おおとろ(原文)

アオイヤツ

第1話

 私は馴染みの暖簾をくぐった。温かい店内には柔らかな酢の香りが立ち込めている。

 まだ夕食時には早くひとけのない店内、私はいつものカウンター席へと腰かける。

「らっしゃい」

「大将、まいど」

 大将とのいつもの挨拶、いつものやりとり。

「いつもので」

「へい」

 パンパンと手を打ち合わせ、大将の手が動く。カウンターに置かれた下駄の上に手拭きとショウガが盛られる。摘まむようにして指を拭き、ショウガをかじる。鼻を抜ける香りと舌を撫でる辛みが心地よい。

「今日はいい平目が入ったんですわ」

 ショーケースから透明感のある白身を取り出し、大将がそっと包丁を当て、音もなく引いた。白い花びらの様にふわりと佇むそれにおろしたばかりの瑞々しいわさびを添える。ひとつまみの塩を載せ、緑色の果物を絞る。

「なにそれ」

「酢橘、こうすることで新鮮さが引き立つんですわ。これでバチッと食べてみてください」

 下駄の上に置かれた平目を手に取り、口へと運ぶ。まず爽やかな塩気と香りが広がった。そして弾力ある身を噛みしめるとしっかりとした甘みを感じる。塩気とフルーティーな酸味と甘み、口の中で複雑に混ざり合った旨さを堪能する。

 そして余韻の残る口の中をお茶とショウガで引き締めて、次に備える。

 大将は薄い木箱を手にしていた。次のネタだろう。

「松野さん、ウニはまだ苦手ですか」

 私は正直に答えた。

「ここのウニ以外は駄目です」

 大将は嬉しそうに目を細めながらシャリをにぎり、海苔を巻いた。

「ウニは遠くから運ぶとどうしてもね。今日は届いたばかりの赤ウニがあるから出しますわ」

 とろけそうに繊細なウニを軍艦の上に乗せた寿司。私は迷いなく口に入れる。

 少し複雑な海の香りの様な物を感じながら咀嚼。すると圧倒的な存在感で溢れ出すウニの味。単独の言葉で表現できない味わいが喉の奥へと流れていく。そう、新鮮なウニは溶けるのだ。

 嵐が去った後に残るのは濃密な余韻と香り高い海苔。目を閉じて空を仰ぐ。鼻からゆっくり息を吐いた。

「松野さん小食だからそろそろメイン行きますか」

 大将が次にショーケースから取り出したのは白と赤が混ざり合った独特の存在感を持つ切り身。日本人なら誰でも知っているそれに包丁を入れた。

 薄く大きく切りとったピンク色の大トロ。その表面に更に細かい切れ目を入れていく。以前理由を聞いた事がある。

「肉と同じで、軽く空気に触れて酸化させる事でぐっと旨味が増すんです」だそうだ。

 慣れた手つきで握ったシャリにわさびを乗せ、うっすらと溶けた脂で艶やかに光るトロで包むように握る。そして素早く下駄の上へ。

「これは醤油で。脂ではじくので多めにつけて、バチっと食べてください」

 言われたとおりに醤油をつけて、口へ放り込む。噛む必要はなかった。味わう必要もない。なぜなら向こうから旨味がやってくるからだ。舌に、喉に、鼻に。口に収まらず食に関わる全ての器官が一体となる。うまい。

 なにも考えられない。なにも見えない。味覚以外のすべての感覚が停止していた。文字に出来ぬほどの喜びに全身が打ちふるえる。

 醤油の強い塩気にもけして負けない脂の甘さ。赤みの持つマグロ本来のさっぱりとした味わい。歯ごたえのないネタはシャリと絡み合って絶妙な食感となり、何度も何度も旨さの波が押し寄せる。

 忘れていた呼吸を再開すると、新鮮な空気が口内でトロの表面を撫でた。それだけで旨さがふたたび溢れ出す。終わらない、終わらない、終わらない。

 永遠とも思えるような刹那が過ぎて、温かいお茶を飲んでもまだまだ終わらない。息を吸うたびに蘇る。舌と心が覚えている。あの味わいを。


 月に一度、私は一人でこの店を訪れることにしている。

 本物の味を忘れないために。

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