第6話 愉快にして鬼神のごとし
昭和七年三月○日
まだ、冬の寒さが残る日であった。
毎日新聞の徳富蘇峰が紹介した記者が、初めて大隈重信の娘であるクマコの居宅を訪れた日である。
彼女の居宅は早稲田の大隈亭の一角にあった。
十年ほど前に重信も妻の綾子も死去していた。クマコは明治十三年十七歳の時に南部藩主の二男英麿を婿養子に迎えたが、二人の間に子はなかった。明治三十五年の一九〇二年に英麿が保証人になり多額の負債を背負ったことで、英麿自らが大隈家に迷惑をかけることを避け、大隈家を去った。その後、大隈家の家督は旧平戸藩主松浦詮の子である信常を養子に迎え譲られていた。
クマコは文久三年の一八六三年に重信の娘として佐賀に生まれたが、すでに七十才に手が届こうとする年齢であった。
クマコは父親に似て気転のきき、会話の受け応えに定評があり、多くの人から慕われる女性であった。
当時、記者は三十歳を過ぎたばかり若者である。徳富蘇峰から大隈重信の人間像について聞き、記録するように指示されたのである。
記者は早稲田大学を卒業していたが、品の良い小さな老女の前で挨拶もできぬほど緊張しっていた。
見かねたクマコは、静かに語り始めた。
昨夜は不思議な夢を見ました。この世の人ではない重信が自分の顔を真上から不安気に覗き込んでいるのです。
すでに重信が没して十年は過ぎようとしているが、日比谷公園の「国民葬」には三十万人もの一般市民が参列し、沿道まで弔問客で一杯になった。三週間後に同じ日比谷公園で、長州出身の元老山縣有朋の国葬が行われたが、不人気を反映して政府関係者以外は人影もまばらであった。二人の対照的な葬儀の様子は長く庶民の間で語り草になった。
たたずまいを正し父に挨拶をしようとするが、身体が硬直し動かなかった。まるで現実に父が目の前にいるようだった。
遠い昔に同じ体験をしたことがあった。
佐賀の実母の元を離れ、上京して間もない頃、慣れぬ東京での暮らしに高熱を発し寝込んだことがあったが、その時も父が枕元で不安げに自分の顔をのぞき込んでいた。
明治三十五年に英麿と離縁となり、重信の元に戻ったが、その直後にはチフスを患った。その時も重信は不安げに床に伏した自分の顔を覗き込んでいた。やっと正気に戻ることができたが、微熱のせいでひどい寝汗をかいていましたとクマコは語った。
身体の調子が悪いのではと若い記者は思ったが、彼女の言葉を携行してきたノートにメモした。
彼女は一年後に五月十七にガンで死去するのであるが、すでに病の巣が体内の奥深くに巣くっていたかも知れない。
一息吐くと、クマコは障子の明かり取りガラス窓の外の景色が眺めた。
三週間ほど前のことである。
突然、毎日新聞社の徳富蘇峰から若い記者を寄越すから父の大隈重信について話して聞かせてくれと頼まれたのである。数日間、考えた末に、父のことを語る最後の機会になろうと覚悟を決め、了解したのである。
当然、父のことだけを語ることもできずに、その当時に時代や大隈家の内情も語ることになるはずである。蘇峰の狙いは、それであった。大隈重信は書が苦手で文字を残していないが、口述で多くのことを残している。ただ公的なことが多く、重信の人間性を語るものは少ない。
「上京された時のことを聞かせて頂けませんか」と記者は辛うじて声に出した。
クマコも救われたような気になった。
緊張する自分の姿が、ひどく情けなく思えた。ノートに必死に記録を取る青年の緊張が伝わっているせいかも知れない。健康を害して床に伏せる日が続いたせいで自信を失ったせいか知れない。
とにかくこれまでこのような慌てた不様な姿を人の前で姿を見せたことがなかった。
それでもクマコは語り始めた。
明治四年のことです。九歳になったばかりの頃でした。
すでに六十年ほどが経ちました。
佐賀を離れ、長崎の港からアメリカの汽船に乗り、東京に向かいました。
これが実母との別れになりました。
船の両側の外輪が水車のように回転し進む船が珍しかったことを覚えています。
祖母の三井子と一緒でした。重信の母です。祖母が和食しか食べれないので雑魚寝の三等船室でした。
東京に着くと綾子という女性を紹介され、新しい母だと告げられたのです。
まだ子どもだった私には大人に見えたのですが、私と十三歳違いで二十二歳になったばかりです。
重信が実母の美登と別れた理由を祖母の三井子が話したのは、婿養子を迎える直前の頃です。
一言で言うと美登は重信に愛想を尽かしたのだと言っていました。
明治維新前後のことで、国を変えようする志士たちは東奔西走をした時期です。
父もその一人でした。
アメリカのペリが黒船で日本にやって来た頃に、佐賀で副島種臣の実兄である枝吉神陽と言う始めた義祭同盟に加わり、尊王思想に目覚めたのです。
実母の美登と結婚をしても家庭を振り返ることなく、佐賀と長崎や京都や江戸を東奔西走する生活を送っていたのです。
明治二年に東京に招かれ明治新政府の役人となってからは、綾子と言う女性と東京で暮らすようになっていたのである。
当時に男に普通の生き方だったようです。
祖母の三井子は一人で上京し、父や綾子母さんの姿を見て、実母に離婚を勧め、私を引き取り上京することにしたようです。
上京後は、明治十三年に秀麿を婿養子に迎えた後も重信や母と一緒に暮らしていたと言っても過言ではありません。
クマコが秀麿と名を発するたびに記者は彼女の心にこだわりがあると感じた。話しづらいものを感じているせいかも知れない。
秀麿と言う人物について記者の中にも共有するイメージがあることを伝えたかったので、記者は強引にクマコの話に入った。
「秀麿様がお亡くなりなって、もう二十年ほど経ちます。大隈家を離れられて晩年は故郷で、ひっそりと暮らしを続けたと言うこと。それでも早稲田に理工学部が新設された時には大変な喜びようだった」と。
「ご存知ですか。あの方の最初からの夢でしたから」とクマコは胸につかえていたことが解けたように顔を綻ばせた。
「もちろんです。早稲田の卒業生ですから。秀麿様は早稲田の前身のである東京専門学校の初代校長をされた方ですから」と
蘇峰の紹介でも直には打ち解けることはできなかった。
記者はクマコと秀麿の離婚の事情は記者も蘇峰から聞いていた。
秀麿が友人の保証人になり、多額の借金を背負い、大隈家に迷惑が及ばないように身を引いたのだと言う。後に首相となり平民首相と称せられる元南部藩家老職の原敬が秀麿から相談に持ちかけられた当時の様子を原は日記に書き残していると言うのである。
昭和七年三月○日
若い記者にとって二回目の訪問である。
上京直後の東京での生活を聞きたいと申し出ていた。
父の家は築地に住んでいました。
大名の戸川屋敷跡の五千坪を買い取り、そこに家をかまえたのです。父は当時外務次官と大蔵次官を兼任していましたから相当な収入を得ていたのです。
「築地の梁山泊ですね」
記者は確認した。
「ええ」
とクマコはうなずいた。
維新直後の話であり、六十年前の話であるが、築地の梁山泊については早稲田の卒業生で知らぬ者はいない。伝説的な話にさえなっている。それでも大隈侯と言う人物像が描けないのである。
