茶番の国のアリスと城跡の女王
池崎心渉って書いていけざきあいる☆
☆
現代日本にお姫様なんかいるはずがないが、「お姫様」扱いされている少女は、わりとどこにでもいる。問題は、その少女がぶじに「お姫様」を卒業して、フツーの大人になれるかどうかなのだ。
棚本(たなもと)マリエも、「お姫様」が多く集まる大都市に生まれていれば、早い段階で「自分は特別ではない」と気づけていたかもしれない。けれど、子どもの数が圧倒的に少ない射鷹(いたか)市では、その自己愛は増長するばかりだった。ちょうど、アリスのように、いつまでも従順な召使いでいてくれる者が近くにいて、その幻の王国を守ってくれていたから。
各学年ひとクラスずつしかない幼稚園で、饗庭(あえば)アリスは、マリエのお気に入りの召使いを務めていた。年長組と年少組で、年は二つ離れていたが、彼女はアリスの姉の友達だったので、自然と親しくなったのだ。
マリエは、特別可愛い顔立ちでもなかったが、誰も逆らえなくなるような威圧感があって、常に取り巻きを連れていた。彼女のことをくわしく知る者がいなかったために、親はその筋のヒトだとか、県知事の親戚だとか、根拠のないうわさが流れた。閉鎖的な田舎の、憶測好きの親たちが、父母会にも出てこないマリエの母を怪しんで言い始めた、根も葉もないことだ。
たとえうわさの内容が事実だったとしても、そんなことが果たして、世間をそれほど知らない子ども同士の関係に、影響を及ぼすだろうか。もし、マリエが天涯孤独の子どもだったとしても、同じ状況になっていたような気がする。
「かぐやちゃんの弟、男なのにアリスっていうの? ヘン」
アリスがマリエにいちばんはじめにかけられた言葉が、これだ。姉にくっついて、年長のさくら組に遊びに行ったときのことだった。当時、三歳だったアリス自身も、自分のクラスでさんざん言われていたので、同じように思っていた。
少女っぽい顔立ちで身体も小さいので、女の子と間違われることも多い。からかわれて泣いて帰って、「どうしてこんな名前をつけたんだ」と父親を責めたら、音楽を聴かされた。稲妻がどうのこうの、という歌で、「稲妻」という言葉自体知らなかったアリスは、ますます仏頂面になっただけだった。
「この歌、『冬の稲妻』っていってな。これ歌ってたグループの名前からとったんだ」
音痴の父が、上司の指示でしかたなくカラオケで歌わされ、みんなに笑われていたときに、一人だけ、「でも、いっしょうけんめい歌ってる饗庭さんすてき」とフォローした女性社員がいたらしい。それがアリスの母である。それ以降二度とその話はしてくれないが、二人にとっては思い出の曲なのだろう。
そのことが分かってからの彼は、アリスという自分の名前に、さほど嫌悪感を感じなくなった。マリエの最初の言葉にも、口唇を結んだまま、横を向いていた。
「あ、無視した」
五歳のマリエは、アリスの態度を反抗的だと受け取った。これまで、ちやほやしてくれる者ばかりに囲まれていたものだから、許せなかったのだろう。
「ごめんね、この子、人見知りなの」
姉が慌てて代わりに詫びる。彼女は、早くに一度結婚して離婚した母の連れ子で、アリスとは父親違いのきょうだいだが、常にアリスをかばってくれていた。
「ふうん」
マリエはアリスを値踏みするように見下ろし、腕組みして顎を上げる。耳の横で二つに分けた髪に、ピンクのリボンを結んでいるが、顔が大きくてえらがはっているので、どうも似合っていなかった。
決して美少女ではないのに「お姫様」を自称し、あがめるように強要する彼女は、やや反抗的なアリスも、家来の一人に加えることにしたらしい。その日から毎日、さくら組に通うように命じられた。アリスは、姫の侍従の役で、長いつきあいの中で乳母役を獲得した姉と比べれば、異例の大抜擢だった。当然、他の取り巻きたちからは、嫉妬混じりの冷たい視線が集まった。
アリスは、お姫様ごっこなんてばかばかしいと思ったが、行かないと姉がいじめられるかもしれなかったので、さくら組に通った。隣のクラスから来ている子もいたし、誰かのきょうだいで、年下のクラスから呼ばれている子もいた。みんな何が怖いのか、あるいは何に惹かれているのか、マリエの作った役柄に必死になりきっていた。
「姫様、今日もとてもきれいでいらっしゃいますね。新しいドレス、お似合いですわ」
姫君専属の仕立屋役の少女が、上司にごまをするサラリーマンのように、マリエをおおげさにほめる。新しいドレスは、おもちゃ箱の中にあった真っ赤な布を巻きつけただけのものだったが、この小さな王国においては最高級のドレスだった。
冷めた性格のアリスは、お世辞を言うこともせず、無言で座っていただけだったが、マリエはなぜか、アリスを気に入って引き立てた。誰もが無条件にほめたたえてくれる中、ただ一人反抗的な態度をとっていたのが、珍しかったのかもしれない。
アリスはマリエの侍従として、最も名誉ある役目を与えられた。昼食の時間に、猫舌の彼女のため、熱い紅茶が冷めるまで見守る役だ。幼稚園では、食後に、やかんに入った熱い紅茶を、一人ひとりについでくれる。ミルクもレモンも砂糖もないが、飲みやすいので、きらいな園児は少ない。
マリエも、紅茶自体は好きなのだが、熱いお茶が苦手でなかなか飲めない。水を足すと味が薄れてしまうので、そのまま冷ましているのだ。アリスの仕事は、その紅茶に、ほこりや虫が入らないよう見張ることだった。
年少・年中・年長と一クラスずつしかないので、園児と保育士は、広い食堂に集まって給食を食べる。誰の横に座ってもいいので、アリスは、マリエの隣を指定席にしていた。自分で選んだのではなく、命じられてのことだ。女子だったら嫉妬を買っていたかもしれないが、年下の可愛い男の子だからと、取り巻きたちもしだいに、アリスの存在を認めていった。
アリスも、最初のうちこそいやいややっていたが、続けるうちに、マリエへの忠誠心のようなものが芽生えてくるのを感じていた。マリエは、わがままで勝手な少女ではあるが、気に入った相手には優しい面もある。アリスも、香り付きのティッシュや、はやっていたアニメのキャラクターのシールなどをもらった。
幼稚園での一日が終わった後も、饗庭姉弟とマリエは、幼稚園の前の城跡公園で、毎日のように、お姫様ごっこの続きをすることになった。マリエの保護者は夜にならなければ迎えに来ないし、姉弟の母親も夕方までは仕事だ。
田舎なので、キャリアウーマンというのはほとんどいないのだが、病院や介護施設で働いている女性は多い。産休が取れる企業が少ないため、結婚や出産を機に退職し、パートなどの非正規雇用で共働きに出るのがスタンダードな生き方になっている。アリスの母親も、訪問介護のヘルパーで家計を助けていた。
保護者が迎えにくるまでの間、ずっと園内にいるのも退屈だと訴えたら、園の向かいの城跡公園にかぎって、外出してもよいと許可が出た。車がめったに通らなくて、幼稚園の職員室から監視できる位置にあるので、安全だと判断されたのだろう。
堀だけを残して焼失した射鷹城はもともと、日本らしい風情のある場所だったが、近年になって、散策用の庭園が作られ、西洋風の彫刻が置かれていたので、ごっこ遊びにも適していた。もっとも、舞台セットがどうであっても、発達した想像力が補ってしまっただろうが。
「お母様は、私が小さいころに、病気で死んでしまったの。お父様も、お仕事が忙しくてめったにお城に戻られないし。でも、私、寂しくなんかないわ。アナタたちがいるんですもの」
マリエは、芝居がかった口調で言いながら、アリスたちを交互に見る。架空の話なのだろうが、妙に熱がこもっていて、姉弟は困惑した。
彼女がどういう家庭で暮らしているのか、姉弟はまったく知らなかった。いつも、アリスたちの母のほうが先に迎えに来るので、彼女の親がどんなヒトなのか見る機会もなかったのだ。参観日や誕生会の日は、マリエはきまって欠席していた。何か事情のある家庭なのだろうが、誰もくわしくは尋ねなかった。訊いてはならないこともあると、子供ながらにタブーを知っていたのだ。
マリエの幼稚園における立場は、あくまで、絶対的権力を持つお姫様だ。アリスもこの遊びに引き入れられた以上、小さな社交界で、与えられた役割を果たさねばならなかった。
姫君のお気に入りの召使いに就任したころから、約十六年。アリスは十九歳になった。「音楽好きな子に育ってほしい」と幼いころからエレクトーンを習わせていた両親の願いは叶い、バンド活動に精を出している。進学時、県外の音楽関係の学校に行こうか迷ったものの、やっぱり地元に残りたくて、アルバイトしながらインディーズでキーボードを演奏する道を選んだ。
二年前まで、「愛声都市(あいせいシティー)」というバンドに所属していたが、解散したため、今は、友人と結成した「キャンベル」に身を置いている。
十六年近く経っても、アリスは未だに、マリエの侍従をやっていた。お互いもう子どもではないし、拘束力を持たない主従関係がいつまでも続くはずもない。幼稚園時代の取り巻きも、進学や就職のたびに入れ替わっていき、今では、アリスしか残っていないという。姉のかぐやは昨年結婚して隣県へ移住したし、不便な地元にあえて残る若者は少なかった。
マリエは、地元の私大へ通っているが、大学ではあまり友達がいないらしい。サークルにも入っていなくて暇なのか、しょっちゅうアリスに呼び出しのメールを送ってくる。
『件名:今日、時間あるでしょ?』
授業が終わる十二時半までに、大学のそばのファミレスに来い、という。
行かないよ、とはアリスには言えない。年上だから頭が上がらないというのではなく、単に彼女が、哀れだからだ。アリスは、自分がいなくなれば、彼女のそばには誰も残らないということに気づいている。
件名を「Re:」で引用して、アリスは、『分かりました』と従順な返事をした。
今日もバイトが入っているが、夜なので、時間はじゅうぶんにある。作曲はまた今度にして、アリスは服を着替え、青いバイクで、マリエの待つファミレスへ向かった。
探し回らなくても、マリエがどこにいるかはすぐに分かった。
(あそこか)
ゴスロリというのだろうか、フリルたっぷりの黒いドレスに、レエスの多いヘッドドレスをつけている。長く伸ばしたライトブラウンの髪を縦ロール風に緩く巻いているが、頬骨が張り出した面長の顔なので、吹き出してしまうくらいにミスマッチだ。
「お待たせしました」
「遅い! アリス、呼ばれたら十分以内に来ないとダメじゃない」
相変わらず横暴だ。
「すみません」
謝って腰を下ろすと、周囲の席の客の視線が飛んで来るのを感じた。彼女といると、いつも好奇の目で見られる。マリエの服装が、この小さな街では悪目立ちしているからだ。アリスはもうずっと前にそのことに気づいたけれど、マリエは未だ、分かっていない。自分がヒトより可愛いから見られるのだと、信じ込んでいる。
彼女の頼んだものより高くならないように注意して注文した後、アリスはマリエのご機嫌とりをする。
「今日はまた一段と可愛いですね。その、白いリボン」
心にもない台詞がつらつらと出てくる。自分でもなぜ言ってしまうのか分からないが、今となっては、こうやって彼女をほめるのは自分しかいないことも、十分に知っていた。
そんなふうに、ヒトを憐れむことで自分の価値を補強していくやり方を、滑稽だと思っているくせに、アリスは、自分でも無意識のうちに実践している。
「友達にもらったの、誕生日プレゼントよ」
マリエは、レエスの手袋をはめた手で胸元のリボンに触れながらうなずく。それは本当かもしれないが、おそらくもう何年も前のものを、今ごろ出してきたようにしか見えない。
