第5話 修正するのも難しい
一度掛け違ってしまうと修正の難しい事柄というのはあると思う。しかも翠子の場合、掛け違いは一つとは思えないところが面倒だ。
まず一つは光の指先をうっかりかわしてしまったこと。それからもう一つはそもそも光が十二歳という年齢のうちに結婚してしまったことだと思う。
安定してしまった日常を変化させる事は、何かを一から始めるよりもはるかに難しい。
そんな訳で、翠子と光の仲は相変わらず、たまに同じ閨で休むだけというまま、いたずらに時間が過ぎていった。
「こういうことは難しいな。」
最近妙に家にいることの多い兄が言う。
「一度すれ違うと、すれ違ったことそのものに心が臆してしまうというかさ。」
つまり、兄にも何かあったのだろう。
「いったい何をやらかしたの? どこかの通いどころがバレでもしたんでしょ。」
試しに決めつけてみるとちょっと微妙な顔をした。
「バレるにはバレたんだが、その後がなあ。なんとも後味が悪いというか。むしろあっちがやらかしたというか。」
わかるようなわからないようなことを言って溜息をついた。事情はよく分からないが、たぶん一番悪いのは兄だ。そこは確信をもって断言できる。
「なんだか知らないけど、放りっぱなしは良くないわよ。」
東宮女御の妹と言うことは、右大臣高成卿の娘ということだ。高成卿といえば翠子たちの父の最大の政敵で、そういう相手との婚姻というのは結局政治が絡んでいる。痴話喧嘩程度のことで放り出せるものではない。
「わかってるさ。」
兄は烏帽子を被った頭をかいた。
今の兄の格好は一言で言えばだらしない。単と指貫の上からぞろっと袿を羽織っただけで、烏帽子も形だけ頭にのせている感じだ。うなじの毛が一筋落ちて衿にかかっている。
いくら実家の妹の部屋だとは言っても、もうすこしちゃんとしてほしいと翠子などは思うのだが、女房たちには案外好評で、「色っぽくてどきどきする。」などともてはやされているようだ。兄のことだからわかってやっているのかもしれない。だとしても他所でやってほしいと思う。
そういえば、と翠子は気づいた。光のこんな姿を見たことはないな、と。
どうやら光はそれなりに浮名を流しているらしい。
なぜ「らしい」かというと、女房たちが結託して翠子の耳に入らないようにしているらしいからだ。
思えば六条御息所の噂が翠子にまで届いたのは、よっぽどの事だったのだろう。
翠子の方も必死になって光の動向を探ろうという気もない。
そんな事をしてもしなくても、何も変わらない気がするからだ。
六条御息所の話を聞いたときもそうだったように、翠子にとって光の話はどこか他人事だった。嫉妬に身を焼いたりするには、光との距離は遠すぎる。
たまに、それでもすっかり途切れるような事はなく通って来る光は、いつも言葉少なだ。女房たちがかまうのを穏やかに受けているだけで、自分から特に何かを話そうとはしない。
翠子もそんな光に慣れているので、特に気にする事なく過ごす。
閨では二人ともいっそう無口だ。
ただ、翠子は同じ閨の中に光の体温があるのが嫌ではない。
ぴったり寄り添って眠っているわけではないけれど、ほんのりとした温みが光のいる側から感じられるのは、嫌な感じではなかった。それはたぶん、慣れているという事でもあるし、嫌いではないということでもあるのだと思う。
光が翠子をどう思っているのかはわからない。翠子は光ではないのだからわからないのは仕方がない。
ただ、出来れば嫌われていなければいいとは思う。
兄はいつの間にか、また滅多に見かけないようになっていた。北の方である高成卿の姫君の元にも通っているらしい。
どんないきさつがあったのかは知らないけれど、仲直りが出来たのならば良かったと思う。
ただそうなるとまた考えてしまうのだ。自分と光の場合は「仲直り」も成立しないのだと言うことを。
別に翠子は困っていないし、光もたぶん困ってない。でも今の関係のままでいいのかというと、それもちょっと悩ましい。
どうすべきなのかということは、中々に答えの出ない問なのだった。
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