「どのような方だったのだろうか」と記者は聞き、自問自答した。
クマコも苦笑し、首を傾げて少し考えた。
「とにかく人が好きで、話好きで、豪胆と言うしかありません。梁山泊に集まられる人々の中には素性の怪しい者や、新政府に不平不満を持つ者も多くいました。彼らとうまく付き合うことは普通の人には出来なかったと思います」
記者は梁山泊に集まった人々について聞いた。
長州の伊藤様、井上様、山県様、薩摩の五代様、それに渋沢様、前島様とクマコは主だった者たちの名前を上げた。
毎日、毎晩、梁山泊に居ついて政治の話をしているのです。祖母も母も呆れていました。よくも話すことがあるものだと。でも今、思うと、あの話の中から鉄道や貨幣制度など新しい時代が生まれていったのでしょう。もちろん、先ほども申したとおり、名の知れた方ばかりではありません。荒くれ者たちが江戸での宿を求めて訪れるたこともありました。色恋沙汰で命を失った浪人もいました。土佐弁を話す方も多かったと思います。土佐で地侍と呼ばれた身分の卑しい皆様だったようです。三菱の岩崎弥太郎様も立ち寄ったこともあったはずです。岩崎との関係で薩摩の西郷から、「三菱の番頭さん」と呼ばれたと苦笑していたこともありました。明治四年当時、陸軍の経費をめぐり長州の山県様と山城屋和助との関係が問題化しており、西郷は問題の沈静化にお骨折りの時期です。そのようなことになるなと若い父に釘を刺したのでしょう。
重信は佐賀藩が長崎に設けた藩校致遠館で副島種臣と一緒に副校長をしながら、英語を学んだ時期があったのですが、岩崎たちとはその頃から知り合いだったかも知れません。
「生活費の方は」と記者は聞いた。
当時、政府から破格のお手当を頂いていたとは言え、家計はいつも火の車です。
重信は無頓着で、後始末をするのはいつも若い母上です。
実母が重信に愛想をつかした理由も、この無頓着さにあったはずです。女として賢い道を選んだかも知れません。
祖母の三井子もいつも若い母に謝っていました。
「(大隈家は代々、佐賀藩の中でも砲術を担当する家柄で)、重信も小さいことから父の信保から砲術家に育てるために数学の計算を教えられていた。それがまったく家計の金銭の計算など出来ぬとは情けない」と。でも父の数学の能力はお国のために、ずいぶん役立ったようです。私が上京する二年ほど前の明治二年頃は三十二歳と若かったのですが、重信は薩摩の大久保大蔵卿のもとで日本の財政や貨幣制度の立て直しを担当していたのです。
それまで藩ごとに藩札を出し、経済活動をしていたのを、統一国家としてお金を統一する必要があったのです。その上、各藩とも借金漬けで、借金の後始末も重信の仕事です。円と言う統一貨幣基準を考案したのも父だったのです。その知恵は築地の梁山泊で形成されたものかも知れません。
もう時効でしょうから、三菱との関係を打ち明けます。岩崎様が三菱が創設したのは明治三年のことです。その時の資金は維新直後の混乱に乗じて確保したはずです。父との関わりも否定できなかったかも知れません。
昭和七年三月○○日
三回目の面談。朝から小雨が降っていた。
前日に記者は明治七年の佐賀の乱の頃のことを伺いたいと電話で申し出ていた。
記者は緊張もほぐれ、会話も滑らかになっていくような感触を得ていた。
面談内容や様子を毎日、蘇峰の耳に入れていた。
蘇峰はクマコの反応に驚いた。
クマコと蘇峰は同じ年代である。
これまでの印象とは違うのである。
饒舌すぎると感じた。
だが話すことを決意したが、心中に迷いがあることも事実であろう。まだ記者の話からは父親譲りの切れある他人を飽きさせない話術を感じない。竹を割ったような性格が話す様子からは伺えない。
心の迷い葛藤のせいだろうと感じた。
昨年からの満州を巡る紛争や日本国内が起きる暗殺事件に心が乱れているやも知れぬ。 何らかの対応が必要であると蘇峰は考えた。
神秘主義者でない蘇峰がクマコの変化が夢に現れた重信のお告げのせいなどとは考えるはずもなかった。
「明治七年ですか」と、クマコは少し困ったように繰り返した。
東京に上京して三年ほど後のことです。
築地の梁山泊から有楽町に住まいを移していたと思います。
私も十二歳頃になっていました。
遣欧使節団が帰国して、彼らと国内に残っていた方たちの間で亀裂が生まれのです。
重信は両者の間に感情的な亀裂もあったと見ていたようです。
必要に迫られて国内残留組が明治四年から明治六年の二年間の間に日本の制度を、ほぼ整備し終わってしまったと言っても過言ではありません。
学制、司法、貨幣、外交など国の基本を造ってしまったのです。学制は大木、司法は江藤、貨幣は重信、外交は副島の活躍です。それにロシアとの国境問題では札幌開拓を担当した島の貢献を忘れてはいけません。
遣欧使節団に参加した者には、それが許せなかった。
表面上は新生日本に対し門戸を開こうとせず、日本から送る使者に無礼な態度を取り続ける韓国に対する対応をどうするかと言う問題です。
韓国を討つべしという意見と、日本の国力充実を優先させるべきだいう意見で真っ二つに分かれたと言うのが通説です。
富国強兵が最優先だと主張したのは大久保で、韓国討つべしと主張したのは西郷だと言われています。
でも重信は違うと感じていたようです。
西郷は韓国討伐派と富国強兵優先派の中間に位置していたと言うのです。使者を立て話し会いをすることを主張する中間派が存在したと言うのです。
西郷は自分が韓国に使節として出向き、新生日本に門戸を開くように交渉すれば、話をまとまる信じていたのです。
ところが竹馬の友同志である西郷と大久保が激論し、遂には子どもの喧嘩になってしまった。
そして自分が行って殺される、その後、戦をしたら良かろうと西郷は不本意な言葉を口走ったと言うのです。
それをもともとの韓国討伐論者であった土佐の板垣退助たちが西郷も韓国討伐派だと言いふらした。もちろん板垣の狙いは西郷が韓国討伐論者で味方だと周囲に言いふらすことで、勢力拡大を狙ったのだと。
「大隈侯も下野せず政府に残りましたから、中間派に位置していたのでしょうか」と記者は聞いた。
結果はそうなります。重信は遣欧使節団には参加しませんでしたが、大久保と関係も深く富国強兵派に与し、明治政府に残ることを決めたようです。佐賀の皆様も多くは国内に残った方々で下野してしまいます。佐賀の乱で首謀者として処刑をされた江藤新平も、そのお一人でした。佐賀での戦の様子を詳しくは話す立場ではありません。ただ東京に残った重信や副島、大木たちの様子は知っています。
重信はひどく後悔していました。
理由の一つは遣欧使節団派遣の提議を行ったのは重信だったことです。長期の西欧への派遣が新政府が二つに割れて争う原因となったと思ったのです。遣欧使節団派遣が実現することが決まった時には自分も行くと大変な喜びようでしたが、結局、留守番として残ることになったのですが、その時も大変な落ち込みかたでした。明治四年に佐賀藩の前藩主の直正様がお亡くなり、新政府で仕事をしている佐賀藩出身者は大きな痛手を受けたのですが、重信が遣欧使節団から外されたことも、そのせいかも知れません。
次に佐賀県令の人事のことです。