「また急に呼び出したりして、私のこと、友達いないって思ってるでしょ? そんなことないんだからね。ただ、うちの学校って、嫉妬深いヒト多いから。男子たちが私ばっかり見てるから、みんな妬いてるのよ」
痛々しい、嘘だ。
同い年の、「男性」と呼ぶほうがふさわしい異性たちは、奇抜すぎる彼女に近づきたくないと思っているはずだ。
もう二十歳を過ぎているのに、不特定多数からのお姫様扱いを望んでいて、愛されるのが当然だと思っている、自信過剰な女。自信過剰で変わり者といえば、アリスがかつて所属していたバンド「愛声都市」のボーカリストもそうだったが、彼女はマリエとは方向が違っていた。
(マツルさんは、横暴だったけど、僕らのこと奴隷扱いしてたわけじゃないもんなぁ)
やることに筋が通っていたから、安心してついていけたのだ。
音楽、という柱もあったし、メンバーみんなが、彼女の破天荒な言動を理解していた。
(元気にしてるかなぁ、マツルさん)
マリエの話を聞きながら、悪いと思いつつも、アリスは他のことを考えている。
昔を思い出していたら、知らないうちに笑ってしまっていたらしく、マリエに怪訝な顔をされた。
「今の、笑うところだったかしら?」
「あ、いえ」
マリエの鋭い瞳が、探るように見ている。決して大きくない瞳を、黒いアイライナーで囲って、必死に大きく見せようとしているのが、虚勢をはる行為そのもののようで滑稽だった。
「私、喉渇いてきちゃったな」
料理が運ばれてきたころに、彼女が言う。
ドリンクはセルフサービスで、カウンターに取りに行くようになっている。
「淹れてきます」
アリスはいつものように気を利かせた。
「紅茶ね」
レモンも砂糖もいらないけどミルク、と注文をつけられる。
アリスは自分のぶんの烏龍茶といっしょに、トレイに載せて席へ運んだ。
紅茶はもちろん熱いので、猫舌のマリエはすぐには飲めない。冷たいのにすればいいのに、わざわざ熱いのをいれて、冷まして飲むのが好きなのだ。
アリスは、幼稚園でやっていたように、彼女のティーカップを見張る役目をする。自分もコップに口をつけない。温かい料理が冷めるまでいっしょに待つ。水さえ、口にすることは許されない。それはもう、儀式だった。ああすればいいのに、こうしたら便利なのに、といった、傍からの合理的な意見はいらないのだ。
「もう、大丈夫かしら」
マリエはつぶやいて、フォークの先でハンバーグを突き刺す。ナイフは使わない。姫君を自称するわりに、上品さや品格といったものはいっさいない。
アリスのスープも冷めてしまっていたが、温かいのは一人のときいくらでも食べられるのでかまわない。
昔のように彼女に縛られているわけでもなく、いやならいつでも離れていくことができるのに、なぜそばにいてしまうのだろう。
アリスをよく知る者たちは、マリエとの関係が継続されていることを知ると、眉を顰めて忠告した。
「幼稚園のころならともかく。何であんなやつの言うこときいてるの? 可愛くもないし、わがままで性格悪いじゃん」
姉からも、もう少し柔らかい言葉で同じことを言われている。
マリエは、みんなが大人になって抜けていく場所に、いつまでもとどまってしまった「裸の姫君」だった。運動会の障害物競走で、ネットにかかって抜け出せなくなってしまった走者のように、傍から見れば滑稽なのだが、彼女自身は気づいていない。アリスがちやほやするかぎり、この先も、気づかずにいる期間は延びるだろう。
それでもアリスは、彼女から離れることができなかった。自慢ばかりの話を聴きながら食事して、明日学校まで送っていく約束をした。命令よ、とマリエは満足そうに笑う。顔立ちの整ったアリスが、ほかの誰でもなく自分だけの言うことをきいて服従しているのが、気持ちいいのかもしれなかった。
「バイクで二人乗りなんかしたら、恋人同士と間違われるじゃない。迷惑だわ」
「すみません。馬車なら、よかったですね」
マリエを後ろに乗せてファミレスの駐車場を横切りながら、アリスは背後の彼女にわびる。細い腕が胴に絡んでいるのだが、力が強すぎて、縄で縛りつけられているようだった。
「これからどこへ行くの?」
「あなたを家まで送って、バイトです」
「そう。つまらない。明日は?」
「明日? キャンベルの仲間と練習です。ライブ、近いから」
アリスが淡々と答えると、マリエの腕がより強くしがみついてきた。
「楽しそうじゃない、それ。ねぇ、私もついてっていい? コトリさんやユースKにもまた会いたいし」
一度だけ引き合わせたことがあるのだが、それ以来何度もねだられているのだ。コトリがギター&ボーカルで、ユースKが作詞作曲・ベースを受け持っている。もう一人、ドラム担当の六抹(ろくまつ)というのがいるのだが、彼の名は出ない。他のメンバーに比べて、美形とはいいがたい外見をしているからだろうか。
(分かりやすいなぁ)
アリスは苦笑いする。
前回会わせたときも、コトリのほうばかり見ていたので、後で彼から、「俺、カノジョいるって言っといて」と頼まれた。不美人な上にイタいニオイのするマリエとは、親密になりたくなかったのだろう。ユースKも、「俺、ゲイだからって言っといて」とふざけて便乗した。マリエが美人だったら、速攻で食いついてくるに違いないのに。
分かりやすいのはどちらも同じだ、と部外者のアリスは思う。マリエはあくまで、アリスを奴隷としか見ていない。自分は恋愛対象にならないと知っているからこそ、距離を置いて客観的に見られるのだ。
「あー……。来てくれたら華やかでよさそうですけど、今みんなピリピリしてるから、また今度……」
「そう。残念だわ。まぁ、私は暇だし、いつでも誘ってくれていいから」
「ええ。きっと、また」
嘘をついてしまった、と罪悪感を覚えながら、アリスはうなずく。明日は練習だと、彼女に言ってしまったことを少し後悔していた。
マリエの家は、平凡な二階建ての一軒家だ。まだ昼間なのに、どの部屋も電気が消えていて、物音ひとつしない。誰もいないのだろう。マリエの両親の仕事や、家族構成について、アリスはうっすらとしか知らなかった。偶然見てしまったり、知ってしまったりしただけで、自分からは尋ねていない。彼女が語りたがらなかったし、無理に訊くことによって関係が壊れるのが怖かったのだ。アリスは特別彼女が好きだったわけではないが、かつて仕えた姫君が、玉座から落ちるところを見たくなかった。
何より、神秘的な部分を残していてほしかったから、アリスは、彼女のプライベートやプロフィールを、あまりくわしく知ろうとしなかった。知れば知るほど、彼女の存在が、「姫君」から「普通の女子大生」に近づいてしまいそうで、怖かったのだ。
彼女がお姫様ではないことなど、もう分かりきっているのに、アリスは性懲りもなく召使いをやり続けている。そのことによるメリットなど何もないし、子供時代の遊びに浸り続けているに過ぎないのに。
「それじゃ、また明日」
「ええ。遅れるんじゃないわよ」
マリエは、馬車でなくとも妥協してくれるらしい。アリスが中古で購入したバイクに、乗るたびに文句をつけるのだが、それでも迎えに行けばおとなしく後ろに身をあずける。
彼女の「足」代わりをかってでるのなんて、アリスしかいないからに違いなかった。
(かわいそうなヒト、かもしれない)
バイト先のカラオケ店に向かいながら、アリスは孤独な彼女を哀れんだ。
優しくすることによって優越感を覚えるわけではないが、マツルとはべつの意味で、危うさを感じさせるヒトなのだ。おまけにマリエは、マツルの「音楽」に匹敵するような、カリスマ性を持っていない。「愛される」「守られる」「みんなから大切にされる」といった、受け身の願いばかりが彼女の根幹を成している。「~される」系の、誰かによる幸福は、その相手の気分次第で左右される不安定なものだ。マツルのように、自分から発信して作り上げる幸福をもっていないところが、マリエをより脆弱に見せていた。
(守ってあげたい、なんて思ってるわけじゃないのに、ヘンだな)
ときどき心の中で見下しているくせに、いざとなったら、身を挺してでも彼女を守ってしまいそうだ。
アリスは、バイト先の従業員用駐車場に滑り込みながら、自分が分からなくなって眉を寄せた。
「へぇ。それで久しぶりに、俺に会いたくなったってわけか」
歓楽街のはずれの、雑居ビルの二階の小さなバーで、アリスは誠司(せいじ)に会っていた。相手が十二歳年上で、かつては愛声都市のギタリストだった。バンドの解散後は、バーテンダーとして修行し、今年に入って自分の店をオープンさせたのだ。
アリスは未成年だからまだ飲めないが、話したくなると、こうして店を訪れる。
「まだあのコにつきあってるのか。そりゃ、ストレスもたまるだろうな」
誠司は、アリスの近況を聞くと、呆れたように言った。まだ早い時間なので、店にはまだ、ほとんど客が入っていない。奥のテーブルに女性の二人組がいて話し込んでいるのと、常連らしい男性が一人で静かに飲んでいるだけだ。
あのコ「と」つきあっている、じゃなくて、あのコ「に」つきあっているという言い方に、誠司の彼女に対する評価が表れている。マリエは、愛声都市が解散を決めたころに、ライブに来たことがあった。控え室にも来て、メンバー全員と話をした。
誰からもお姫様扱いされないと気が済まないマリエは、自分のことばかり話して、意見を肯定されないと不機嫌になった。同い年のマツルもたいがいわがままで、メンバーを振り回していたが、マリエはそれ以上だった。
「僕の中の、女王様記録が今、更新されました」
彼女が帰った後、いちばんおとなしいメンバーの明日博(あすひろ)が、疲れた顔でぼそりと言ったのを、誠司もアリスも覚えている。
「女のコって、どんなコでも、少なからず、お姫様願望があるんでしょうね」
搾りたてのマンゴージュースを飲みながら、アリスは大人びた口調で言う。
「それを上手に読み取って、満足させられる奴が、モテるんだよ」
普通はそこまでつきあいきれないけどな、と誠司は付け足した。
少女のころは誰でも、お姫様という特別な存在に憧れ、大切に扱ってくれるヒトを求めるものだが、大人になっていく過程で、世の中から現実を突きつけられるものだ。おまえはそんなにかわいくないし、愛されるべき存在でもない。おまえが消えたって悲しむヒトはほんのひと握りだし、愛されようと思ったら、媚びへつらって着飾って、相手の望むように自分をねじ曲げていかなければならないのだ、と。そうして少女は、自分を少しずつ見失い、お姫様なんかとはほど遠い、窮屈で悲しい大人の女になる。
マツルも、愛声都市のボーカルでいた間は、紅一点でちやほやされるお姫様だったが、今は普通に社会人になっている。これまでの環境とのギャップは、それなりに感じているに違いないが、気が強い彼女だから、乗り越えていけるだろう。
それに比べて、マリエは、いつまでも召使いの役目を果たし続けるアリスがいるから、幼児の万能感溢れる王国を抜け出せない。
「幼稚園のころ、園の向かいに城跡公園があったんです。僕たちはよくそこで、お姫様ごっこをしてました」
アリスは、酒に酔ってもいないのに、薄暗いバーの落ち着いた雰囲気に促されて、これまであまりヒトに言っていなかったことを語り始めた。
「あそこって、お堀とか庭があって、けっこう雰囲気あるでしょ。入りこんじゃってました、遊びに」
アリスはよく、敵が攻めてこないかどうかの見張りをやらされた。マリエの王国は、どこかと戦争をしている設定で、いつも緊張感に満ちていた。
何と戦っているのかは分からないし、具体的な設定はなかったのだが、マリエはいつも、何かに怯えていた。
あるときなど、急に「奴らが来たわ、私を守って!」と命じられ、彼女と同じものを見ることができないアリスは、鉄砲代わりの木の枝を、どこへ向けていいか分からないまま立ち尽くしていた。
