花嵐烏有

ゴルゴタ



――自称画家、磔刑死【1日ベルリン】30日午後ベルリン郊外の病院の庭で、五十六歳になる画家を自称する男が十字架に手足をたがねで固定され、槍で突かれて死ぬという、何とも猟奇的な事件が起こった。現場となった敷地内では、患者と職員が十字架を取り囲み、看護婦長を務める三十三歳の女が槍を手に呆然と佇んでいた。日頃から出入りのあった薬剤業者の通報で駆付けた警官が問い質したところ、女は犯行を認めたものの、死はあくまで本人の意志と主張。現在、事件時に彼女が正常な判断力を有していたか、専門家が鑑定に当たっている。


                 *


 ええ、仰る通り、彼の死後、相次いで起こった職員や患者さんたちの変死・発狂は、決して彼の呪いなんかじゃありません。でも、あの当時、あなた方は根も葉もないことを散々書き立てていたじゃないですか──お医者さんごっこがエスカレートしたとか、睾丸が切り取られて一個しかなかったとか、彼が実は悪魔と契約していたとか。尤も、最近では、敢えて大衆の愚かさを煽ることにも、何か意味があるのかもしれないと考えるようになりました……。それで、何から、お話ししたものでしょう?

 そうですね、彼と初めて遭ったのは、私が勤めていた病院に彼が急患として担ぎ込まれて来たときで、何でも、酒場で政治論争に巻き込まれた挙げ句、眼尻を刃物で切り付けられたとかで、一時は、自分は失明するのかと大変な取り乱し様でした。

 いえ、その頃は、決まった住居すまいは持たず、画家を目指して、あちこち写生旅行に明け暮れていたそうです。幸い、怪我のほうは十日程の軽傷で済み、後遺症の心配もないと聞くと、すっかり安堵したのか、彼は周辺の佇まいが気に入ったので、僅かの期間でも構わないから病院で厄介になりたいと云い出しました。

 ええ、特に断る理由はありませんでしたから……。そうして、入院すると直ぐ、彼は或る敬虔な患者さんと親しくなり、神や救世主について互いに熱心に語り合っていました。ですが、数日後、相手の方は容体が急変し、結局、不帰の客となりました。共に親しく語らった相手が、えんえんと疼痛にさいなまれながら死んで往くサマを、ただ呆然と見ているしかなかったことは、彼に相当なショックをもたらしたようで、院長せんせいが制止するのも聞かず、まるで急に何かに取り憑かれたみたいに一心に創作に取り掛かり、数日後、絵が完成すると――。

 いえ、生憎、私も含め、誰にも見せようとはしませんでした。でも、彼が言うには、神から啓示があったとかで、闘病患者たちの苦痛を如何に緩和するかということを篤と私に話して聞かせ、そう云えば、創作中、幽鬼のような彼から、幾つか医学的な質問を受けたと思い当たりました……。ですが、正直なところ、私には、彼の考えを、果たしてどこまで正確に伝えられるか、また、そもそも理解される類いのものなのか、甚だ疑問でならないのです……。

 それは、そうですが……。彼がまず最初に考えたのは、人間と動物を隔てるものは何かということでした。動物は本能という自然に身を委ね、種の保存に尽くしますが、一方、人間は互いに積極的に殺し合う――つまり、人間の意識においては、種全体の精神を超越して、個の境界がハッキリと確立されており、これは、自然界では稀な共食いという現象が、人間に飼い馴らされた動物には、比較的容易に観られることからも判ります。では、斯くもあからさまに人間の意識を分立せしめているものは何か――彼は今度は痛覚に注目したのです。人間は、他の動物と比較して、呆気ないほど簡単に死に至りますが、実は、そうした極めて発達した神経叢に依る痛覚の多寡こそ、自我境界を明確にし、ひいては人類を万物の霊長たらしめている要因ではないかと考えたのです。まさしく、人間は苦痛に魅入られた存在であって、それが証拠に、自らの傷痕を他人ひとにひけらかし、如何に痛い思いをしたか得々と語るものだと指摘していましたし、また、ナザレ人にさえ神の理不尽を問う自己愛を呼び起こさせた死の痛苦が、しかし同時に、他者への愛や共感を生んできたことも、歴史上証明されてきた事実でしょう。彼は言っていました――いつの日にか、人間が、個でありながら同時に個を超越した超人に進化するときがくるとすれば、そうした変革のためには、精神的・肉体的苦痛が全階層に及び、同時に、意識の全体的躍動なくしては決して立ち行かない最終戦争のようなものが必要とされるだろうと。尤も、意識が集合性を獲得することが、果たして本当に進化なのかというと、彼にももうひとつ確信が持てないようでした。一なる意識が多なる意識へと拡散し、やがて再び一なる意識へと収斂してゆく――それは、神の心臓が鼓動するに過ぎないのかもしれないとも……。幾分、話が脱線したでしょうか。とまれ、彼が懸念したのは、あくまで闘病患者たちの苦痛の緩和であって、いま申しましたように、戦争のような極限情況で、人が比較的いさぎよく死を覚悟できるのは、個の境界が取り払われ、ちょうど或る種の昆虫のように意識が集合的になっているからで、とすれば、個を形成する境界が曖昧になれば、それだけ病苦も軽減されるのでは結論したのです。例えば、医学的に完全に見捨てられた病人が、それこそ信仰に縋って回復するような場合が間々きかれますが、これなど同種の極端な例かもしれません。そこで、彼は、病院全体を一個の有機的組織体と化すプランを立て、モチーフとしてワーグナーが採用されました。彼は音楽にも造詣が深く、とりわけワーグナーの熱烈な崇拝者で、毎年バイロイトを訪れていましたし、このプラン自体も『地霊エルデガイストのリング』などと呼んで、ヤケにはしゃいでいました。何分、変に子供っぽい熱中癖のあるひとでしたから。