明治七年当初は佐賀県令は土佐藩の岩村道俊と言う方でした。
人格も温和な方で問題が多かった佐賀藩も、うまく収めていたのです。
ところが道俊は富国強兵のためには必要だから中央に戻すように大久保卿に重信が推挙したのです。
大久保はそれを聞き入れ、岩村道俊を明治政府の中央に工部省に迎えることにしたのですが、道俊は自分の後任に実弟の岩村高俊と言う人物を佐賀県令にするようにと推挙したのです。
重信は高俊と言う人物の評判について、事件が起きてから知った様子でした。
高俊と言う方は戊辰戦争で長岡藩攻めに参加した時に長岡藩の家老河井継之助が和睦の申し出てきたのを拒絶し、長岡藩を追い詰め、ひいては北越戦争を起こさせた男であると言う評判でした。
それを聞いた時には、すでに時遅しです。
噂とおり大久保は佐賀に火を付け、乱を起こさせようと考えて人事を画策したのかも知れません。若い重信に謀略の片棒を担ぐ役割を担わしたかも知れません。討たれた佐賀に日本国中の同情が集まり騒ぎが大きくならないように用意をしていたのかも知れません。
当時、内務卿の大久保は一刻も早く国内の不穏な動きを抑えたかったのです。放置しておけば新政府崩壊の原因ともならないと判断したのです。特に徴兵令に対する反応は大きく、新政府は農民の血を吸い取り外国に売ろうとしていると言う、あり得ないデマが広がり、大きな騒乱が起きていました。もともと開国や不平等条約のせいで生活は苦しく国中が混乱している時代です。
まず不穏な佐賀藩に火をつけ、反乱を起こさせ鎮圧し、見せしめにすると考えたのかも知れません。
記者は口を挟んだ。
「御父上は江藤家のことを終生、気にかけておられたようですが」
「賊軍になると収入も途絶えてしまうのです。江藤家も大変な時期でした」
「当時のことで、その他に印象に残っていることありませんか」と記者は聞いた。
同郷の副島様と大木様がすごい剣幕で訪れて来たことがありました。
四月十四日だったと思います。
まだ桜もつぼみの時期でした。
江藤と島が斬首されたと言う報せが九州から電信で届いた後です。すでに長崎と東京は電信で結ばれており、その最初の電信が佐賀の乱の勃発を報せたのですが、今度、江藤と島の斬首を伝えてきたのです。
家族は二人が家に駆けつけて来た理由を、重信を責めにきたと慌てました。
ところが、二人とも自分の落ち度を責めているのです。副島は佐賀の騒動を鎮めるために右大臣の三条公が島を派遣するのを止め得なかったことを悔い、大木は江藤が横浜の港から船出する間に合わなかったことを悔いていました。
維新前から兄弟同然の付き合いをしていましたか。みんな、元々、義祭同盟に参加したことから尊王思想に目覚めたのです。
江藤と大隈の関係が、西郷と大久保の関係に似ていると記者は感じた。
昭和七年四月○○日
その日から蘇峰の計らいで、女性記者が初めて同行をするようになった。もちろん蘇峰はクマコの同意を得ていた。蘇峰が選んだ若い女性記者である。若いと言っても三十を過ぎた雑誌社の記者であった。記者からクマコの反応を聞き、思い付いたのが女性記者の同行であった。
クマコの健康状態が優れないことも見抜いた。
七十歳と言うと高齢である。
いつ変事が起きても不思議でない。その前に女性記者にクマコを観察させておくことも無駄ではあるまいと考えた。
クマコは女性が新聞社で働けるような社会になったと素直に喜んだ。
記者は江藤や大木、大隈、副島の人間関係について聞こうと思った。
大隈侯も生前に話しているが、クマコの言葉で聞くことも意味があると感じたのである。
祖母の三枝子と大木の母親は姉妹同士で大木と重信は従兄同志になります。
江藤は身分の低い出身で親戚関係はなかったようです。ところが身分が違う二人がいつも行動を共にしていたようです。
他藩ではあり得ないことだったでしょう。
義祭同盟を通じての付き合い、それから藩主直正公が進めた能力のある者は身分を問わず登用すると言う藩の教育方針のお陰だったと言っていました。ほかに重信は面白いことを言っていました。二人を結びつけたのは、二人が身に着けていた奇妙な服のせいだと言うのです。実は少年時代の大木は母親から商家の番頭のような派手な袴を着せられて裾を引きづり歩き、城下では番頭さんと呼ばれてからかわれていたと言うことです。
一方、家が貧乏な江藤は、いつもつぎはぎだらけの袴を身につけて、藩の女子は、それをからかったと言うのです。そのせいで二人は親友になったと言うのです。
幕末の佐賀藩では直正の指導で倒幕運動は一切出来ませんでした。その禁を最初に破り、行動したのは江藤です。一八六二年の文久二年に薩摩の島津久光が兵を動員し京都に上ったことで、いよいよ攘夷だと天下が騒然としたのですが、江藤その年に脱藩し、京都の長州藩邸に桂小五郎を訊ねたのです。江藤の京都までの大金の旅費は大木が用意したようです。半年後には江藤は金子も尽き、藩に連れ戻されたのですが、死罪になることは直正公のご英断で免れ、四年間もの長い間、天山と言う山の麓の寒村で蟄居生活を強いられたのです。
ところがそのことについても、重信は、すべて直正公が仕組んだものに違いないと言っていました。江藤は直正公の懐刀で密偵だったとも言っていました。西郷が島津斉彬公の懐刀であったように、江藤が直正公の懐刀だったかも知れません。当時、どこの大名も身分の低いが見所のある若者を懐刀にしていたのかも知れません。
「お殿様の間の流行ですか」
クマコの話に目を輝かして聞いていた、女性記者が思わず口を滑らせた。
記者が驚いたが、止める余裕などなかった。
クマコは笑った。
「面白いことを言うお嬢様ね」
女性記者はぺこりと頭を下げ、畳みに目を落した。
「大名の間の流行。そうかも知れないわね。ペリが日本にやって来た頃から、日本中が大騒ぎになり、知恵を出し合い、話し合っていたようですから」
江藤に比べて大木は一見、おっとりと、おとなしく見えたのですが、とにかく腕ぷしが強く、怒ると一変し、喧嘩の時は数名を相手にしても負けない方だったと言うことです。
それぞれのご功績は資料があるはずですと言い、クマコは若い女性記者の様子を一瞥した。
蘇峰が普通の女性を寄越すとはクマコには思えなかったのである。
明治七年は佐賀藩出身者にとって大変な悲しい時期でした。でもそれから僅か三年後の明治十年には薩摩の西郷が西南の役で死に、それから半年後の明治十一年の五月には大久保も東京の紀尾井坂で非業の死を遂げてしまったのです。
歴史の皮肉と言おうか悲劇と言おうか。
副島や島については重信も年が離れていて、家では話をすることは少なかったとクマコは言葉を切った。
クマコの言葉に疲れが滲んでいた。
昭和七年四月○日
明治十四年の政変のことを聞きたいと申し出た。
クマコが英麿を婿養子に迎えた翌年のことである。明治十四年の政変は彼女にとっても大事件であった。
左大臣の岩倉具視は憲法制定や議会開設について重信たち参議に意見書を出すように求めた。伊藤と井上は岩倉が望みそうな温和な意見を提出しました。ところが重信は再三の催促にも提出をしない様子でした。重信は大きなことを考えている様子は分かりました。