「アナタって役立たずね」
お姫様は不機嫌になったが、何と罵ってもそばを離れないアリスに、それなりに満足しているようだった。
アリスたち姉弟以外が遊びに加わることもあったが、設定に異を唱えたり、役柄の変更を望んだりした者は、あっさりと首を切られて、王国から永久追放された。結局、残ったのはアリスとその姉だけだった。
小学校に上がってから知ったが、今は影も形もないあの城にも昔、たいそうわがままな姫君がいたのだという。大勢の家来を従えて、城が焼け落ちるその日までは幸せだったに違いない。
「小学生になってからも、頻繁に召集かけられてました。あそこに集まったが最後、マリエさんの気が済むまで遊びにつきあわなきゃならない。見えないドレスをほめて、食べられない食事を用意して。三年生にもなると、普通はもうそんな遊びしませんから、僕らはヘンな目で見られて、からかわれました」
アリスはそのせいで、小学校を卒業するまでいじめられていた。
二学年上のマリエも、アリスの姉以外に友達はいなかったが、そのことで余計に、自己憐憫を強めていた。
「私は王家の人間だから、国民の妬みと恨みを一心に受ける運命なのね。アナタたちにもつらい思いをさせるけど、どうかいっしょに耐えてちょうだい」
実際は単に、変わっているから疎外されているのだと、アリスはすでに分かっていたが、怖くて指摘できなかった。マリエが恐ろしいというより、マリエの信じている世界を壊すのが恐ろしかった。こんなにも強く架空の設定を信じ切っているマリエに、現実を突きつけるのは酷な気がした。
「マリエちゃんは、お姫様だから。しかたないのよ」
二人きりのとき、姉のかぐやは、諦めたような口調でアリスに言い聞かせていた。
家でもさぞや大切にされて、本当のお姫様のように扱われているのだろうと思ったが、マリエの現実は違っていた。
「小六のときにやっと、彼女の家のこと、知ったんです。きょうだいはいなくて、一人っ子みたいでした。お父さんと、お母さんにも、一応会いました。お父さんは真北(まきた)工業の幹部、お母さんは県庁の臨時職員でしたけど……。何か、家の中が冷え切ってて。彼女なんか、目に入らないみたいでした」
鮮明にそのときのことを覚えているアリスだが、語るとなるとありきたりな表現しか出てこなくて、声が途切れがちになった。
大企業の類に入る安泰な会社など、数えられるほどしかないこの街において、真北工業は、トップレベルの就職先だ。だから、そこの幹部クラスの社員が、あんな暗い顔で暮らしていると知ったことは、アリスにとってはなかなかショックな出来事だった。「正解」と言われているものなんて、みんな本当はこんなものなのかもしれない、と考えさせられてしまった。
「珍しくないじゃないか。いまどき、そんな家」
誠司は、女性客用のカシスオレンジを作りながら、反応する。彼自身も、両親の離婚と再婚を経験し、ゴタゴタの多い家庭で育っていた。マツルのわがままを許していたのは、生き別れた妹を重ねていたからかもしれない。
「そうかもしれません。でも、何だか気の毒で。彼女、家にいづらそうで、一度遊びに行ったときも、『そろそろ外出よう』ってすぐに追い出されました。僕たちの遊び場は、あの城跡公園しかありませんでした。あそこって人こないし、敷地内に山もあって、何となく暗いでしょ」
「あぁ」
暗い場所が、明るい場所よりも人を親密にするのは、バーを経営する誠司もよく知っている。
「……キスしました」
酔ったわけでもないのに、アリスは唐突につぶやいた。
小学校を卒業する少し前、二人きりで遊んだときに、アリスはマリエに、キスするようにねだられた。
「好かれてたのか、実は」
「いえ。一生付き従うっていう、誓いのキスです」
アリスにとっても彼女にとっても、もちろんファーストキスだった。
それ以降、二人とも恋人ができないままなので、今のところあれが最初で最後のキスになっている。
「それでおまえ、本心ではあのコから離れたいの?」
問われて、アリスは黙り込んだ。
相談に来たのは、迷いがあったからなのだが、今ではそれもよく分からなくなっている。
「僕の代わりをしてくれる、王子様みたいな人が現れたらたぶん、すんなり離れられると思うんです。でも、そういう人ってなかなか、いないでしょう?」
「まぁな。彼女べつに、美人でもないし、何ができるってわけでもないだろ」
誠司はわりと、言うことがシビアだ。そういう現実的すぎるところがあるから、彼は女性にモテないのかもしれない。
白馬の王子様なんていないととっくの昔にわかっていながら、けなげなアリスは、奇特な男が現れるのを待つつもりでいる。確実にバトンを渡してからでないと、彼女のそばを離れられない気がしている彼は、自分で思う以上に律儀な性格なのかもしれなかった。
キャンベルのメンバーは、内気な人見知りが多いが、親しくなると冗談もいう、根アカの集まりである。
愛声都市のころは、マツルがしきって誠司がまとめていたが、キャンベルは四人の話し合いで活動内容を決める。インディーズながら、自主制作のCDをライブハウスなどで手売りし、そこそこ知名度を上げてきていた。
なんといっても、田舎でライバルが少ないので、イベントなどの依頼も自然と集中するし、学祭への出演はすでに四度も経験している。ボーカルのコトリの声がシャープで印象的なのと、ルックスのレベルが高いこともあって、中高生や、若い女性からの人気を集めていた。
メンバーはそれぞれにアルバイトをしているが、休みが合えばライブハウスの一室を借りて、会議したり練習したり、構想を練ったりしている。
「アリス、この歌のここのとこなんだけどさ、ピーって放送禁止音入れて伏せたいんだよね。どう?」
新しい曲の歌詞を見せられて、意見を求められる。作曲や編曲はアリスがいちばん得意な上、愛声都市に長くいたので、頼られているのだ。
「そうだね、伏せたほうが、遊んでる感が出ていいかも」
アリスもここでは、敬語を使わない。
メンバーの年齢構成は、アリスとドラムの六抹が十九歳、ボーカルのコトリが二十一歳、ユースKが二十歳と近く、学年でいうと一つしか差がない。アリスと六抹が中学の将棋部の友人で、ユースKは六抹の従兄の友人、コトリはその彼女の兄だ。狭い世界でつながってできたバンドなので、仲がいい。何でも遠慮なく言い合える関係だ。
だからこそ、アリスが仕えているマリエのことを、アリスの前で悪く言ったりできるのだ。マリエは相変わらず、彼らの練習風景を見にきたがっているが、アリスはのらりくらりとかわしていた。
メンバーがいやがる、というのもあるが、そういう場に彼女を連れてきて、後で彼女が悪く言われるのを聞くのがいやだからでもある。アリスは、マリエのことが、好きというほどではないにせよ、完全に見捨てられずにいた。自分は彼女を憐れんだりするくせに、他の者がそうしているのを見るのはいやなのだ。
次のライブで披露する曲のセットリストを考えて、ひととおり演奏した後。好物のスポーツドリンクを飲みながら、コトリがふと思い出したように言った。
「なぁ、アリス。おまえまだ、あの女のコと仲良くしてんの?」
軽い口調だったが、その「女のコ」をバカにしているのが明らかな問いだった。
「あの女のコって」
「マリエちゃん」
ユースKが笑い混じりに口を挟む。
もともと顔だちが整っている上に、音楽活動をやっていることもあって幅広くモテる二人は、不美人や好みでない女子には露骨に冷たい。アリスが長年服従しているマリエも、彼らからすれば、言葉を交わす必要もないような存在に過ぎないのだ。
アリスは一瞬、自分が笑われたようでカッとなったが、場の空気を重んじて、何も言い返さなかった。
「そういえばさ、アリスにはまだ見せてなかったっけ、マリエちゃん、俺らの似顔絵描いてくれて。すっげー、アニメみたいなの……くくくくっ」
コトリは途中から、笑いに飲まれてしまって、前屈みになって肩を震わせていた。
「あぁ、こないだ見せてくれたやつ? まあまあうまかったじゃん、あれ」
黙っていた六抹が、フォローするように言う。
「そうかぁ。これだけど」
ユースKがバッグの中を探って、一枚の色紙をアリスの前に差し出した。
「あぁ……」
久しぶりにみる、マリエの絵だ。
恥ずかしいのかあまり言いたがらないが、彼女はイラストレーターをめざしている。コンテストにもよく応募していて、小さな賞の佳作ならもらったことがあるらしい。
肩を組んでいるコトリとユースKの似顔絵は、少女マンガ風の柔らかなタッチで描かれていて、実際の本人たちよりも美化されていたが、決してヘタではなかった。
自信家のわりに内気なところもあり、傷つきやすい少女のまま大人になったような彼女だから、似顔絵を直接本人に手渡すのは勇気がいっただろう。それをこんなふうに、好きな相手に陰で笑われるなんて、とアリスはいたたまれない気持ちになった。
「もうちょい美人ならいいんだけどなー」
「いや、美人でもコワイって。手作りとかもらったら、どうしたらいいかわかんないもん、俺。なぁアリス、よかったらそれ、引き取ってくれる?」
「小島くん、それはちょっと」
六抹が、「気の毒だよ」とマリエをかばってくれる。彼は、あまりしゃべらないが、おっとりしていて優しい。
コトリのことを、普段は芸名で呼んでいるが、いさめるときなどは本名を口にしてしまうらしい。コトリ、というのは本名の「小島英司(こじまえいじ)」の名字をいじってできた名前なのだ。ちなみに六抹というのは、「六谷抹茶店」の息子だから、その略称から作りだしたのである。
アリスは、無表情で考えた末に、マリエの絵を受け取った。もし捨てられたりして、マリエが目にするようなことがあったら、傷つくと思ったからだ。彼女に気づかれないように、密かに保管しておくつもりだった。
(悲しいな)
そのまま、何ごともなかったかのように新しい曲の打ち合わせに移りながら、アリスの心はまだマリエのところに残ったままだ。
本人はいつまでもお姫様のつもりで、脆い矜持を支えにしているのに、今や彼女を本気で姫扱いする者はアリスしかいない。そのアリスにしたって、心から彼女を慕っているわけではなく、半分以上は哀れみでマリエにつきあっているのだ。
かつては絶景の名城として錦絵にも描かれた城が、堀を残して消え去ったように、マリエの儚い権威も、すでに残骸になってしまっている。
せめて自分だけは、最後まで彼女を姫君として敬おう、とアリスは鍵盤に目を落としたまま、誓った。
「あぁー、回ってきたぁ。覚えること多いし、寝る時間もろくにないし、……なりたくないなぁ、医者なんて……」
机に突っ伏して、ろれつの回らない口調でぼやいているのは、最近医大を卒業して、研修医として父の病院に勤務している、明日博だ。かつて「愛声都市」でドラムを担当し、アリスとも未だに仲良くしてくれている、元メンバーである。
病院の一人息子として生まれ、医師をめざしている彼は、最近多忙でストレスがたまっているらしく、会うたびにべろんべろんに酔っている。今日もコンビニで買ってきた酒でしたたかに酔って、アリスの家でくだを巻いているのだ。
「気持ちは分かるけど、目標がはっきりあるだけでも、恵まれてるんだよ。僕のバイト先なんか、いったい何やってるのかも分からないまま、三十・四十になってる人だっていっぱいいるんだから」
もう言葉は届いていないだろうと分かっていながら、アリスはまじめに明日博に答える。彼にだけタメ口なのは、昔からだ。
まだ未成年で、酒を飲んだことがないので、アリスには、酔っぱらう感覚がよく分からない。今の彼には、アリスの言葉など、鳥のさえずりのようにしか聞こえないのだろうか。
