第9話 再会

「さあ、大おばあちゃん。ここが元花咲はなさき村よ」


 美由紀みゆきは車いすを、よいしょと広大な敷地へ向けた。

 里香りかは涙を浮かべながらも、野球場の何倍も広い造成地に感嘆の声を上げる。


「あなた、慎太しんたさん。ようやく着いたようですよ。わたしたちが出会った故郷に」


 かえでは目をしょぼつかせながら、愛する夫の遺影を胸元に掲げた。

 

 かつて山間の小さな村であった場所。そこにはかえでの記憶にある面影は、片鱗もなかった。

 切り崩された山肌には鉄骨とコンクリートで補強され、山津波が起きる心配はない。

 花咲川も川べりを、コンクリート・ブロックで固められていた。

 ただ流れる空気だけは、あの当時に似通っている。

 視界の悪いなか、かえではあの頃を思い出すかのように、胸一杯に大気を吸い込んだ。

 

 これも時代の流れなのだ。

 いつまでも変わって欲しくないと思うのは、よそう。

 寂しさをいだきながらも、かえでは自身を納得させる。


「ここに疎開そかいしなければ、あなたにも巡り会えませんでしたもの。ここに新しくお家が立ち、若い人たちが生活してまた歴史を刻んでいくのですね。

 もしかしたら、あなたとわたしのように、赤い糸で結ばれた子たちが出会うかもしれませんわねえ」


 美由紀は車いすを押しながら、ゆっくりと歩き出した。里香は小走りで積まれたブロックの間を物珍しそうに見回る。


「なにもなくなっちゃけど、ここは小学校の敷地だったところよ。大おばあちゃんが疎開そかいしてたっていうお家も、もうなくなっちゃたわね」


「新しいお家が建ったら、さぞかしにぎやかになるんだろうねえ」


「そうよ。また見にこよっか、大おばあちゃん」


「それまでは元気でいなきゃあねえ」


 かえでは忘れかけていた、あることを思い出した。


「お家も学校もなくなっちゃったんだから、あれも。仕方ないわ」


 その独り言に、美由紀は顔をかえでの近くまで寄せた。


「えっ、なにか言った?」


「いいえ、なんでもないわ」


 先を歩いていた里香が、ブロックの隅でしゃがんでいるのを目にした美由紀は声を掛けた。


「里香ぁ、あんまり近寄ったら危ないから! 聴こえてるっ」


 距離にして五十メートル足らずであり、さえぎるものはないので美由紀の声は届いているはずである。

 ところが里香はしゃがんだまま振り返ることも、返事をすることもない。


「ちょっとぉ、里香ってばあ」


 美由紀は車いすを押しながら少し速度を上げた。里香の三メートルほど手前で止まると、もう一度注意しようと口を開きかけた。

 くるりと里香が振りかえった。しかも何か膝元に抱きかかえているような格好をしている。


「何をやってるの、里香。ママの声は聴こえてるんでしょ」


「ママ、ほら見て。可愛いわね」


 里香は微笑みながら、しゃがんだ膝元に目を向ける。だがそこには何もない。


「まったく、それはエア人形かなにかかしら」


「えっ、何言ってるのよママ。可愛い子犬じゃない」


「はあっ?」


 美由紀は里香がからかっているものと思った。実際にそこには何もないのだから。


「大人しい子ね。ちゃんと抱かれてるし、吠えないし。きみはなんて名前なの?」


 里香の姿に美由紀は首を傾げた。


「ああ、り、里香ちゃん」


 かえでがほとんど見えない目を大きく広げ、今にも車いすから立ち上がろうとしている。


「大おばあちゃん! 危ないよ」


 美由紀はあわててかえでの肩を押さえた。


「そこに、そこにいるのは、みかん?」


 かえでの言葉に美由紀は驚く。


「えっ、みかんって」


 里香はかえでを見上げて微笑んだ。


「へへっ、やっぱりそうなんだ、大おばあちゃん。ほら、みかんちゃん、かえで大おばあちゃんですよ」


 まるで本当に子犬を抱えているかのように、里香は立ち上がる。

 美由紀は苦笑する。先ほど聴かされたかえでの昔話に、自分の娘ながら頭の良い里香が合わせているものだと思った。


「み、みかんっ! 無事だったのね、良かったわぁ。わたしよ。わかる? かえでよ」


 里香は両腕で抱えていただいだい色の柴犬が、ピョコンと飛び跳ねてかえでの元へ小走りで近づく姿を見た。


「大おばあちゃん、みかんちゃんが嬉しそうに尻尾をふってるよ」


 里香は車いすの周りを嬉しそうに走り回るみかんの姿を目で追う。


「えっ? ちょっと待って。里香、あなたには本当に見えてるの?」


「もちろんよ、ママ。ほら、大おばあちゃんの足元で二本立ちしてるわよ」


 かえでは見えないまでも、その気配は感じ取っていた。

 七十年以上も前に別れたきりであったが、足元に元気よく尻尾を振るみかんの姿を。

「みかん、みかん、会いたかったわよ。ほら、この人を見てちょうだい。すっかりおじいちゃんになったけど、このギョロ目は覚えてる? 慎太くんだよ」


 かえでは足元に抱えている遺影を傾ける。


「そうだわ! ねえ、みかん。あなたが元気ってことは、もっちんはどうしたの? もっちんは無事だったの?」


 かえではぼんやりとしか映らぬ瞳で、周囲を見回す。


「あっ、みーっけ! ほらぁ、大おばあちゃん、このブロックの後ろに小さな男の子が隠れてるわよ」


 里香は自分の背丈よりも高く積まれたブロックの反対側を指さした。美由紀にはまったく見えていない。

 かえでは泣きそうになる表情に、微笑みを浮かべながら里香が指さす方向へ顔を向ける。


「もっちん、そこにいるの? かえでよ。こんなおばあちゃんになっちゃったけど、かえでが慎太くんと一緒に帰ってきたのよ」


 里香は手を差し伸ばした。

 その手を握る丸っこい指。恥ずかしそうに丸い頬を赤らめながら、浴衣ゆかた姿の小さな丸坊主の男の子が姿を現した。丸い眼鏡の奥で、細い目がちらちらと動く。

 もじもじしている男の子に里香は言った。


「あなたがもっちんね。大おばあちゃんがお話ししてくれた通りのおデブさんね。あっ、失礼しました。わたしは里香よ。小学四年生だから、あなたよりおねえさんね」


 里香に手を引っ張られて、もっちんがゆっくりと歩き出す。

 丸い眼鏡の奥で、細い目に微笑みが浮かんだ。


「もっちん、もっちん、こっちへいらっしゃいな」


 かえでは遺影を腕で挟みながら、両手を前に差し出した。


(第10話へつづく)


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