重信は明治七年の政変のことを忘れはいませんでした。憲法制定や議会開設を江藤の遺言とも思っていたようです。
決起を促したのは慶応義塾の福沢諭吉である。その頃には、福沢も慶応義塾関係の多くの方が家にお立ち寄りなりました。
明治十四年の春、重信は突然、行動したのです。
意見書を左大臣岩倉具視様にではなく、岩倉の上司である有栖川宮熾仁親王に密奏と言う形で提出したのです。
頭ごなしに意見書を出された岩倉も面白くありません。内容も過激で憲法公布と国会開設を二年後にと主張したのです。
数か月後に重信の行動や意見書の内容が岩倉の耳にも入り、岩倉は激怒しました。だが政府内にも様々な意見があって当然であり、感情的なしこりは残っても、表面には出ません。
ところが、その年の夏に開拓使官有物払下げ事件と言う事件が起きます。北海道開拓使長官で薩摩出身の黒田清隆と言う人物が同郷の五代友厚に格安で官有物払下げを行おうとしていると新聞が報じたのです。それで板垣が率いる自由民権運動が激しく反対しました。呼応して大蔵省内で父が育てた役人の中からも中止を主張する者が現れました。
その動きから板垣と重信が裏で、結託していると政府内で疑いが広がったのです。
そして議会開設や憲法制定を求める重信の意見書も板垣と重信が結託した結果だと、一転して重信追放に狼煙が政府部内に上がったのです。
実際に重信が政府を追われたのは、その年の秋になった頃です。
当時、外務省に勤務していた夫の英麿も重信と共に下野し、昭和十五年の東京専門学校開校準備を始めることになったのですが、西南戦争を引き起こす引き金となった私学校にならい若者を集め、反乱を起こすつもりだと噂が流され、入校者が集まらないように妨害を受けながらの準備で大変な苦労をしました。
重信や福沢たちの狙いは、憲法制定や議会開催の時期を早めることだけではなかったのです。むしろ日本の君主制をどのようにするかが問題になったのです。重信はこの国をイギリス式の立憲君主制にしたい考えていたのです。熟考の末の大博打を打ったのです。当時の政府で発言力を持っていた三条や岩倉は当然、嫌がるでしょう。ですから、彼らを避けて有栖川宮熾仁親王に直訴する賭けに出たのです。
「大隈侯は自信があったのでしょうか」
自信があったようです。この問題で自分が政府を追放されるなど思いも寄らなかったようです。明治十一年の大久保卿暗殺事件から四年と経たない時期です、明治政府は重信が背負っていると言っても過言ではなかったのです。岩倉具視が健在であっても公家であり、実務には向きません。伊藤博文、井上馨の長州閥は若く、薩摩閥は先の西南戦争で多くの人材を失っています。その中で重信が大久保直系として実権を握っていたのです。
重信罷免後、政府は国会を一〇年後の明治二十三年に開設することを決め発表した。
下野した重信も国会開設に備え、政党を造ることを考え、翌年十五年に立憲改進党を結成した。板垣は重信に先立つ明治十三年には自由党を結成し、国会開設に備えていた。
明治十四年の政変で政府を去った方には、今の首相の犬養毅、尾崎行雄、前島密などです。
重信は四十四歳で、夫の英麿は三十歳前だった。祖母は八十歳の高齢で母は三十半ばでした。私は十八歳と幼く、政治の裏など見抜けるはずはありません。周囲の慌しさしは気になっていました。
家族の年齢を呟くクマコに、記者は女性らしい細やかな感情を感じた。
「ご家族はご心配で」と女性記者が訊ねた。
大変な気苦労をしました。西南の役から五年と経たず、その記憶も生々しく残っている頃です。重信たちが同じを道を歩むのではないかと不安でした。
ところが重信は水を得た魚のようでした。水を得た魚のように学校開設準備や政党造りに奔走したのです。
女性記者は大隈の妻の綾子の癇癪病について徳富蘇峰から聞いていたが、その頃から始まったのかも知れないと思った。
あの時期に北海道の官有物払下げ問題が起きなければ重信も政府に残り、今の日本をイギリスのような君主国にしていたかも知れません。官有物払下げ問題が起きることは重信にとっても予想外の事件だったようです。クマコの言うイギリス式君主制とは、君主は存在するが、政治には関与しないと言う制度である。ところが日本が採用した君主制はドイツ式の強固な君主制であり、君主自らが国が統治すると言うドイツ式君主制であった。
「でも」と女性記者が呟いた。
「単なる偶然で、そのようなことが起きるのでしょうか。大隈侯が目指すイギリス式君主制を排し、ドイツ式の君主制を採用しようとする方が、薩摩や長州、公家たちと裏で口車を揃えた官有物払下げ問題を世間に暴露し、一気に、大隈侯の追い落とし図った陰謀だったとは考えなかったのですか」
さすがに女性記者の言葉にクマコも唖然とした。
「疑えば切りがありません。でも重信には他人を疑う感覚が備わっていなかったも知れません」と言って、クマコは口元を押さえて笑った。
記録を取る男性記者は、思わず背を伸ばした。
クマコはそのようなことが自由に言えない時代が来るのでは不安を肌で感じていたのである。
昭和七年四月○○日
明治二二年の玄洋社員来島恒喜による暗殺未遂事件遭難について聞き取りを行った。
明治二十二年と言う年は日本国憲法が発布された年です。恐ろしいことに、目出度い、その日に薩摩出身の文部大臣森有礼が自宅で凶漢に襲われ、翌朝、死亡すると言う事件が起きた日でもありました。とクマコは無気味なことを言った。
森幽礼は教育を通じて封建的な生き方を西欧的な生き方に日本人を変えようとした先駆的な生き方をした方です。当時の日本の混乱ぶりを象徴する事件だと感じます。一度、政府を追放された父は外国との条約改正に必要だからと乞われて、外務大臣に就任したばかりの時でした。家族も文部大臣を襲った悲劇に震撼したのです。
森有礼の事件から半年ほど過ぎた一〇月中ごろに事件が父が襲われたのです。外務省を出た直後に、来島恒喜と言う男に爆弾を投げつけられ、馬車は大破、重信は右足に大けがを負ったのです。爆弾を投げ付けた来島は、その場で短刀を喉に突き刺し、自害して果てました。重信が襲撃された理由は外国との条約改正の内容が事前に漏れ、それが不自由分だと怒りをかったのです。幕末に締結された欧米列国との不平等条約改正は国家を挙げて一大事でしたから。この仕事は重信しかできないと白羽の矢を受けた上での外務大臣就任でしたが。
危うく右足切断手術だけで一命を取り留めることが出来ましたが、以後、ずうと左足だけの不自由な生活を強いられることになったのです。家での生活も杖と車椅子が必要な生活です。
それでも重信の恨み事を一度も聞いたことはありません。ただ失った右足の付近を触り、無意識に足を探すような仕草をするのを見かけた心が痛みました。
「毎年、来島の命日には大隈家から華が手向けられたと言うことを聞きましたが」と記者は聞いた。
「重信の指示です。来島と言う方も覚悟を決めた立派な方だと私も思います。重信を囲む者も、重信を批判する者も命がけでした。一所懸命でした」
クマコは、そう言うと、口を閉ざした。
昭和七年四月○○日