「うー、そりゃ自分が悪ひんらろーぉ」
酒癖の悪い明日博は、肘でグラスをついて倒し、ずるっとテーブルから崩れ落ちる。
「まぁ、そうなのかもね」
控えめに相づちを打つアリスだが、バイト先の生気のない中年は明日の我が身かもしれないので、少し胸が痛んだ。
今は音楽と夢があって、薄給の非正規雇用でも希望を持ってやっていられるが、この先はどうなるのだろう。現実を直視したら終わりそうだから、キャンベルのメンバーとはそういう話はしないけれど、ネット上の匿名のチャットではよく話し合う。各地のアマチュアバンドマンと交流しているが、田舎であるほど状況は厳しいらしい。
『介護にでも行かないと、マジで仕事ないしね』
冷や汗を流す顔文字つきの書き込みは、彼より年下のアリスにもじゅうぶん共感できるものだった。
心底音楽が好きだから、ぎりぎりまでメジャーデビューをめざして粘りたいけれど、叶わなかったら、もうドン底の未来しか待っていないのは分かりきっている。いつまでもフリーターでは、親の目も厳しくなるばかりだし。
苦労も知っているから妬む気持ちはないが、はっきりと保証された未来がある明日博を、うらやましいと思うこともあった。CDもどんどん売れなくなり、音楽の市場そのものが縮小しつつある今、ミュージシャンとして食っていこうなんて夢は、愚かなものだとじゅうぶんすぎるほど理解しているのに、諦められないのだから。
黙ってテーブルを拭き、水を入れたグラスを差し出したアリスを、明日博はふいに顔を上げて見つめた。潤んだ目が、座っている。
「どうかした?」
酔っぱらいの相手に疲れてきたアリスは、そっけなく尋ねる。
「いや、きれいだなって思って」
「え?」
何を言っているんだ、と眉を寄せたときに、彼の視線が自分を飛び越えてその後ろに向かっていることに気づいた。
「あぁ……」
明日博が見ていたのは、アリスがコトリたちから押しつけられた、マリエの絵だ。
「うまいじゃん、それ。アリスが描いたの?」
完全にではないが、酔いも少し醒めたらしい。真剣な目で、絵を見ている。そういえば彼は、イラストから油絵まで幅広く愛する、芸術肌だった。医者の家に生まれていなければ、画家をめざしていたかもしれないと言っていたこともある。
「違うけど。ほら、マリエさんって、覚えてるだろ? あの人が描いたんだ」
「へー……。あの人、こんな優しいタッチの絵、描くんだ。意外だな。すげー」
手に取ったまま離すことなくじっとながめて、明日博は彼女の絵をほめた。
「アリス」
改まった声で、キッチンにいるアリスを呼ぶ。
「何?」
「この絵、くれないかな」
買うのでもいいから、と頼み込まれて、アリスは困惑する。
お金をとるつもりはないが、そんなに易々たらい回しにしたのでは、絵が、描いたマリエが、かわいそうな気がしたのだ。
「だいじにする?」
しばらく押し問答した後、アリスはついに折れた。愛声都市時代もあまり自己主張しなかった明日博が、これほどしつこいのは珍しい。酔っているから、おかしくなっているのかもしれないが、それなら、酔いが醒めた明日の朝にでも、取り返せばいいのだ。
「今夜は泊まっていきなよ」
実家暮らしだが、両親は昨夜から親戚の家の法事で出かけているので、問題ない。
「サンキュウー」
絵を大切そうに鞄にしまって横になった明日博に、アリスは毛布をかけてやった。
彼が明日になっても心変わりせずに、マリエの絵を大切にしてくれることを願って。
次にマリエに呼び出されたのは、その一週間後だった。場所は、彼女が個展を開く予定の、アーケード街の空きスペースだ。昔は栄えた通りだったものの、最近商店が次々廃業したり撤退したりで、シャッターばかりになっている。アマチュア写真家や絵描き、ハンドメイドの商品を売りたい人などに安価でスペースを貸すのは、商店街活性化のための活動の一環らしい。若者が少ないので人はあまり集まらないが、細々と続いているイベントもあったりして、それなりに成果は上がっている。
アリスはその、空きスペースで行われる個展の準備のために呼び出されたのだ。
「来るの、遅い」
指定時刻の五分前に着いたのに、マリエはのっけから不機嫌だった。
「すみません」
自分が悪くなくても謝る癖がついているアリスは、頭を下げる。
「私おととい、風邪気味だったから病院行ってたの」
メールが来なくても、見舞いに行ったり、様子を気にしたりしなかったから怒っているのだろうか。超能力者でもないのに、察しろ、というのは横暴な気もして、アリスは頭をかく。マリエの不機嫌の理由は、そこではなかった。
「その病院にね、見覚えのある絵が飾ってあった。どうしたのかと思って先生に訊いたら、『息子がだいじそうに持って帰ってきた』って。あそこが明日博くんの家だなんて知らなかったけど、アナタが彼にあげたんですって? 何でアリスがあの絵、持ってたのよ」
アリスの背筋が、さぁっと冷たくなる。
明日博には、あの絵を手に入れた経緯を語らなかったので、喜んで、人目につくところに飾ったのだろう。彼が翌朝になっても心変わりしなかったことだけにほっとして、そこまで気が回らなかった。
「コトリくんが、カノジョに見つかるとまずいから、僕にあずかっといてほしいって言ったんです。それを、うちにきた明日博が気に入っちゃって」
我ながら苦しい嘘をつくようになったなと、アリスは思う。だが、「コトリはあなたを好きではないのだ」と本当のことを告げるほうが、よっぽど残酷なような気がした。
「彼にはまた、新しいの描いてあげてくださいよ」
僕があずかっておきますから、とアリスは誰も傷つけない方法を選択する。
コトリもユースKも、女としてのマリエのことは嫌っているが、ファンとしては失いたくないはずなのだ。陰でボロクソ言っている、などと知られてはまずい。「女のコを美醜で判断する」などとうわさをたてられたら、今後の活動にマイナスだし。
「まあ、暇ができたらね」
マリエは鼻を鳴らして、搬入した段ボール箱やキャンバスを確認し始めた。
「ほら、アリスもこの図のとおりに机設置して」
「はいはい」
まるで、女王にこき使われる不思議の国のアリスみたいだ。逆らっても首を切られはしないだろうが、アリス自身が自己嫌悪に陥ることになる。
重たい箱を移動させて机を並べ、彼女の指示するとおりにキャンバスを立てていく。
元は、野菜や日用品などを売る小さな店だったこのスペースは、木の床がアンティークな雰囲気を出していて、アート関係の個展に向いている。都会の無名アーティストが、この街の寂れた風景に惹かれて、スペースを借りることもあるらしい。
アリスは、きつい性格のマリエが描いたとはとても思えないような、優しいタッチのイラストをいくつも、壁にかけた。彼女の絵はどれも、淡いパステル調の水彩絵の具で描かれていて、即興のポエムでも添えれば、路上で似顔絵を描いているアーティストのものに見えなくもなかった。万人には理解できない芸術よりも、親しみやすい絵本的な世界に近い。
「あれ……」
絵を並べているうちに、アリスは一枚の作品に目を奪われた。
「これって」
初めて見るその絵には、どこか見覚えのある風景と、見慣れた顔の人物が描かれていたのだ。幼稚園時代、彼女のなわばりだった城跡公園と、そこで遊ぶマリエとアリスとかぐやだった。
「僕たちですか?」
「……勝手に見ないで。余計なこと言わないで、やるべきことだけやっていればいいの」
照れているのか、彼女はぴしゃりと言って、壁のほうを向いてしまった。
そのまま、アリスは黙々と展示の準備をして、バイトに行く時間に解放された。あとはマリエ自身が、手書きのポップやメッセージカードを用意して、オープンに備えるらしい。
「アナタも、来るのよ。期間中は朝十時から夜七時までここ開放して、私も、授業がないときはいるようにするから」
店番のような役割も手伝ってほしいという。
昼間は特に用事もないので、アリスはうなずいた。誰も来ないかもしれないが、展示品を壊されたり盗まれたりしないように、スペースには常に誰かいないといけないのだ。親しい友達がいないマリエには、アリスしか頼める相手がいなかったのだろう。
「成功するといいですね」
また明日来ます、と言い添えて、アリスは彼女のスペースを後にした。
普段やる気のなさそうな奴ほど、出世したり大金を手にしたりするものらしい。要領がいい、というのだろうか。アリスのよく知る者の中にも、そういうラッキーな素質を持って生まれた男がいる。
「貴空(きそら)?」
マリエの個展が始まる日の朝、アリスはかつてのバンド仲間に電話をかけた。彼は今、自宅をオフィスにして起業し、そこそこの稼ぎを得る社長になっている。高校卒業後、何もやる気がしないからと引きこもり、FXに手を出して大もうけし、その収入を元に起業して、成功を納めたのだ。本人は、「ニートの延長で生きていくために適当にやってたら当たったんスよ」などと欠伸しながら言っているが、この大不況下では、奇跡に近いのではないだろうか。
ナマケモノのように、一日中パジャマに近いジャージ姿で、パソコンの前から動かない生活をしている。今のところほとんどの作業を一人でこなしていて、入力作業のために雇っているアルバイトとも、顔を合わせずメールだけでやりとりしているそうだ。愛声都市時代から、気だるそうな深夜のコンビニ店員に似た雰囲気を漂わせていて、「しゃんとしろ」とよくマツルに叱られていたが、結局、彼がいちばん出世した。
毎日最小限のカロリーだけを消費して生きている彼だが、音楽は今も好きなようで、キャンベルのライブにもときどき、参加してくれる。そういう縁もあって、アリスも頻繁に連絡をとっているのだ。
「何か用?」
寝起きらしい声が、ケータイの向こうから返ってくる。
「うん。マリエさんが個展開くから、貴空にも来てもらいたいなって思って」
「あー。マリエさんって、誰だっけ?」
「ほら、愛声のときに会っただろ、巻き髪の……」
「あー、あのアイタタ不思議ちゃんかぁ」
貴空は何でもはっきり口にする。
組織の中では敵を作りやすいタイプだから、一人で仕事をできる環境を掴み取れたのは、何よりの幸運かもしれない。
「絵、うまいの?」
めったに外へ出ない貴空だが、長いつきあいの友人の誘いには、関心を示してくれた。
「うん。僕はうまいと思う。マツルさんとはまた、違う感じで」
「ふうん。行くかなぁ。アリスにも会いたいし」
眠たげに言う声とともに、なにやら、電話の向こうでごそごそしている音がする。
「何してるの?」
「え、トイレ」
すぐに水を流す音が続いた。
「音姫つけたんだよね」
どこまでもマイペースだ。
「もう、人と話してるときくらい我慢しろよ。じゃあね」
場所と時間を伝えた後、電話を切ったアリスは、改めて、愛声都市が存在していたことを不思議に思った。
(よくあんな、バラバラな奴らが一つにまとまって音楽やってたよなぁ)
タウン誌の記事を見て集まったメンバーなので、年齢もバラバラだし、共通しているのは音楽が好きということだけだったのだが、なぜかうまくいった。変わり者ばかりだったけど、認め合う空気があったからかもしれない。
マリエのまわりにはもう、そんな寛容な人間はいないのだろう。彼女も二十一歳で、まもなく就職戦線に身を投じることになる。社会に出たらますます、型にはめられて、自分は愛される姫君ではないという事実を思い知られるに違いない。
(不幸だな)
個性を認めてくれる仲間を持たない彼女を哀れんで、アリスは個展のスペースに向かった。
こんな田舎にも、芸術や文化に関心を示す層は一定以上いる。パイプ椅子に座って文庫を読みながら、アリスは改めてそのことを思い知らされた。
