から庭へでた。勝手知ったる他人の家で、功はいつも玄関をとおらず縁側からはいってくるのだ。

「まあね」

 私も功の言葉にうなずいてしまう。

 葬式にちょっと顔出すぐらいならまだしも、とっくに家を出てべつの家庭を持っている貞子叔母さんが、なんで身内面みうちづらして、あんなにでしゃばるんだろう?

 私たちは縁側にならんで腰かけた。庭木のそばでいくつもの青紫色の紫陽花が、今を盛りに夕暮れの風を受けて咲き競っている。私は昔のことを思い出して、ちょっと気恥ずかしくなった。

「……紫陽花、きれいだな」

「うん」

 きっと功もあのときのことを思い出しているんだろうな。

 夕暮れどき、紫陽花の花、ここでは二人だけ。なんか、これって青春映画のワンシーンみたいじゃない?

 う。どうしょう? なんか猛烈に恥ずかしくなってきた。 

「ねえ、功」

「あのな、さっきの話の続きなんだけどな」

 私はホッとしたようながっかりしたような複雑な気持ちを、あわてて押しながした。

「う、うん。そうだった。それで、続きは?」

「菅野先生は本当に相手の人が好きになって……、それで、その歌手の人に結婚申し込んだんだって」

「……」 

 うわぁ、びっくりぃ。

 あのお祖父ちゃんに、そんな情熱的な一面があったなんて……。

 こんなこと言ったらなんだけれど、歌手っていっても、夜の女性みたいなもんじゃない?

 それも外国人の女性を本気で好きになってプロポーズまでしていたなんて。六、七十年近くも昔に、そんなことなかなか出来ることじゃないよね。それって、相当情熱的じゃない?

 国境をこえた愛。人種をこえた愛……。なんか、すごい。

「へー、なんか、ドラマみたいだね。お祖父ちゃんにも、そんな青春時代があったんだね」

「それでな」

「うん」

「婚約したんだ。その人と」

 私は口をぽかん、とあけて功の顔を凝視していた。

 あたりは少し薄暗くなっていたけれど、それでも功が私に言ってしまったことを悔やんでいるのは、その表情からわかった。

 そう。私は、それはあくまでも青春時代のほのかな恋、はかなく終わった、つかのまのときめきだと決めこんでいたのだ。

「悪い。やっぱ、おまえ知らなかったんだな」

「……本当なの? え、じゃ、お祖母ちゃんは、どうなるの?」

「馬鹿、大きい声出すなよ。あのなぁ、婚約はしたけれど、結局いろいろあって別れたらしい。時代が悪かったしさ」

「そ、それで、どうなったの?」

「どうにもなんねえよ。戦争がひどくなって、日本が負けて、菅野先生とうちの祖父ちゃんたちは逃げるように引き揚げたんだ。それで、終わり」

「あ、相手の人はどうなったの?」

「死んでるだろう? 生きてりゃ、八十か九十ぐらいか。そこらへんは良くわかんねぇんだ。……祖父ちゃんの言ってることも曖昧でさ」

 私はすっかり驚いてしまった。

 外国に滞在して、向こうの人をちょっと好きになることぐらいはありそうだけど、まさか婚約までしていたなんて。

「そのこと、死んだお祖母ちゃんや、うちのお母さんは知っているの?」

 功はびっくりしたような顔になった。

「えー、そりゃ、知ってるさ。だって、俺が幼稚園児のころ、いただき物の桃を、お袋に言われておすそわけに持っていったことがあったんだ。そんときさぁ、菅野のおばあちゃんが、亡くなった前の人は、桃が好きだったらしいから喜ぶわ、って言って、仏壇に供えてたんだから」

「そ、そうなの?」

 妙な気分だ。功の方がうちの事情にくわしいなんて。でも、考えてみれば歳が上な分、功の方が早くに死んだお祖母ちゃんとの思い出がおおいのかも。

 お祖母ちゃんは、隣家の功のことを孫のように可愛がっていたって聞いたことがある。あとから生まれた私より二年分、功は私のお祖母ちゃんと過ごした時間が長いのだ。

「菅野の祖母ちゃんは優しい人だったからなぁ。……俺が前の人って誰のこと? って訊いたら、昔うちのお祖父ちゃんが好きだった人のことよ、って」

 その人もこのお仏壇のなかにいるの? と功は訊いたそうだ。

 幼いころ、功はお仏壇やお墓のなかに死んだ人が住んでいるのだと思いこんでいたそうだ。

(そうよ、いるのよ。お仏壇に向かって心のなかで声をかけるとね、亡くなられた人が返事を返してくれるの。功ちゃん、もしおばあちゃんが亡くなったら、時々このお家に来て、おばあちゃんに声をかけてね)

「なんかな、俺、ばあちゃんのその言葉聞いたとき、お仏壇て、死者の世界に通じる〝どこでもドア〟みたいだなぁ、って思ったぜ」 

 どこでもドア。あの有名なアニメに出てくる、扉を開けたら、行きたい所へ行けるドアのことだよね。実際には、いくら科学が発達したって、そんな夢のような便利なドアなんて出来はしないんだろうけれど。

 私は功ののんきなコメントを聞きながら、もやもやと心の内にわいてくる不思議な感情をおさえようとした。 

 幼稚園児の功に言うぐらいだから、当然、うちのお母さんだって知ってるはずだよね。

 それを訊くと、勿論、というふうに功はあっさり首を縦にふってくれた。

「若いころ、そうやって失恋して辛い想いをしたからこそ、菅野先生はその後ずっと独身でいて、周囲がいろいろ言っても結婚しようとしなかったんだってさ。きっと、その人のことが忘れられなかったんだろうな。『俺はもう一生結婚しない』って公言してたっていうぜ。もしかしたら、その人と添い遂げられなかった自分を、心のどっかで恥じてたのかもな」

 添い遂げる、なんて古い言葉が功の口から出るなんて妙な感じ。でもその言葉を発した一瞬、功の顔が少し凛々しく見えた。

「それでも、四十過ぎたとき、仕事がらみのなんかの宴会の席で、菅野のばあちゃんと出会って、結婚を決心したんだ。やっぱ、菅野のおばあちゃん、魅力的だからさ。へへ」

 そうだ。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、かなり歳の離れた夫婦だったって聞いた。私から見たら祖父母ともお年寄りだったから、あんまり気にしなかったけれど、たしか、二十歳ぐらい離れていたはず。

 なんか……なんか、聞けば聞くほど変な気持ちになってきた。自分の身内の恋愛や結婚の話って、なんだがなぁ……。

 若いころ外国人の女性を好きになって、婚約して、わかれて、後に若い妻をもらった男。

 お祖父ちゃんの知らなかった一面が、急に生々しく迫ってきた。

 ……きっとこんなふうに私が複雑な気持ちになるだろうから、誰も私にこういう話を聞かせなかったんだ。

「なぁ、何おまえ考えこんでるんだ?」

 またも功がのんきに言った。

 今の自分の気持ちをどう伝えようかと思案して顔を上げた瞬間、庭先からソプラノの声が響いてきた。

「こんなところで、何話してるの?」

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