明治十四年の政変、外務卿就任、外務省前での受難。その辺まで記憶が鮮明に残っていますが、薩摩長州出身以外者として初めて天皇陛下から首相指名を受けた時のことや、日清戦争、日露戦争、義和団事件出兵など大きな戦争や騒乱のことが、まるで夢のようにしか記憶に残っていないのです。
平坦で新鮮さ感じられないのです。
とクマコは自らの記憶の様は、自ら頭を傾げながら語った。若い記者も彼女の言葉に首を傾げたが、女性記者はクマコの言葉に相槌をうった。
「女性はそんなものかも知れません。家庭の中の生活が大事で、外には目が向きません」と。
と言いながら女性記者はクマコにとって女性として幸せな時代ではなかったかと想像した。
「他の皆さんと一緒に狂乱し、不安になり、国の行く末を案じていたのかしら。それとも大変なことに慣れてしまったのかしら」とクマコ独自の解釈をした。
しばらくして日露戦争と言えば、面白い出来事がありましたと語り始めた。
明治二十五年ごろだったと思います。真っ黒に日焼けした軍人さんが訪ねて来たのです。江藤新平さん名誉回復や息子の新作さんが世話になっていることでお礼が申し上げたいと申しましてね。名前は福島安正さんと言われましたが、当時は、無名で売名行為を企むものではないかと、いぶかしがったり、また新作の面倒を見るのは当然でお礼を言われる筋はないとか内心、思ったりしたのです。玄関口で応対しましたが、当時は父が例の事件で右足を失い用心深くなっていましたので、重信は不在ですと対応したのです。江藤新平さんに若い頃、お世話になったと申しまして、今、ロシア横断の旅から戻ったばかりだと申しますのよ。
「福島安正と言われると、日露戦争の時に参謀本部で情報を担当された方ですか」と記者は確認した。
「ええ、そう言う方らしいですの」
記者にも意外な人である。江藤新平とどのような関係があったのであろう。
福島安正と言う人物は、戦前は有名な人物であった。若い頃にロシアを単独で横断し、一九〇〇年の義和団事件の時には、意思疎通の出来ない連合軍の中でイギリス語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、北京官語を自由に操れる語学の才能を発揮し、当時、まとまりがつかない連合軍をまとめた人物である。
「長野出身の方だったと思いますが。一体、どのようなご縁で」と記者は興味深げに訊ねた。その方が言われるには。戊辰戦争の時に、北越戦争・会津戦争に参戦してご活躍もされたようです。戦争が終わって、開成校に入るために猛勉強をしていたおり、貧乏で布団も買えなず、夜は寒いので寝ずに薄明るい灯りで暖を取りながら勉強、昼に屋根に上り陽に当たり眠ると言う生活を続けていたと言うのです。そんなある日、屋根で寝ていると、二階から窓から声をかける人がいたいうのですよ。そのような格好で屋根でいるとは普通ではないと。それで事情を説明したら、その後、ずうと面倒を見て頂いたと。それが江藤新平で、今、自分があるのは江藤さんのお陰だと。斬首後も位牌を持ち歩き続けていたが、報いることができなかったと。息子の江藤新作さんの面倒を見て頂いていると聞き及んでお礼を申し上げにきましたと、かなり興奮して語りました。当時は階級も低く、名も知れてません。売名行為かも知れないと思い、父に取り次ぐのは避けました。
江藤新平が賊軍の汚名を晴らしたのは明治二十二年の大日本憲法発布の翌年だった。
重信が外務省前で遭難し、右足を失ったのも二十二年だった。
記者は頭の中で年表を思い描いた。
布団も買えない貧乏学生が暖かい昼間の屋根の上で寝るなど、あまりに出来すぎた話ある。
クマコは話を続けた。
半信半疑で重信に伝えると伝えると、江藤は出身地などで人を差別しない人だったから、案外、信用できる話かも知れないと言っていました。
「福島安正大将さんのお話と江藤新平さんお話は、白瀬中尉の南極探検を支援されたことに相通じます。父上は冒険家に縁があったようですね。明治七年の乱で斬首された島義勇さんも安政年間に北海道を探検し、札幌を開拓された方でした」と記者は軽く言った。
奇妙な因縁話になり、座が静まった。
女性記者が沈黙を救った。
遠慮がちに小声でクマコに話しかけた。
「実は田中代議士に興味があり、調べているのです。田中さんはどのような方でしたか」
クマコは口を押さえて笑った。
「田中と言うとあの田中正造さんですか」とクマコと聞きなおした。
女性記者は感極まって、前に進み出た。
クマコは手の甲で口を押さえたままである。
「変わっていましたよ。重信と行動を共にしてきたお一人ですが」
「やはり立派な方だったでしょうね」
女性記者は切り返してきた。
クマコは噴出した。顔の前で手を振った。
若い女性記者は肖像写真の田中正造をイメージしていると見抜いたのである
「汚い格好して悪臭さえ漂っていましたよ。雨の降る日は蓑を着て田舎の年寄りの格好でいらっしゃったこともありました。いつも草鞋を履いていたのではなかったかしら」
記者はガッカリした。
「あら御免なさい。他の皆様もみんな似たり寄ったり。でもあの方は特にひどかった。重信も家でくつろぐ時は普通の姿ですよ。福沢もそうです。ここに来る時には多くの学生を連れてはいるが、半纏にステテコ姿と言う姿でした」
「でもあの写真の田中様の姿は」
「写真のあの和服も、きっと借り物に決まっています。皆様、そうでしたから」
「女性記者は、さらにガッカリして肩を落とした」
「夢を壊し、申し訳ないわね。世の中のために活躍される皆様は、そう言うものですよ。でもあの方ほど真剣に鉱毒事件や人々の苦しみを考えた方はいませんでした。父が本気になって怒っていたので聞いたことがありますた。当時は憲政本党だったと思います。理由を聞くと、あいつはいつも痛いところばかり突いてくると重信が言うのです。重信は田中が言葉の端々に代議士、代議士と連呼することに参っていたようです。田中様その職務に身を捧げた立派な方でしたよ」
この言葉で女性記者は得心した。
「最後には、あの方憲政本党を離れ、妻とも離婚を覚悟し、天皇陛下に足尾銅山の鉱毒に苦しむ下流域住民の生活について直訴をされたでしょう。今でも恐れ多いことですが、当時は新聞の号外が出て、東京中が大騒ぎになりました。亡くなって二十年ほど経ちます。福沢先生と同じ頃にお亡くなりなったはずです。谷中かどこかの片田舎で野垂れ死をされたのでしょう。無一文で。奥様に迷惑が残らぬように絶縁状を残したようですが、奥様は頑として受け入れなかった言うことでした。もう、三十年も前の話になるのかしら」
クマコは記憶を辿るように話した。
女性記者は感動した。
「正造の死を聞いた重信は、喧嘩をした縁側でぼんやりと立って、小雨を見ながら寂しそうに呟いていました。あいつも人ではなかった」と。
記者が、えっと小さく驚きの声を上げた。
記者は人ではないと言う言葉を、良い意味で受け取らなかったのである。
「悪い意味ではないのですよ。人間を超越した存在だったと言う意味ですよ」とクマコは付け加え説明した。
亭を辞した後、記者は女性記者に緊張がほぐれた話をうかがえたのは君が同行してくれたお陰だと、礼を言った。
女性を同行するようにはかった蘇峰の狙いも、そこにあったに違いない。