商店街とはいえシャッターばかりなのだから、買い物ついでに寄ったというふうにも見えない客が、開始直後から絶えることなく、マリエの絵を見にきたのである。初日だからかもしれない。アースカラーの服が似合うナチュラルな雰囲気のカップルや、かっちりおしゃれした老婦人、美術学生風の若い男性など。じゃましないように読書しているふりをしながら、アリスは密かに、訪れる客を観察していた。
『どう、ヒト来てる?』
大学にいるマリエからメールが来たので、『大繁盛してます』と、少し大げさに返信しておいた。
販売しているポストカードやしおりもいくらか売れて、元々点数が少なかった缶バッジは補充が必要になった。
この街の人々はきっと、非日常的なものや芸術に飢えているのだろう。東京などの大都市で個展を開いていたら、同じようになったかは分からない。
マリエの個展は、彼女が女子大生ということもあって、地元新聞や朝夕のローカル番組、タウン誌などで取り上げられていた。マリエ自身は、小さな賞をいくつか受賞した程度で、全国的には無名なのだが、県内ではそこそこ知られている。よくも悪くもそれは、都会にはない、閉鎖的な場所での特殊な事象だ。人口の少ない田舎に生まれたことの特権であり、勘違いした本人を井の中の蛙にする要因だった。
「やっほー」
初日の午後、授業を終えたマリエがスペースに到着した直後、怠そうな声が入り口のほうから聞こえた。
「あ、来てくれたんだ」
「誰よ?」
「貴空ですよ。ほら、愛声都市のベースの」
「あぁ。起業したっていう」
「そうです。覚えてもらってて、光栄ッス」
チェックのシャツをだらしなく着ている貴空は、漫研にいそうな大学生風で、とても社長には見えないが、手首にはロレックスの時計が輝いている。
「マリエさんの絵、情緒があってステキっすね」
スペースを見回して、何か考えている顔で貴空は言った。
「そう? どうもありがとう」
マリエは、彼を外見で「信頼できない人物」と判断したらしく、そっけなく答えて他の客のほうへ行く。
貴空は、マリエの絵にじっと見入って、絵の中の少女とにらめっこしていた。
「気に入ったんだね」
アリスは、彼があまりお世辞を言わないのを知っている。起業して事業が軌道に乗ってからは特に、人に媚びる必要がなくなったので、ますます、よいものしか褒めないようになった。
「うちの会社のホームページ、ソフトな印象に変えてみようかと思ってたからさ。デザイナー雇ってもいいんだけど、イメージを左右するだいじなところだし、やっぱ、自分がいちばん気に入った絵を使いたいから……」
パソコンでも絵を描いているマリエに依頼したい、と貴空は真顔でアリスに言った。
「また、日を改めて来るよ」
ふらっと風のように出ていった彼の背を目で見送り、アリスは、意外なこともあるものだと、不思議な縁の芽生えに驚いていた。
マリエの個展が生んだ縁は、それだけではなかった。こちらはむしろ、奇跡と呼んでいいレベルかもしれない。
最終日の二日前にスペースに行ったアリスは、「こんにちは」と、聞き慣れない声に迎えられた。声の主は快活そうなショートヘアの女性で、長い睫毛に囲われた瞳で、にこにこしてアリスを見つめている。
「はじめまして」
笑い返したアリスは、「誰ですか」と、奥にいるマリエに目で問いかける。
「船橋(ふなばし)ユキさんよ。前に、雑誌の読者コーナーに載った私の絵を見て、HPにメールをくれたことがあったの。昨日、『個展見に行きます』ってメール来たから、アナタを迎えに行かそうかと思ったけど、バイクでしょ。かえって役に立たなそうだから。殿松(とのまつ)市なら、電車のほうが速いし」
殿松といえば、アリスたちの住む射鷹市と接している、隣県の市だ。
「マリエさんに一度お会いしたかったんだ。仕事でなかなか来られなかったけど、ようやく都合ついて。最終日までに来られてよかった」
爽やかなライトブルーのパンツに白いカットソーがよく似合う彼女は、隣県の求人誌の編集を仕事にしているらしい。
先ほどマリエに頼みこんで、今日から最終日まで、スペースの運営を手伝うことにしたという。
「だから、アナタは明日もあさっても、来なくていいわよ。いてもじゃまになるし」
突然で、あまりに理不尽だ。アリスは言い返しそうになったが、いつものことだとぐっとこらえた。
マリエは、二つ年上のユキと楽しそうに話している。友達のいない彼女が、同性とこんなに楽しそうに笑っているのを、アリスは初めて見たような気がした。かぐやといるときも、マリエは笑っていたけれど、二人の間には上下関係があったから、かぐやのほうは決して、心から笑っていたわけではない。マリエもそれを、薄々感じてはいただろう。
かぐやは、高校で弓道部に入ってべつの友人を作り、アリスよりずっと早く、召使いをやめている。自分からマリエに近づいていった者はいなかったようだし、対等な友人ができるとしたら、おそらく、ユキがその一人目になるのだろう。
その日は早めに解放されたが、何だか胸がぎゅっと縮こまったように痛んで、帰る際に、何度もスペースを振り返ってしまった。
ユキは個展が終了した後も、頻繁にマリエを訪ねてきた。おかげでアリスは呼び出される回数が減り、自由が増えた。恋人でもなく親友でもなくただの主従であった以上、いつか向こうの都合でそんな日が来るのは分かっていたのに、なぜか頻繁にメールをチェックしてしまう。仲間やアパレルショップからは来ていたが、マリエからのメールはなかった。
やることがたくさんあるので寂しいわけではないけれど、急に態度を変えられると、無意識に相手のことばかり考えてしまう。いつか関係が薄れる日が来ることも知らずに、ただ従っていたころの、幼い自分が急に懐かしくなった。
抜け殻になったような日が数日続いた後、気まぐれな彼女らしいメールが唐突に届き、アリスを救った。
『今日の夕方、ロングテールに来なさい』
何をするから、とかなぜなのか、といった説明はいっさいない、女王様のご命令だ。ロングテールは、愛声都市もよく行っていた喫茶店で、搾りたてのフルーツのジュースがおいしい。
アリスは、忙しい飼い主に久々にかまわれた犬のように、「行きます」とすぐに返事をした。自分よりも彼女を理解してあげられそうな人が現れたら、いさぎよく側近の役をゆずろうと考えていたのに、いざとなると未練が残ってしまうものだ。他にも大切なものはたくさんあるはずなのに、嫌われ者の高慢な女性の、唯一の理解者という立場は、知らぬ間にアリスの自尊心の要になっていたのだろうか。
いそいそとバイクにまたがるアリスには、自分のことなのに、よく分からない。
待ち合わせ場所にいたのは、マリエだけではなかった。寂しくて呼んだというわけではなさそうだ。四人掛けのテーブルで、アリスの向かいの席には、マリエと船橋ユキが、肩を触れ合わせるようにして仲良く座っていた。
「こんにちは、アリスくん。姫とはあれからもずっと、仲良くさせてもらってます」
親しげに話しかけられ、アリスは、浅くうなずく。自分のいた場所に、今は彼女が座っているのが分かった。
「姫って呼んでるんですか、彼女のこと」
「ええ。見るからにそんな雰囲気だから」
ユキは、ナチュラルにマリエを崇めているようだ。マリエは誇らしげな微笑を浮かべて、情けをかけるように、メニューをアリスに向けて差し出した。
「何でも好きなもの頼んだら」
彼女たちは先に注文したようだった。
「それじゃあ僕は、オレンジジュースで」
普段ジュースはあまり飲まないアリスだが、ここに来たときは頼む。
「今日、何で呼び出したか分かる?」
店員が注文を取って去った後、マリエがもったいぶった調子で尋ねた。
「また個展やるんですか?」
それはないだろうと思いながら、アリスはあてずっぽうに言う。
「違う。引っ越し、手伝ってほしいの」
「そう。悪いけど、お願い。私、姫といっしょにすむことにしたから。殿松のアパート引き払ってこっちに来て、姫とルームシェアするんだ」
「えっ……?」
マリエとユキの言葉に、アリスは一瞬、オレンジジュースを味わうのを忘れる。爽やかな柑橘系の匂いだけが、喉から鼻へ広がっていった。
マリエがあの居心地の悪そうな家から出たがっているのは知っていたが、まさかこんなに簡単に踏み切るとは思っていなかったのだ。文句を言いながらもずっと、実家で暮らしていくのだろうと勝手に決めつけていた。
「アリスが昔いっしょにバンドやってた貴空くんも、手伝ってくれるって言ってたから。私が、HPにふさわしい絵を描いてあげる代わりに」
彼女の言葉で、アリスは、貴空があの日つぶやいていたのは、単なるその場の思いつきではなかったことを知った。
裏切られたような気持ちをそっと押し殺しながら、いつもの声で問う。
「で、引っ越しはいつの予定なんですか?」
「来週末。仕事ももう、やめるって言ってあるし」
ユキは、アルバイトのスタッフだったらしい。とはいえ、そこそこ長いこと続けた仕事もあっさりやめて、マリエの元に来るというのだから、相当フットワークが軽いのだろう。都会を舞台にしたドラマの中ならありそうな話だが、腰の重い人間が多い田舎では、彼女のように短期間であっさりものごとを決められる女性は珍しい。
やがて運ばれてきた熱い紅茶を、ユキはごく自然に、埃から守って、マリエが安心できる温度に冷めるまで番をした。アリスがこなしていた役割を、いつのまにか引き継いでいたのだ。彼女自身は猫舌ではないだろうに、自分のぶんのコーヒーにも、手をつけなかった。ユキは、マリエの新しい召使いに、自らなろうとしているようだった。ぜったいにありえないと思っていた光景を見せつけられて、アリスは、無言になった。
甘さを期待して頼んだオレンジジュースが、妙に苦く感じられた。向かいに座っているマリエはもう、アリスにいろいろ命令しなかった。おしぼりを余分に持ってこさせるのも、紅茶のお代わりを頼むのも、ユキの仕事になっていた。彼女のほうが年上なのに、まるで前世から決まっていたかのように、あるいは生き別れの妹にようやく再会できたことを喜んでいる姉のように、仕えている。
引っ越しの日の予定を話し合ったりして、その日はそれだけで別れた。マリエはその後、ユキと画材屋に寄ると言ったが、アリスは誘われなかった。彼は、年をとりすぎた小姓が主人の恋人役を降りるときのように、あっさりと役目から解放された。
「それじゃ、当日はよろしくね」
最後に念を押されて、まだ気持ちが切り替えられないまま、アリスはバイクのエンジンをかけた。
二人で住むには少々狭いようなアパートに、時間どおりに行ったら、先に来ていた貴空と出会った。
「あ、アリスもやっぱ手伝うんだ」
相変わらず、だらんとしたジャージの上下に身を包み、ニートか引きこもりにしか見えない貴空が言う。
「業者に頼むと高いからね」
他にも、ユキの男友達が数人来ていた。
マリエは、家具や荷物の置き場所を指示するだけで、自分は重いものを運ばない。アリスもそれほど力持ちなほうではないので、六往復もしたら、腰と腕が痛くなった。
「楽器より重いものは持てないのね」
人のことは言えないくせに、マリエが笑う。
こんなふうに言われるのが久しぶりで、しかもこれで最後のような気がしたから、アリスは言い返せなかった。
マリエとユキが選んだ新しい部屋は、あの城跡公園を見下ろせる位置にある。
「私、昔よくあそこで遊んでたの」
引っ越しを終えた日の夜、アリス以外のお手伝いがみんな帰った後で、マリエはユキに言った。
「いつの話?」
「幼稚園のころ。お姫様ごっこをよくしてて、私はいつもお姫様だった」
「姫、似合うもんね。幼稚園のころから、可愛かったんだろうな」
美人ではないマリエを、ユキはさりげなく褒める。彼女にとっては、可愛い部類の顔なのだろうか。