 院長せんせい? その頃には、もう完璧に骨抜きでした。不思議なことに、彼の碧く澄んだ眼を見ていると、何だか催眠術にでも罹けられたようで、誰も逆らえなくなるのです……。彼が最初に手掛けたのは、意識の全体化を妨げるような書物を病院から一掃することでした。

 ええ、仰る通り、かなり強引な遣り方ではありましたが、しかし、彼が寝食すら顧みず、自ら先頭に立って尽力したのは、否定できない事実なのです。もし疑っておいでなら、当時職員や患者さんだった方の御家族にでも訊いてみて下さい、彼が如何に熱心だったか、みなさんく御存知です。正直、はたで見ていて、涙ぐましいほどでした、何せ、ひどく生真面目で、直ぐ思い詰めてしまうくせに、まるで修道士みたいに克己的なひとでしたから。しかし、効果は目に見えて上がり、他の病院であと一カ月と診断された方が、私たちの許では一年以上存命されることもザラでしたし、或る患者さんなど、完全に治癒されてベルリン五輪にも出場されたぐらいです。私も彼に連れられ、開会式を見物に出掛けましたが、大衆の余りの狂騒ぶりに、彼の言う通り、人間は誰しも心の奥底に唯一なる存在への回帰を乞う熱狂を秘めているのではと考えるようになりました……。ところが、皮肉なことに、病魔はいつしか彼自身の肉体を蝕んで、気が付いたときには、既に手の施しようのないところまで進行していたのです。彼は、もはや自分の余命が幾許もないと知ると、自らの死を何とか私たちの魂に痛烈に焼き付けんと思案し、また、そうした存在たるには如何なる激痛にも打ち克たねばならないと主張して、一切の治療を拒みました。その頃になると、もう幾らか狂気に取り憑かれていたのかもしれません、何せ、人間があらゆる苦痛から解放される未来のため、自分はその礎となるのだと公言して憚らない始末でしたから。

 そうです、彼は、自らの生命を、病院という有機的社会組織体を統轄する表象イコンに昇華するため、ああいった特殊なかたちで、死を選んだのです、私を刑吏に任じて……。

 ええ、そうよ、私、ずっと彼を愛していた、だのに、丸っきりの滅私奉公、だから、彼を烈しく憎んだ、そうして、彼が十字架の上で苦痛に喘ぐとき、私はこの上もない悦びに奮え、直ぐには死なないよう入念に加減した、だって、少しでも永く苦しみもがかせて遣りたかったから……。いつしか、それは異常な闘争へと変容していました。私は何とか彼を屈服させ、慈悲深い迅速な死を乞う言葉を引き出そうと執拗に責め立て……、まさしく聖ロンギヌスとは正反対、私は罪悪の女……。でも、彼、「ecce egoこのわたしをみよ」とは言っても、決して神を呪ったりはしなかった……。結局、果てしない苦痛の涯、彼は満足して死に、私は敗北したと信じました。しかし、翌日、彼の部屋から例の絵が発見され、警察の方が見せてくれたのです――恍惚たる表情で十字架に掲げられた救世主、そして槍を携える女……。それを見た瞬間、私は悟りました、彼も私を愛していて、だからこそ私を刑吏に仕立てたのだと。報われぬ愛に狂った女は男を執拗になぶり、その行為によって、人々の魂には無惨にも崇高なる男の死にザマが刻印されるのだと……。

 いいえ、自惚れなんかじゃない、だって、その瞬間、私たちは互いに愛し合う敵同士だったんだから……。とまれ、私の精神は崩壊したらしく、今はこうして幽閉された状態で生き長らえています……。ところで、その後、職員や患者さんたちの身に生じた一連の変事ですが、実は、彼のプランは、彼が意図したよりも遥かに完全に機能していたのです――つまり、組織を一個の有機体に見立てるなら、例えば人体における頭蓋部ゴルゴタとも言える総統的存在が失われた以上、他の如何なる諸器官も、程なく、速やかに、朽ち果てて往くしかなかったのです……。


<了>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花嵐烏有 @plumalion

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る