昭和七年五月○日
重信の子ども時代、少年時代、青年時代について聞きたいと女性記者から申し出があった。
面白いと蘇峰も同意した。
クマコも快く了解した。
腕白だったそうですよ最初の言葉だった。
それに出来もあまり良くなかったようです。
ただ口げんかでは負けたことがなかったよ
鍋島家の菩提寺である高伝寺にお参りに行くと、必ず正面にある大きなマキの木に登って母親を心配させたこと。
激しい気性は終生、変わらなかったようです。その気性を飼いならすために、訓練もしたはずです。
明治二年の英国人パークスとの隠れキリシタン処遇の問題で激論を交わしても一歩も引かなかったことにも通じるのでしょう。
近所の川で水遊びをしたことや小鮒を獲った話など、病床に就いてから毎日、話してくれました。
佐賀平野は水路が縦横に走っていますでしょう。子どもの格好の遊び場になったようですよ。
森で鳥を取った話、楠木が茂る城のお堀沿いの道を何周も走ったことも。
とにかくヤンチャで負けん気が強い子どもだったようです。
病床に就いてからは、子ども時代のことを思い出して、マキの木に登るたびに頼もしい頼もしいと言って味方をしてくれた寺の和尚は生きておるだろうかとか、あのマキの木は無事だろうかとか言っていました。
その日は雑談になったと記者は、記録を残している。
昭和七年 五月十五日
歴史に関心のある方は、この日が日本の歴史上悲劇的な日であることに気付くはずです。
海軍将校が首相宅に押し入り、犬養首相を暗殺した五一五事件が勃発した日である。
記者は女性記者と一緒にクマコ亭に伺っていた。
もともとクマコは慎み深い性格で、決して自分のことを進んで話そうとする女子ではない。彼女は自分が他界する直前に長年、つづり続けていた日記を水に浸けさせ処分させているるぐらいである。
今、記録に残るのは彼女は聡明さや時代を目の確かさは、妙を得た受け応えや、男子であったら父上を凌ぐ仕事をなしたであろうと賛辞が伝わるだけである。
もちろん蘇峰はクマコの性格は承知しており、間接的に重信の功績を残すためにと申し出ていた。内心はクマコの記録を残したいと言う希望もあった、
面談中であるが、電話がなり、クマコの世話をする女中が掛け込んできた。電話は珍しいものであったが、電話事業を興した石井忠亮と言う人物が佐賀県出身だということで重信の時代から愛用していた。
犬養首相からだと言う。
クマコは慌てて記者に一礼し、席を立った。
部屋に残された記者と女性記者は顔を見合わせた。
もちろん何事だろう言う関心と、首相自ら電話を寄越すことに思いを深めたのである。
部屋に戻ったクマコは首相の電話の内容を打ち明けた。
食事の招待の電話でした。アメリカの有名な喜劇役者が来られるということで思い付いたようです。
犬養首相と言えば、明治十四年の政変以来重信侯の盟友として歩んできた人物である。
女性記者が関心を示した。
「それで申し出をお受けになったですか」
「ええ、もちろん」
犬養さんとは久しぶりに会うと、嬉しそうであった。
八歳ほど犬養が年長である。半世紀を超える長い付き合いであった。
「周囲に重信を知る知人も少なくなりました」とクマコは寂しそうに呟いた。
「アメリカの有名な喜劇役者というとチャップリンのことですか」
と弾む声で女性記者は質問した。
有名人には心を動かされるようである。
「たしかにそのような名前を仰っていましたわ」と
「首相もチャップリンのファンなのかしら」と女性記者は続ける。
話が横道にそれるのを恐れた男性記者が軌道修正を図る。
「首相はアメリカのファンなのですよ」と教えた。
クマコは顔を曇らせて、記者の予想を超えた発言をした。
それにしても最近の日本の軍人さんおかしくなっているのではと口にしたのである。
「様々な動きが人伝に噂として耳に入るが、何が起きているのだろうか。四年ほど前の昭和三年頃に満州軍閥の張作霖を殺したのも軍人さんでしょう」
「まあ、そうでしょうね」と記者は曖昧に受け流そうとした。
その日は重信の最後の様子を聞くことを予定していたのであるが、思わず話が横道にそれてしまった。記者は、それはそれで良いと思っていた。
「石原と言う陸軍軍人さんは満州平定を急ぎ、アメリカとの戦争に備えねばならないと多くの人の前で話したと言うのではないですか。満州国建国も、日本軍が仕掛けたのではないですか」
記者はクマコの質問に慌てた。
前年の昭和六年の柳条湖で起きた小さな衝突事件以来、満州での日本軍の動きが慌しくなっている。日本人は多くは中国のせいだと思っている。ただ国際社会では疑惑を持たれ、満州国建国と同じ三月には中国の提訴でリットン調査団が結成され、満州に派遣されていた。
そんなことより三月に清朝最後の皇帝だった溥儀が執政に就任し、満州国が建国されたことで国内は興奮していた。
それまで満州に移民した日本人や企業が排日反日運動に晒されていた。だが違った感じ方をしていた。
「最近の軍人さんは、どうなさったのかしら。毎晩、料亭に集まり、維新の壮士を気取っていると言うのではありませんか。」
苛立ちを抑えることができないようだった。
記者は深呼吸をしたが緊張はほぐれない。
女性記者は無言である。
クマコの次の言葉を期待していた。
懐中時計で時間を見ると、すでに二時を過ぎていた。
「満州での紛争も終わりそうもない。今年になって三井財閥の井上準之助さんや団琢磨さんが暗殺された」
井上日召と言う民間右翼団体が起こした事件で、歴史上は血盟団事件と言われている。
一番の原因昭和四年から日本中を苦しめ続けた大恐慌であることは間違いない。
クマコはもう一つの流れがあり、それが軍人の意思により動いていると感じているのである。
簡単に銃や弾薬が手に入るはずはないのである。
止める力は誰にもない。明治維新を成し遂げた人々の多くはこの世を去ってしまっている。日露戦争で第一線で戦った若者たちも軍隊を去ろうとしている。
「軍人を抑えることが出来ない時代が来つつあるかも知れません」とクマコは無気味な言葉を漏らした。
女性の言う言葉ではない。
記者は蘇峰から繰り聞いた言葉を思い出した。
大隈侯はクマコ女子が男子なら、自分を凌ぐ仕事をしていたかも知れないと、何度も語っていたと言う。
その片鱗も伺い知るような言葉である。
「大隈先生は軍人が嫌いだったとか」
「特に二一カ条の要求を中国に出した頃から、軍人のゴリ押しに嫌気が感じ始めたようです。でも犬養首相と同郷の宇垣大将とはウマが合うようでした。何度か家にも来られたことがあると思います。佐賀出身の軍人さんたちとも交流はあったようです」
「一九一七年頃の話ですね」と女性記者が訊ねた。
「そうです。第一次世界大戦の真っ最中の頃の話です」とクマコは教えた。
「重信も年を取り、昔のような気迫もありません。首相就任など断った方が良いと周囲の者は止めたのです。でも最後のお勤めだと言って、とうとう元老の山縣様の申し出をお受けになってしまって」とクマコは無念そうに呟いた。
重信は中国国内での反日排日の騒乱が激しくなるのに胸を痛めていた。