「私、アイス食べたくなってきた」
「買ってこようか?」
「ううん、自分で選びたいから。私が行く」
「そう。じゃ、私も同じのをお願い。アリスくんは?」
「僕はもうじき、帰るんでいいです」
二人があまりに仲良しなので、だんだんいづらくなってきたアリスは、筋肉痛の身体で伸びをして、立ち上がる。
「もう来ないでね」
冗談か本気か分からない捨て台詞を残して、上機嫌のマリエは買い物に出ていった。
ユキと二人きりになったアリスは、そのまますぐにドアに向かわずに、彼女に尋ねた。
「どうして、マリエさんのそばにいようって決めたんですか? あんなにわがままなのに」
普通なら頼まれても断るような役目を、自ら引き受けているユキが、不思議だったのだ。
「うーん。罪滅ぼしかな」
ユキは、短い髪をかきあげて答えた。
「昔、私が幸せにしてあげられなかった人に似てるの」
でも、同情ではないという。
「普通の女のコに生まれただけでは、一生お姫様でいることなんてできないでしょ。誰からも愛される、小さいころだけならともかく。私はそれが分かってたから、お姫様願望なんてずっと昔に捨てちゃったけど、持ち続けてる人見るとなぜか、手を貸したくなるんだよね」
マリエのことも、最初は絵に惹かれただけだったから、個展を見たら帰るつもりだったが、話をして彼女を知るうちに、ずっとそばにいて守らなければと使命感を覚えてしまったのだそうだ。凍え死ぬまで王子の像に寄り添った、ツバメのように。
「だって私、姫より長くつきあったお姫様を、結局幸せにできなかったから。もう二度と会えないし、あの人にしてあげられなかったこと、多すぎて」
「あの人って……」
お母さん、とユキは口パクで言った。
「とにかく愛情に飢えてて、不倫ばかりしてたの。それも大人の恋じゃなくて、相手に守ってもらうみたいな、保護者を求めてるような関係ばっかり。お父さんは愛想尽かして離婚して、そばに残った私は、騎士(ナイト)にならなきゃって、男の子みたいにはりきってたけど……」
なれるわけがなかったのだ。
母のお姫様願望を満たせるのは、包容力のある年上の男だけで、しっかりしているとはいえ手のかかる少女は、いつも邪魔者扱いされていた。未熟なまま親になった母は結局、恋人にフラレたのを機に自殺を図り、ユキは一人になってしまった。
「普通なら憎んでもいいところでしょ。でも、私はどうも、そうなれないの。お姫様みたいに生きたい、人よりも愛されたいって気持ち、分からなくはないような気がして」
せめてマリエの願いをできるかぎり叶えるために、そばにいることを選ぶのだという。
「アリスくんみたいに優秀になれるか、分からないけどね」
「僕はべつに」
優秀じゃないですよ、と答えようとしたとき、がちゃんとドアが開いて、マリエが帰ってきた。
「何だ、まだいたの」
アリスを見て冷たいことを言う。
「はいはい、帰りますよーだ」
アリスはふざけた調子で手を振って、二人の部屋を後にした。
見えないバトンを、ユキの白い手にしっかりと引き継いだ今、アリスは、手持ちぶさたに宙を掴むしかない。よく覚えている手を思い浮かべ、想像の中でそっと握る真似をして、何かに無理やり区切りをつけた。それは、彼なりのさよならの握手かもしれなかった。
アリスは最近、キャンベルの活動に全精力をそそぎ込んでいる。もうじき、射鷹市に、オーディション番組が出張してくるので、県下のインディーズバンドはどこも、はりきっているのだ。普段はまったりした雰囲気のキャンベルも例外ではない。この番組で優勝してメジャーデビューを果たすか、受賞せずとも名を売って、県外の音楽ファンにもアピールするか。そういった高い目標が、初めて目に見える位置に掲げられたのだ。
マリエのことはもう、ユキに任せてよさそうだし、空の巣症候群のような心境から立ち直るためにも、何かに打ち込むことが必要だった。
「この曲さ、サビの部分をもうちょっと印象的にしたほうがいいと思うんだよね。さらっと流れちゃうだろ」
ギターボーカルのコトリが、楽譜を指して言う。
「え、クドくないか?」
ユースKが首を傾げる。
「アリスはどう思う?」
六抹はアリスを振り返る。音楽歴の長いアリスは、意見が分かれたときの最終決定権を与えられていた。
「そうだなぁ。ちょっとだけいじったらいいと思う。基本のメロディーラインはそのままで、音を増やすとか」
シャープペンで楽譜に音符を書き足して、試しに弾いてみせる。
「うん、それでいこう!」
「あぁ、その程度なら違和感ないな」
試行錯誤を繰り返し、話し合いを重ねながら、本番に備えて完璧な曲を作り上げていく。「メジャーに行く」という、この街にいては叶いそうもないような夢が、向こうから近づいてきてくれるのだから、手を抜けるはずがなかった。
「今夜が楽しみだな」
リハーサルもかねて、ライブハウスで先ほどの曲を披露することになっている。他のバンドが主催するライブにゲスト出演するので、二曲しか演奏できないが、チケットは完売しているらしいと聞いているので、楽しみだった。
(マリエさんと、このタイミングで距離を置けたのは、よかったのかもしれない)
彼女のことにとらわれず音楽に専念できるのは、ありがたかった。呼び出されることももうないだろうから、ケータイも電源を切っている。
久々に心から没頭できる時間を過ごし、メンバーとともに夜を迎えたアリスは、本番前の控え室で、意外な人物に会った。
「……マツルさんっ?」
東京のレコード会社で働いているはずの彼女が、いったいなぜここにいるのだろう。平日の夜だし、そう簡単に帰ってこられないだろうからと、ライブに出場することは知らせずにいたのに。
「そんなにビビんなよ」
ククッと笑ったマツルは、相変わらずのド派手なメイクに黒髪ショートで、東京に行く前と何も変わっていないように見えた。
他のメンバーも、それぞれに励ましに来た友人やファンと談笑しているので、アリスも彼女に椅子をすすめて、久しぶりに話した。
「どうなんですか、東京は。やっぱり、刺激が多くて楽しいですか?」
高校の修学旅行以来上京したことがないアリスには、東京がどんなところかというイメージも、漠然としか浮かばない。
「んー。楽しいのは楽しいよ。何でもあるし、同世代がすごく多いしさ。変わった格好してても、じろじろ見られたりしないんだよね。ゴスロリもコスプレもパンクもミリタリーも、何でもオッケー。でも何か……」
ぜったい笑わないお客さんの前で芸を披露するお笑い芸人、みたいな気分になるんだよね。と、マツルは言った。
「あぁ……」
アリスには何となく、何を言いたいのかが分かる。
都会にいれば、一つ一つの行動をとがめられなくて自由を感じるけれど、注目されることもなくて、透明人間になったような心地になるのだろう。特に、マツルのように、狭い世界で生まれ育ち、自分の名が周囲に知れ渡っているのがあたりまえで、何かするたびに注目されてきた者にとっては。無関心な都会の反応は、堪えるに違いない。
「愛声にいたときは、あたしたちってすごいって思い上がってたけど、東京で音楽やってたら、もっとすごい奴なんてごろごろいて。ちょっと自信なくしたりした。まぁ、りやこに電話で励ましてもらったから、治ったけど」
懐かしい名前が出てきて、アリスは数年前を思い出す。
マツルは彼女を愛するがゆえに、「ですのんた」という謎の言葉を語尾につけてしゃべり、一時、バンドを解散の危機に追い込んだことがあるのだ。りやこの婚約者に持ちかけられたゲームにノッていただけで、ごく短い間の騒動だったのだが、未だにあのときのことは、元愛声都市のメンバーの間で語り継がれている笑い話である。
マツルには、わがままもさんざん言われたが、アリスにとっては、年の近い姉のような存在だった。
初めて会ったときにしてくれた話を、今でもよく覚えている。
『あたしの名前さぁ、漢字で、こう書くの。音楽が好きな子になるようにってさ』
愛情の愛に、弦楽器の弦。
それでマツル、と読むらしい。
タウン誌で、バンドのメンバー募集記事を見て、彼女の元でキーボードをやることになり、説明を受けたときのことだ。彼女の高校に行って、体育館の裏で話していたのだが、そこに一人、美少女がやってきた。
『マツル、用事終わった? 先帰ったほうがいい?』
彼女が、りやこ。マツルの親友で、幼なじみらしい。漢字では凛夜子と書くのだそうだが、ひらがなのほうが、柔らかい雰囲気に合っている。あれから数年が経った現在は、教育学部で、英語の教師をめざしているそうだ。
この間マツルに聞いたところによると、二人はまだ……「順調につきあっている」らしい。遠距離になったって壊れるわけないって、と彼女は自信まんまんで笑っていた。恋の相手が同性であることも、重くは感じていないのかもしれない。たとえ感じていたとしても、表には出さないだろう、意地っ張りな性格だから。
「それでさ、アリス。驚かないで聴いてよ」
まだ誰にも言ってないんだけど、とマツルは人差し指を立てて打ち明ける。
「実はあたし、仕事うまくいかなくて、帰ってきちゃったんだよね。今日」
そのことをまずアリスに伝えようとして、家を訪ねたら、ここにいるのが分かったらしい。
「じゃあ、もう、東京には……」
「帰らないよ。じゃなかった、行かないよ。やっぱ、あたしはここにいたほうがいいみたい。りやこがそばにいないと、寂しいしさ」
マツルは、ひょうひょうとしていた。
東京に行くと決めるまで、いろいろと悩んだはずだし、準備にも時間をかけて、夢をふくらませていただろうに、落ち込んだ顔は見せなかった。昔から、あまのじゃくで強がりな彼女だから、明日からもこの街で、強気で生きていくつもりなのに違いない。
「アリス、そろそろ」
出番が近づいて、コトリが手招きした。
「あぁ、うん」
「がんばれよ、アリス。あたし、席で観てるから」
マツルに肩を叩かれて送り出され、アリスは、自分の場所で全力の音楽を奏でるために、控え室を出た。
ライブハウスでの演奏は成功だった。主役のバンドのファンなど、キャンベルを初めて観た客も興味を持ってくれて、おおいに盛り上がった。アレンジを加えた部分が特によかったと、ホームページに感想を書き込んでくれた人もいた。
「オーディションの日も、この調子でうまくいくといいな」
「うん。いつメジャー行ってもおかしくないって、マツルさんも言ってくれたしな」
キャンベルのメンバーも、元愛声都市のボーカルを、慕っている。アリスは、東京で音楽活動をするという彼女の夢が破れてしまったのは残念だと思ったが、同時に、マツルが地元に帰ってきてくれたことがうれしかった。
彼女は、恋人で親友のりやことともに、オーディションの日も観に来てくれるという。マリエにも一応連絡したら、「行ってやってもいい」と返事があった。同居しているユキの新しい仕事も決まって、二人での暮らしも順調らしい。呼び出されなくなったことの寂しさも薄れかけていたアリスは、「それはよかったな」と、あっさりと受けとめた。
ユキからのメールで知ったことだが、マリエは今もときどき、お姫様ごっこをしているそうだ。誰もいない、真夜中の城跡公園で。素直にお姫様扱いしてくれるユキなら、幼いころのアリスよりも完璧な、召使いになってくれるのだろう。
『誓いのキス、されたんですか?』
うっかり尋ねそうになって、アリスは慌てて、打ち込んだ文字を一つずつ消去した。不要な詮索だと、気づいたからだ。
自分のほうがマリエと特別な関係だったのだと、今更アピールしたところでどうだというのだろう。マリエの今のいちばんのお気に入りは、ユキなのに。
(今はオーディションのことだけ、考えていよう)
まだまだ練習が足りない部分もある、と自覚しているアリスは、バイトに行くまでの時間、選考で披露する予定の曲を繰り返し弾いた。
