掌
花嵐烏有
ゴルゴタ
――自称画家、磔刑死【1日ベルリン】30日午後ベルリン郊外の病院の庭で、五十六歳になる画家を自称する男が十字架に手足を
*
ええ、仰る通り、彼の死後、相次いで起こった職員や患者さんたちの変死・発狂は、決して彼の呪いなんかじゃありません。でも、あの当時、あなた方は根も葉もないことを散々書き立てていたじゃないですか──お医者さんごっこがエスカレートしたとか、睾丸が切り取られて一個しかなかったとか、彼が実は悪魔と契約していたとか。尤も、最近では、敢えて大衆の愚かさを煽ることにも、何か意味があるのかもしれないと考えるようになりました……。それで、何から、お話ししたものでしょう?
そうですね、彼と初めて遭ったのは、私が勤めていた病院に彼が急患として担ぎ込まれて来たときで、何でも、酒場で政治論争に巻き込まれた挙げ句、眼尻を刃物で切り付けられたとかで、一時は、自分は失明するのかと大変な取り乱し様でした。
いえ、その頃は、決まった
ええ、特に断る理由はありませんでしたから……。そうして、入院すると直ぐ、彼は或る敬虔な患者さんと親しくなり、神や救世主について互いに熱心に語り合っていました。ですが、数日後、相手の方は容体が急変し、結局、不帰の客となりました。共に親しく語らった相手が、えんえんと疼痛に
いえ、生憎、私も含め、誰にも見せようとはしませんでした。でも、彼が言うには、神から啓示があったとかで、闘病患者たちの苦痛を如何に緩和するかということを篤と私に話して聞かせ、そう云えば、創作中、幽鬼のような彼から、幾つか医学的な質問を受けたと思い当たりました……。ですが、正直なところ、私には、彼の考えを、果たしてどこまで正確に伝えられるか、また、そもそも理解される類いのものなのか、甚だ疑問でならないのです……。
それは、そうですが……。彼がまず最初に考えたのは、人間と動物を隔てるものは何かということでした。動物は本能という自然に身を委ね、種の保存に尽くしますが、一方、人間は互いに積極的に殺し合う――つまり、人間の意識においては、種全体の精神を超越して、個の境界がハッキリと確立されており、これは、自然界では稀な共食いという現象が、人間に飼い馴らされた動物には、比較的容易に観られることからも判ります。では、斯くもあからさまに人間の意識を分立せしめているものは何か――彼は今度は痛覚に注目したのです。人間は、他の動物と比較して、呆気ないほど簡単に死に至りますが、実は、そうした極めて発達した神経叢に依る痛覚の多寡こそ、自我境界を明確にし、ひいては人類を万物の霊長たらしめている要因ではないかと考えたのです。まさしく、人間は苦痛に魅入られた存在であって、それが証拠に、自らの傷痕を
ええ、仰る通り、かなり強引な遣り方ではありましたが、しかし、彼が寝食すら顧みず、自ら先頭に立って尽力したのは、否定できない事実なのです。もし疑っておいでなら、当時職員や患者さんだった方の御家族にでも訊いてみて下さい、彼が如何に熱心だったか、みなさん
そうです、彼は、自らの生命を、病院という有機的社会組織体を統轄する
ええ、そうよ、私、ずっと彼を愛していた、だのに、丸っきりの滅私奉公、だから、彼を烈しく憎んだ、そうして、彼が十字架の上で苦痛に喘ぐとき、私はこの上もない悦びに奮え、直ぐには死なないよう入念に加減した、だって、少しでも永く苦しみもがかせて遣りたかったから……。いつしか、それは異常な闘争へと変容していました。私は何とか彼を屈服させ、慈悲深い迅速な死を乞う言葉を引き出そうと執拗に責め立て……、まさしく聖ロンギヌスとは正反対、私は罪悪の女……。でも、彼、「
いいえ、自惚れなんかじゃない、だって、その瞬間、私たちは互いに愛し合う敵同士だったんだから……。とまれ、私の精神は崩壊したらしく、今はこうして幽閉された状態で生き長らえています……。ところで、その後、職員や患者さんたちの身に生じた一連の変事ですが、実は、彼のプランは、彼が意図したよりも遥かに完全に機能していたのです――つまり、組織を一個の有機体に見立てるなら、例えば人体における
<了>
掌 花嵐烏有 @plumalion
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