二十一か条の要求と呼ばれる内容は、最初の出発は十六カ条からなるものだった。日本の開発地域や鉄道の借款期間を伸ばすと内容が主だった。日露戦争で勝利した結果、日本がロシアから譲り受けた大陸での権益期間が短く二十年であり、その延長が急務だった。十六カ条については交渉相手の袁世凱とも調整して了解をしていた。最終的に日本政府内で了解を得ようと、回覧をしたところ、軍部から猛反対の声が巻き起こった。そして新たな項目を追加するようにとねじ込まれたのである。明らかに中国政府に対する内政干渉的なことも追加されていた。交渉期限も迫っており、そのまま事前交渉をしていなかったことを希望事項として追加して袁世凱政府に提案した。
ところが袁世凱は日本から怒り、二十一か条の要求を外国の新聞社に公表したのである。
欧米は欧州大戦の真っ最中で火事場泥棒だと日本を激しく非難し、中国国内では反日排日運動に火が付くことになってしまった。
袁世凱は日本と対峙するには中国は強い帝国時代の頃に戻らねばならぬと、みずからの皇帝就任を正当化しようとした。ところが中国が古い帝政に戻ることを国民も西欧列国は歓迎しなかった。逆に日本人の中には日本と同じように中国が帝政に戻ることを望む者もいた。だが結局、彼は健康を害し、失意のうちにこの世を去ってしまったのである。
「袁世凱は日清戦争の時から日本との交渉の矢面に立ち日本の知り尽くした人物でした。シナのことを甘く見てはいけません。軍人さんが火遊びができる国ではありません。ましてアメリカ云々の話を持ち出すなど常識を疑います。重信は中国は用心せねばならないと言っていました。満州はどうなるのでしょう。政府は国内で食えない農家の次男、三男を盛んに移民させようとしているようですが。満州には多くの中国人がお住まいなのでしょう。彼らと日本移住団の争いが絶えず、開拓団の青年から軍に救いを求めたとか言う事情もあったようです。国と国の争いは国同志で話会いで決着を付けることができましょうが、互いに隣で接して住む者同士の争いの決着は付けようがありません」
女性記者にはクマコの言おうとすることが理解できないようだった。
「満州には争いを裁く裁判所もありませんでしょう」と、それとなく付けたした。
清王朝の屋台骨がしっかりしている間は、万里の長城を超え北側の満州には漢民族が立ち入ることは禁じられていた。今は違うのである。
「袁世凱との権力闘争に敗れ、日本に亡命をしていた孫文が満州を日本に譲ると言う話さえあったと聞きました。もちろん交換条件はあります。袁世凱を打倒するための資金援助です」
清王朝は崩壊した一九一一年以降、中国自体が、各地に湧き起こった軍閥に群雄割拠され、各軍閥は自らが中国を統一し、支配者になろうと狙っていた。丁度、日本の戦国時代のような様相を示した。
満州にも日露戦争以降、張作霖と言う人物が現れ、国家組織を造りつつあったのである。
しかし、そのような中でもクマコが話したような話があったことは少し驚きであった。記者にとっても初耳である。
「非公式な申し出で、文書は残っていません」
当時の状況からあり得ない話ではない。
孫文は袁世凱を倒すために資金や武器を求めていた。彼の政敵である袁世凱は中国国内での自己の地位を確実にするために自らが皇帝に就き、帝政を復興しようとしていた。
さらにクマコは恐ろしいことを言った。
「色々な機会に世論を動かす工作がなされているように感じます。子ども達が見る地図もそうです。第一次世界大戦で手に入れた南洋の諸島まで赤く彩色しています。日本人は世界の三分一を支配する大国になったと。でも海にすぎないのです。それを赤く塗りつぶして国民の目を欺こうとしているのです。今度は満州も赤色に塗りつぶすつもりでしょう。でも住む人の多くは日本に反抗的です。日本に銃を向けるのです。日本は小国です。領土を広げるたびに日本は貧しくなっていきます。中国でのアヘンを批判してイギリスではグラットストーン首相も言っていました。戦に頼る薄汚れた帝国主義は国を貧しくするだけです。今日電話を頂いた犬養首相も同じ考えです」
クマコの耳の奥で重信の言葉がよみがえった。
「腹が立つことがあっても、無暗に怒ってはいけない。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えるのです」
祖母の三井子の言葉でもあった。
クマコは自分に言い聞かせた。
女性記者は聡明で激しいクマコの言葉に目を輝かせて聞き入っていた。それでもチャップリンのことが忘れられない様子であった。申し訳そうに聞いた。
「やはり首相のお宅に伺われるのですか」
「お招きの日は今日ではありませんわ。後日です。今日はチャップリンとの会食で首相の役徳を実感したので、次はぜひ大隈先生の娘さんを首相官邸にお招きしたいと言って、笑っておりました」
二人は暇乞いをした。
すでに四時になっていた。
その日もクマコは玄関まで、二人を送ったが落ち着かない様子だった。
彼女は、これまで体験したこともない嫌な予感に苛まれていたのである。
昭和七年五月十六日
犬養首相暗殺の凶報を知ったのは深夜のことであった。
当時としては早い方であった。
身の回りの世話をしている女子が彼女の寝所に飛び込んできたのである。
青年将校一団が官邸で押し入り、犬養首相を暗殺すると言う凶行に及んだとラジオで緊急ニュースを放送していると言うのである。
ラジオ放送が日本で開始されたのは大正十四年のことであるが、クマコも世間の動きを知りたいと、購入し大事にしていた。
翌朝、蘇峰から電話があった。
もちろん昨夜の首相暗殺の凶行のことを知った上での電話である。
今日も記者を寄越したいと強引な依頼であった。蘇峰の申し出はクマコの身を案じてのことであった。蘇峰の耳には首相暗殺の主犯に佐賀にゆかりの深い海軍の将校たちが関わっていると報せが届いていた。
かって父の重信の同志であった犬養が暗殺されたことだけでも痛手を受けているはずである。犯人グループに佐賀にゆかりがある者が多くいたと言うことで二重のショックを受けているはずだと案じての電話だった。
昼すぎに記者がやってきた。
首相暗殺の翌々日のことである。
記者も緊張していた。若いが蘇峰が選んだ記者であり、取り乱している様子はない。冷静さを保とうとする姿がクマコにうれしかった。女性記者の方は自分には関係のない遠い世界の出来事のように振る舞おうとしているように見えた。
「お父様と犬養さんは、民党立ち上げの頃からのお付き合いと伺っておりますが、昨日の事件は大変でしたね」と記者は慰めた。
クマコは否定しない。
「長い政治家人生です。離合集散を繰り返し、今日に至ったのですが、犬養首相と重信は議会を守る同志であり、明治十年代から五十年間の友人でした」
月並みのことを発したが、語りつくせぬ思いは十分、伝わってきた。
「慶応義塾の福沢先生の紹介でした。犬養先生は新聞記者として活躍しており、西南戦争に従軍記者として参加し、立派な記事も書かれたはずです。明治十四年の政変で政府を追われ民党を立ち上げた時に、ともに政治の世界に足を踏み入れたのです。日清戦争直後に重信が土佐の板垣退助さんと薩摩長州出身以外の者として内閣を組閣した時には、尾崎行雄さんの後を継ぎ文部大臣をされたのですが、一週間ほどの大臣でした。重信の率いていた進歩党と板垣の率いた自由党が分裂して、内閣は瓦解してしまったのです」