「ぜったい優勝するぞー!」
「おー!」
円陣を組むのなんか、たぶん初めてだ。もともとみんな、体育会系のノリは苦手だし、熱くなるのなんて照れくさい、と考えている。それなのに自然と肩を組んでしまったのは、今日が、キャンベル史上最大といっていいくらい、特別な舞台だからだろう。
オーディション番組は生放送で、キャンベルの出番は三番目だった。控え室は他のバンドもいっしょだが、これからライバル同士になるので、同じグループのメンバー以外とは話さない。
地元で競い合っている音楽好きが一同に介して、頂点をめざすこの機会を、当事者として経験できる者はきっと、それだけで幸運を手にしているに違いない。こんな片田舎に、中央からテレビ番組が出張してくることなんて、めったにないのだから。
大勢の聴衆の前で何度もライブをして、見られること・聴かれることには慣れているはずなのに、順番が近づいてくるごとに緊張が増していく。一人なら逃げ出していたかもしれないが、バンドを組んだときから運命を分かち合っている四人は、互いの顔を見つめて、その緊張を何とかやり過ごす。
「それでは、エントリーナンバー三番、キャンベルのみなさん、よろしくお願いします!」
アナウンサーの声に呼ばれて、四人は、ライトに照らされた会場に足を踏み入れた。
有名なレコード会社の代表が並んで座り、品定めするようにこちらを見て、バンド名の由来や活動歴を尋ねる。
四人を代表してコトリが答えたが、普段強気な彼も、さすがに今日は、声が震えていた。
よく知られた洋楽のカバーと、オリジナル曲を演奏して、待ちわびていたわりに短く感じる本番を乗り切った。その後四組が会場に呼ばれて、審査員の協議の上、メジャーデビューするバンドが決まる。全国で行われているオーディションだが、文句なしの優勝はこれまでに何度かしか出ておらず、該当なしで終わることがほとんどだった。実際、集まったバンドの中ではうまくても、売り出せるレベルには達していなかったり、CDにするには微妙だったりすることが多かったので、それもしかたない。
誰もがお金をためて買っていたレコードは、レンタルでも手軽に聴けるCDになり、いつしか、データでの配信がそれにとって代わろうとしている。CDを出したいだけならインディーズで出したほうが、手っ取り早く夢が叶う。そのくらい、音楽業界は縮小傾向で、CDなどの形あるものが売れにくい時代になっている。
長く活動する間に、その程度のことはいやというほど分かっていながら、キャンベルのメンバーも他のバンドの面々も、大手のレーベルからシングルを出したい、と熱く祈っていた。審査結果が出るまでの間、水を打ったように静まりかえって、誰もが息を詰めている。
やがて、思わせぶりに引き延ばされた結果が、スポットライトの元で発表される。
「今回の優秀賞は……」
女性アナウンサーが言葉を区切ると、スポットライトが会場を舞った。集まった七組が、自分たちの上で止まってくれと祈りを捧げたのもむなしく、ライトは元の位置に戻る。
「該当なし、のようです」
あぁ、とため息が響くが、この番組では珍しくない光景だ。
しかし、今回はそれだけで終わらなかった。司会者が、マイクに向かって続ける。
「今回、優勝者は出ませんでしたが、ブリリアントクールレコーズ様より、特別賞が出ています。エントリーナンバー三番、キャンベルのみなさん!」
突然呼ばれて、キャンベルのメンバーは、「えっ」と顔を見合わせる。特別賞というのは、協議の結果は一致しなかったものの、どこか一社が特に優れていると思ったバンドに与える賞だ。トップ賞以上にめったに出ないが、選ばれた者は、デビューまでのサポートを受けることができる。演奏した楽曲をそのままCDにしてもらえる優秀賞にはやや劣るが、東京でレッスンを重ねて腕をあげれば、メジャーデビューの可能性がある。
選ばれた感想を求められたが、みんな今の状況が信じられなくて、何をしゃべったかの自覚もないような状態のまま、番組の終了時刻を迎えてしまった。
くわしいことは追って連絡すると、終了後に名刺を渡され、控え室に戻った後も、四人は放心していた。他の出演者の羨望のまなざしを受け、最後まで控え室に残っていた彼らを現実に引き戻したのは、それぞれの友人や家族からのメールと着信だ。
アリスにも、マツルから電話がかかってきた。
「すごいじゃん! 今、客席で見てたんだけどさ。りやこもすっごいびっくりしてる。明日博も病院のテレビで見てたってよ」
控え室には行けないので先に帰るけれど、また日を改めてお祝いしよう、と早口で言われた。
「信じられないんですよ、僕たちもまだ。六抹なんか、さっきから泣いてるし。これからどうなるかわかんないですけど、メジャーデビューしたら、CD買ってくださいね」
アリスは四人の中でもまだ、落ち着いているほうだ。
ユースKはさっきから、中学時代の不良仲間数人に、順番に電話をかけているが、「マジ、マジ」「パねぇ、パねぇ」しか言っていない。
これからが勝負だし、すんなりデビューできるとはかぎらないし、実際、これまでの優秀賞受賞者だって、シングルを一枚出したきり、鳴かず飛ばずで消えているのだが、今喜ばなくてどうするのだろう。
自分たちで、できるかぎり豪華なCDを自作してきたが、それよりもっと音質のいいものを、手売りではなく、店頭に並べてもらえるかもしれない。それは、めざしていたものの、到達できるとは思っていなかった地点で、想像もできなかった。
控え室を出た後、汗をかいた身体には冷たく感じる夜風の中を歩きながら、無言の四人は、静かに喜びを噛みしめた。
マリエからも、「おめでとう」というたったひとことのメールが来ていたので、アリスは寝る前になってようやく、「ありがとうございます」と短く返信した。それが、怒っているように見えたのか、「何スネてるのよ」と返ってきたが、それにはもう答えずに、アリスは目を閉じた。
ぜんぶ夢でした、と『不思議の国のアリス』みたいに、お姉さんに起こされたりしませんように、と祈りながら。
「それじゃあ、マツルと入れ替わりに、東京に行くの? すごいなぁ」
おっとりした声で素直にアリスをたたえるのは、英語の教師をめざしている天塚(あまつか)りやこだ。マツルとは同級生で、ビスケット色の長い髪を後ろでまとめ、バレッタで留めている。こんな田舎ではあまりない話で、信じられないけれど、彼女たちは恋人同士だ。
マツルは一時期、宗助という少年と交際していたことがあるが、すぐに別れた。やはり、自分を偽ることはできなかったのだろう。
三人は今、マツルの家にいる。東京から戻った彼女は、実家暮らしをしながら、新しい仕事を探しているのだ。大々的に宣伝した夢があっけなく破れて、不景気な地元で職探しなんて、普通なら気が滅入ってしまうだろうが、マツルは平気な顔をしている。
「いざとなったら、いずれ公務員になるりやこに養ってもらうしー」
「もう、冗談やめてよ。教師なんて、養えるほど高給取りじゃないし」
困惑した顔で微笑して、じゃれあいに答えているりやこは、高校生のころよりさらに美しくなっていた。今も見合いの話が来るらしいが、断っているという。親や親戚はもちろん、二人の関係を知らない。仲良しのまま大人になった、普通の幼なじみだと思っている。
「アリス、東京行っても、あたしみたいに敵作るなよ。どんなに根性悪の理不尽野郎が相手でも、口答えはせずにハイハイ聞いてろよ。あと、枕営業はしないこと!」
やや投げやりな忠告を並べたマツルの、最後の言葉で、アリスは噴き出してしまった。
「しませんよ!」
見えないところではまだ傷心を引きずっているに違いない彼女の前では、笑顔を控えめにしようと思っていたのに、どうしても笑みがこぼれてしまう。ずっと手にしたかった幸運が手に入ったのだから、当然といえば当然かもしれないが、薄情な自分が少しいやだった。
「寂しくなるけど、応援してるからさ。地元のこと、忘れんなよ」
たまには帰ってくるんだぞ、といって、マツルは缶入りの紅茶を飲み干した。猫舌ではない彼女には、お茶が冷めるまで番をしてくれる召使いは必要ないようだった。
いつかは出ていくかもしれないと思っていたし、きらいだった時期もあるけれど、実際に地元を離れるとなると、アリスはやはり寂しかった。
四人で共同生活をするアパートも決まり、ぼんやりしていた上京後の暮らしが、だんだんリアルになってきた。
楽に引っ越せるように、持っていくものを選別して最小限にまとめ、アリスは珍しく、子どものようにわくわくしていた。
そんなに甘くないぞ、メジャーデビューがゴールじゃないんだから、と常に自分を戒めていないと、緩みきった口唇がとろけてしまいそうだ。
「性善説を信じて生まれてきた
夢だったのかな ご愁傷様
叩き割られる硝子の音が
僕のあげない断末魔」
気を引き締めるために、キャンベルのオリジナル曲のうち、もっとも有名な『悪い夢』を口ずさむ。初恋を成就させた青年が、信じていた彼女にずっと浮気されていたことを知って絶望する、という内容だ。今度、ブリリアントクールレコーズ主催のイベントで演奏することになっている。地元以外で披露するのは初めてだ。
メジャーデビューするなら、もっと一般受けするわかりやすい歌を作らなければ、とレコード会社に言われて、メインの曲は新しく作った。それぞれ、上京の準備で忙しいのに、時間を作って誰かの家や喫茶店に集まり、話し合いを重ねてきたのだ。
睡眠時間は削られたし、意見がぶつかりあうこともあって疲れたが、より絆が深まったような気もしている。これなら、上京していろいろ困難に出会っても、仲よく乗り切っていけそうだ。
東京に行くということで、バイトも退職の手続きをし、引継ぎをした。メジャーデビューできるかもと話したら、店長は自分のことのように喜んで、「向こうでがんばって」と、送別会を開いてくれた。親も期待しているようだし、友人たちも背中を押してくれる。上京が決まってから、いろんな人に電話して知らせたが、まだかけていない人はいないだろうか。浮かれてすっかり忘れていた、なんて失礼なことにならないようにしたい。
ケータイのアドレス帳をめくっていたら、着信が入ってケータイが震えた。画面には「六抹」と表示されている。また、曲に手を加える必要が出てきたのだろうか。
「もしもし?」
「あ、アリス? 今、大丈夫かな」
「うん。また、どっかで集まるの?」
尋ねたアリスに、六抹はすぐには答えなかった。ごく、と一度唾液を飲む音と、息を吐く音が受話器越しに聞こえる。
「どうかした?」
「あ、ううん。みんなで話し合いたいことがあるからって……。五時に、コトリくんの家に来てくれる?」
「分かった。ところで六抹、何か様子ヘンだけど、何かあった?」
「べつに。何でもないから。じゃあ」
ごまかすように早口になって、彼はぷつりと電話を切ってしまった。
アリスは首をかしげて、ケータイを、楽譜とともに鞄にしまう。
(どっか調子悪いのかな)
大きな用事の前には、緊張しておなかを壊すことが多い六抹が、心配だった。
(まぁ、二時間後には会うし)
何があったかなんて、会えば分かることだ。バンドを組んだときに、お互い隠し事はしないと、決めたのだから。
二時間後、四人が集合したコトリの部屋には、重苦しい空気が満ちていた。アリスが入ったときには、三人はすでにそろっていて、深刻な表情でうつむいていたから、何かあったのだということはすぐに分かった。待ち合わせにはいつも遅刻してくるユースKまで、アリスより先に来ているのが、不吉な予感をかき立てた。
アリスはとりあえず挨拶して、あいているスペースに腰を下ろす。
この間来たときは、部屋のすみに段ボールが積まれていたのだが、それはすでになくなっていて、すっきりと片付いたコトリの部屋は、以前よりも広く見えた。
「このへんにあった箱とか、他のとこに移したの?」
ウーロン茶を入れてくれるコトリに尋ねたら、「んー」と、歯切れの悪い答えが返ってきた。
「もう、東京送ったんだよ」
代わりに、ユースKが横から口を挟む。
「え、みんないっしょの日にやろうって……」
「だから、俺らのはもうぜんぶ送った」
それがどういうことなのか、聡明なアリスにも、瞬時には理解できなかった。いや、思いついたとしても、即座に否定していただろう。そんなことが起こるのは、まったくの想定外だったから。
コトリは、自分の口から説明するのがいやなのか、口唇を結んでよそを向いている。
「アリス、ごめん」
沈黙を破って謝ったのは、六抹だった。
「東京行くのさ、アリスだけ、はずれてもらうってことになった」
泣きそうな顔をしている。
「……どういうことだよ」
「何か、ブリリアントクールレコーズの社長さんの息子が、キーボードすげーうまいんだってよ。で、うちからデビューさせてやるから、アリスの代わりに息子入れろって、言われて」
ユースKのぶっきらぼうな説明に対し、「何だよ、それ」と胸ぐらを掴んで問い詰める熱さがあれば、やり直せたかもしれなかった。理不尽な決定を、撤回させられたかもしれなかった。
けれど、今のアリスは、ただからっぽな藁人形みたいになっていて、彼らの謝罪も言い訳も、雨のように鼓膜を過ぎていくだけだった。
「俺らだって最初驚いたし、できるわけがないから、断ったんだよ。絆を断たれるくらいなら、デビューできなくたっていいって。でも……」
「僕たち、ずっと地元にいたって、この先どうなるかわからないじゃない。仕事だって不安定なままだしさ。東京の音楽関係の人が来てくれることなんて、めったにないし」
「アリスのことは、これからも上に意見してみるから。売れたらきっと、こっちのわがままも、通るようになると思う」
何と言われたって、現実はもう揺らがないのだから、意味がない。
彼らは結局、アリスよりも自分たちの未来を選んだのだ。最後まで聞かず、「さよなら」も言わないで、アリスは席を立ち、コトリの部屋を後にした。もう二度と、訪れることはないに違いなかった。
音楽の世界では、よくあることだ。メジャーデビューに向けて、ルックスや実力、将来性を考えた際に、メンバーが入れ替えられたり、事務所などの大人の事情を聞き入れるはめになることは。
その手のいざこざを、耳にしたこともないわけではないアリスだが、まさか自分が取り残される側になるとは思っていなかった。
(なんて……)
茶番だ、とアリスは思った。
ずっといっしょだとか、隠し事はしないとか、誓い合った日の自分がバカみたいで、帰り道、壊れたように肩を小さく震わせて笑っていた。
今まで出したこともないスピードでバイクを走らせ、泣いているのか笑っているのか分からないような顔で、涙を流していた。目の前の世界が塩辛く潤んで、自分がどこへ向かっているのかも、よく分からなかった。
「で? そんな顔で、何しに来たの?」
連絡もせず訪れたアリスを、マリエは不機嫌な顔で迎え入れた。別れの挨拶にしてはまだ早いし、と訝っているのだろう。
いつもならもっときつい言葉を浴びせるマリエだが、冷静なアリスの顔が涙でぐちゃぐちゃになっているのを見て、ただごとではないと悟ったらしい。
「何があったか早く言いなさい」
命令形で急かされて、アリスは、ぼそぼそと話し始めた。ユキは外出しているそうで、まだ帰ってきていなかった。
「ふうん。じゃあ、東京へは行かないのね」
アリスに起こったことをぜんぶ聞き終えたマリエは、なぜか少しほっとしたような顔をしていた。
「ぶざまですか、今の僕」
笑ってくれていいですよ、とアリスは涙声でひねくれたことを口にする。
「心配しなくても、いつもそんな顔よ」
マリエはあっさり言って、洗面所のほうへ消えた。
無関係な他人からしたら、今回の件もどうってことないのだろうな、とソファに残されたアリスは額を押さえる。
(泣いたりしてバカみたいだ)
本当はもっと激しく泣きわめきたいくらい傷ついているけれど、自分を外側から冷静に見る癖がある彼は、こんなときでも感情を抑えてしまう。
「はい、これ」
やがて、スリッパの足音高く戻ってきたマリエは、アリスにタオルを差し出した。熱湯に浸して、うんと熱くしたやつらしく、湯気がたっている。
「これでそのみっともない顔、拭いて」
「ありがとうございます……」
アリスは、タオルを受け取って、型をとるように顔を押しつけた。蒸しタオルは美容に効果があると聞いて、ニキビのあった中学生時代は毎朝やっていた記憶がある。
熱い湯に手をつけるときのことを思い出すと、それをわざわざ自分のためにやってくれたマリエの優しさがしみるようで、アリスはまた、泣きそうになった。その感傷も、徐々にぬるくなっていくタオルがすべて吸い込んでいく。
これまでずっと、便利な奴隷として扱われてきて、自分もそれに甘んじていたが、マリエの中では、もっと大きな意味を持っていたのかもしれない、と改めて二人の関係を振り返っていたら、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま。姫、いいのがこれしかなかったんだけど……」
部屋に入ってきたユキは、ソファでタオルに顔をうずめているアリスを見て、驚いたようにまばたきする。東京行きの準備で忙しいのではなかったのか、と言いたいのだろう。
「こんばんは」
まだ腫れている目蓋が恥ずかしくて、アリスは、少しよそを向いて挨拶した。
「やめたのよ、東京行くの」
マリエが代わりに、ひとこと言った。
「そう……」
ユキはあまりくわしく尋ねようとはせず、手にしていた雑誌をテーブルに置いた。「萩・津和野」と大きく書かれたガイドブックだった。
「旅行ですか?」
アリスは、だいぶ元どおりになってきた声で尋ねる。
「うん。姫が、歴史を感じるようなところに行きたいって言うから」
旅費は、ユキが出すらしい。彼女も順調に、召使いとしての道を歩んでいる。
ここに残ってももう、自分の居場所はないな、とアリスはふいに寂しくなった。バイトもやめてしまったし、信頼していた仲間は、一気に三人とも失った。夕方のやりとりを思い出すと、消火したはずの炎がまた燃え上がるように、涙が復活しそうになる。
「アナタもいっしょに来ていいわよ」
ぼうっとしていたせいで、ふいにかけられた言葉が理解できなかった。
無言で顔を上げたら、いつもと違う顔でこちらを見ているマリエと目が合った。それはほんの一瞬で、相手が先に、ふんと顔をそむける。アリスに何かを読みとられたことに気づいて、照れているようだった。
「旅行、ついてきてもいいって言ってるの。もちろん、お金は自分で出してよ。私、萩焼きとか、重たいもの買おうと思ってるから、荷物持つ人が必要でしょ」
「そうだね。それに、観光は自転車で回る予定だから、アリスくんが姫を後ろに乗せてこいであげたら」
マリエもユキも、傷心のアリスに向かってまったく遠慮なしだ。
(ずいぶん勝手なこと言うなぁ)
苦笑しながらも、今の彼にはそのほうがありがたかった。
「はいはい、どこにでもついて行きますよ」
すねたように言ったアリスは、すっかり元気になったわけではなかったけれど、微笑できるくらいの余裕は取り戻していた。
マリエがいてくれたおかげで、明日からもここで生きていく理由ができ、プライドが保たれたのだ。
幼いころから今までずっと、彼女のことをかわいそうな姫君だと思ってきたけれど、奴隷役を務める自分のほうが、依存の比率は高かったのかもしれない。空想遊びの外のリアルな世界では、小さな革命なんて何度だって起こるし、上下はいつひっくり返るか分からないのだ。アリスが絶対的なものと信じて寄りかかっていた、キャンベルでの地位も、あっさり奪われてしまった。
世の中のほとんどが不確かなものだというのなら、せめて、自分が壊れそうになったときのよりどころくらいはこの手で守りたい。世間は、大人になれない「自称・お姫様」なんて、バカにして認めないだろうが、アリスはいつまでも、彼女にお姫様のままでいてもらいたい、と初めて思った。奴隷としてこの先も彼女に仕え、居場所を確保するための、利己的な願いごとだったかもしれないけれど。
「私のために生きなさいよ」
少しの思いやりが込められたマリエの命令のおかげで、アリスはこの先も、必要とされているという自信を持って生きられそうだった。
「え? じゃあ、ぎりぎりになってアリスだけはずされたってこと? みんな、今日まで黙ってたって……何だよ、それ。ずいぶん薄情じゃん!」
薄いケータイの向こう側で、まるで自分のことのように憤っている声が響いている。
マツルに電話して、正解だった。事情を理解した上でこんなふうに激怒してくれる人に、聴いてもらいたかったのだ。彼女ならきっと、アリスを置いていったりはしないだろう。
「でも、しかたないんです。そうしないとデビューできなかったんだから。もう、口もききたくないですけどね」
マリエの家を後にして、自分の家に帰り着く前に、アリスはマツルに今日のことを伝えた。
精一杯落ち着いた声で話しているつもりなのに、震えているのが自分でも分かる。それなりに要領よく生きてきたので、こんな不意打ちに遭うのは初めてだった。帰宅して家族に顔を合わせ、事情を話すことを思うと。気が重い。挫折して東京から戻ってきた日のマツルの気持ちが、少し分かったような気がした。
んー、と少し考え込んでから、電話の向こうでマツルが言う。
「まぁ、あんまり思い詰めるなよ。また近いうち、あたしが拾ってやるからさ」
「え?」
突然の意外な言葉に、沈み込んでいた意識が一気に浮上した。
「それって……」
「うん、またバンド組もうと思ってて。地元(ここ)で。明日博や誠司さんには、忙しいからって断られたけど、貴空はやるって。それで、またいちからメジャーめざそうと思うんだけど、どう?」
「……やります。僕も、入れてください」
音楽に関しては、もう二度と音符も見たくないくらいドン底の気分だったのに、少し元気が出てきた。彼女といっしょなら、何でもできるような気がする。仲間に裏切られてもやはり、信じてきたこの道をあきらめたくはなかった。
「お互い、見返してやろうよ。あたしたちをコケにした奴らをさ」
「はい」
うなずくけれど、そんなことはきっと、すぐに忘れてしまうだろう。もっと大きな目標が現れて、ちっぽけな痛みなどかき消してくれるだろうから。
(大丈夫……)
この街にはまだちゃんと、アリスの居場所が残っている。
マツルとの電話を終えた後、ケータイのアドレス帳から、キャンベルのメンバーの登録を削除しようとして、アリスは思いとどまった。彼らが東京で行き詰まり、電話をかけてきたときに、ここで受けとめる役がいてもいいかと思ったのだ。我ながらどうしようもうなくお人よしだ、と笑いたくなるけれど。
(そのときまでに、僕はもっと、誇れる何かになっていよう)
この世のあれこれは茶番だけど、ときどき、真剣な役柄だって回ってくる。熱いお茶が冷めるまで見張っているだけの役だって、「自称・お姫様」の召使いだって、見方によっちゃ重要じゃないか。
アリスは、バイクにまたがり、穏やかなスピードで、深夜の街へ再び走り出した。頼れる人がいるこの街にいるかぎり、なにがあっても何とかなるような気がしていた。
終
茶番の国のアリスと城跡の女王 池崎心渉って書いていけざきあいる☆ @reisaab
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