若い記者は、隈板内閣と呼ばれる短命に終わった日本初の民党から首相が指名された内閣の辿った運命や事情は承知していた。だが女性記者は三十年前の話であり、初めて聞く話であった。
「数年後明治三三年(一九〇〇年)に長州の伊藤博文が政友会を結成し、政党政治は新しい時代の幕を開けた頃から犬養さんは重信と袂を分かち、犬養さんは小さな政党を率いて苦労しながら現在に至ったはずです」
クマコの言葉尻に涙が滲んだ。
自らの言葉で犬養が暗殺者の凶弾に倒れ、すでにこの世の人ではないことを思い知らされたようである。
「武士の不平が爆発した佐賀の乱、西南戦争。徴兵制導入など新しい時代を誤解して農民が起こした血税一揆。自由民権運動が激しさを増す中で起きた秩父事件、かばやま事件の国内騒乱。日清戦争。義和団事件。日露戦争、ロシア派遣。第一次世界大戦、それに最近では関東大震災も」と騒乱の歴史を記者は繰り返した。騒乱が人の常の世であることを強調することで、昨日の首相暗殺事件を衝撃を和らげ慰めようと気持ちからである。
「でも最近の事件は起こす人々の心が、いやしくなったように思うのです。どのように奇麗な言葉で言い訳をしようが自分のためだとしか思えないのです。他人の都合などにお構いなし。重信を爆殺しようとした来島恒喜にも大義がありました。条約改正を徹底するように求めてお国のためだったのです。だから重信も母も私たち家族は我慢したのです」
クマコは佐賀の出身の海軍軍人が今回の事件に関わっていることが耳に入っていないのではないかと記者は思った。
記者は犯人達の社内で噂になっていた出身や背後関係を伝えるべきか迷ったが、沈黙した。
「犬養さんのお宅のことが気になりますわ。連絡を差し上げてよいものかどうか、父が遭難した時のことを思い出すと、家族にとって興味本位だけの電話など、とてもご迷惑なことですものね」と呟いた。
女性記者がクマコの独り言に質問を重ねた。
「大隈侯が遭難した後は大変だったでしょうね」
「もちろんです。家族だけでなく国にとっても一大事でした。なにしろ一度は政府から追い出した皆様が、この仕事をやり遂げることができるのは重信だけだと白羽の矢を当ててきたのです。家族も大変でした。母も祖母も祈るしかなかったのです」
「よく、その場で喉を突き自死したとは言え、来島の墓に毎年、華を手向ける気分になれたものです」
「重信は、自分の遭難も来島の死も不平等条約に対する日本国民の怒りの強さを西欧列国に伝える証にしようと考えたようです。でも今回の犯人は何のために犬養首相を倒したでしょう。残された首相の御家族たちにも犯人を弁護する一片の気持ちも湧かないはずです。犬養首相の命は無駄に棄てられたのです。せめて厳しく犯人たちを罰し、二度と、このようなことが起こさないようにするしかないでしょう」
かすかに事件の背後関係を知っている記者は頷いた。
「あの事件で足を失ったせいで重信も家族は生涯、不自由をしました。大正十一年に八十三歳でこの世を去るまで三十五年近い長い歳月を父は片足で生活することを強いられたのです。ステッキ、義足、車いすの生活が続いたのです」
昭和七年六月○日
原稿整理を終え、記者はクマコを訪ねた。
夏の暑い盛りを迎えていた。
事件当時の記者が勤務する東京日日新聞の社説を立派だと褒めながら、それ以来、新聞に五一五事件の続報がないことに彼女は苛立ちを露わした。
政府の規制が多くなったのだと記者は思わず漏らした。クマコは、それいけないと反論した。多くの国民に知らしめねば道を誤ることになるになる。政治家の力だけでは、対抗し切れないと危機感を露わにした。
再び事件翌日と翌々日の新聞の社説の話に戻り、社説のとおりだとクマコは記者が勤める東京日日新聞社の社説を褒めた。
事件が偶発的なものでなく背後に陰謀があること。一夜にして明治維新以降、多くの苦労の末に造り上げた立憲君主制、政党内閣制が瓦解してしまう恐れがあると言う内容を支持したのである。
同時に犬養首相を暗殺した犯人を愛国者と褒め称える嘆願書や、政党政治が悪いと非難する運動までが巻き起こりつつあることに危機感を露わにした。
最終的に嘆願書は百十七万人の署名が裁判所に届けられたと言う。新聞報道も規制され、正確な情報も国民に伝わらない中、冷静な思考ではなく感情に訴える、軍人が中心になって起こした助命運動が効を奏したのである。
それ以降も若い記者は女性記者を伴い、数度、クマコ亭を訊ねたが、日本の行く末を案じていた。
年が改まり、昭和八年になると、クマコの体力の衰えは著しくなった。
床から離れられない日が続いていると噂を耳にした。
昭和八年五月十七日に七十一歳で死去した。
ガンであった。
五一五事件の判決はクマコが死去した年の九月から翌年の二月にかけて、陸軍軍人判決、海軍軍人判決、民間人判決と下されたのであるが、軍人に対する判決は甘かった。しかも多くの軍人は刑期を待たず、減刑され出所する始末であった。
余談になるが、女性記者がクマコに聞いたことがある。
「重信侯は、いつもいかめしい顔をされていたのですか」
クマコには女性記者の質問が唐突すぎて、すぐには理解できなかったようであるが、しばらくして口元を押さえて含み笑いをした。
「写真の顔を見て、そう思いになったのでしょう。とんでもありません。私が思い出す父はいつも笑っておりました。いつも面白いことを言って周囲を楽しませようとしているようでしたた。快活で愉快な人でした。おかしな出来事にも事欠きませんは。選挙の時には朝には断酒の会で演説をし、昼には酒造組合で演説をしたとか。ですから父の周囲には人が集まったのです」と言い、クマコは笑った。
「終わりに」
この記事を取材した男性記者は戦争中に行方不明になっている。記録は戦後、ある有名な女性作家から得たものである。
クマコの会見に同席した女性記者である。
名前は明かせない。
女性記者はクマコの歴史を見る目に驚き、次のような記録を残している。
昭和七年の五一五事件から四年後の昭和十一年に起きた二二六事件も、昭和十二年に始まる日中戦争もクマコは予言していたとしか思えない。
彼女は佐賀県出身者の事件の関わりには一言も触れなかったが、多くの人に慕われていた人である。耳に入っていないはずはなかったと思う。
ただクマコが暗示的な言葉を残した。
佐賀藩出身の者は薩摩、長州、土佐と言う藩閥グループの中で辺境に位置しています。国境と言う地理的な辺境の地で生きる方々も大変な苦労を宿命的に背負います。社会に存在するグループの中にも中心から離れた辺境に位置するように宿命づけられた人々も同じように苦労をします。不当な評価を受けたり、追い詰められ悪事を働いたりしなければ良いのですがと、クマコは悲しい表情で満州で生活する移民団の生活に触れた時に語った。
死の間際 夏海惺(広瀬勝郎) @natumi-satoru
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