第4話 かわしてしまった指先

 光に通いどころがあるらしいという噂は、さざ波のように密やかに、翠子に伝わってきた。

 翠子は一応光の北の方で、そんな立場の翠子にも噂が届いているということは、それはもう京中に広まっている話だということだ。

 なんとその通いどころは、六条御息所なのだと言う。

 聞いたときにはなんの冗談だろうと思った。

 翠子の中で光は相変わらず「たまに来る年下の男の子」だったし、六条御息所といえば貴婦人という言葉を体現したとまで言われる女性だ。全く釣合わない。そもそも「光の通いどころ」という言葉自体、とても違和感がある。

 しかし結婚から五年。光もすでに十七歳だ。通いどころの一つぐらいあってもおかしくない歳にはなっているのだった。

 それはつまり翠子がすでに二十一になっているという事でもある。

 「翠子、そろそろ懐妊の気配はないか。」

 久しぶりに来てそんな事を言い出した兄に、翠子はふんっと鼻を鳴らしてみせた。

 「おあいにくさま。まだ懐妊以前の問題よ。」

 翠子にとっての光は相変わらず「たまに来る年下の男の子」だ。それはつまり同じ閨で純粋に眠るだけの相手だということでもある。

 「お前なあ、少しは危機感を持て。正式な婚姻の手続きを踏んでいないから通いどころということになっちゃいるが、六条の方は強敵だぞ。」

 兄の言いたいことは翠子にもわかる。

 前東宮妃ということは、身分の高い見鬼の女性だということだ。彼女が光の子を産めば翠子が気圧される事さえありうるだろう。

 ただ、今更どんな風に光との関係を改善したものなのかがわからない。

 ろくに喋らず、隣り合って眠るだけの関係ながら、翠子はそれなりに光に馴染んではいた。光の寝相が落ち着いて来た昨今では、光のいる夜も安眠できるようになっている。逆に言えばそこまで馴染んでしまった相手との間に、そういうある種の緊張感のある関係をいまさら築けるものだろうか。 

 やれやれと兄がため息をつく。翠子は黙ってむっとした。この兄にこんな態度を取られるのは腹が立つ。そもそも光を六条邸に連れていったのも、光をそこに置き去りにして女のところにしけこんだのも兄ではないか。

 「せっかくのお膳立てが仇になったかなあ。」

 なんだか不穏な物言いだと思ったら案の定だった。兄は光に手ほどきのための女性をあてがっていたのだ。

 「一体何考えてるの。」

 妹の婿君に女性をあてがうとは、本当に何を考えているのか。

 「両方未経験だと困るだろうよ。お前が光に教えてやれるもんでもないだろう。」

 そう言われると確かに翠子も反論はできない。翠子は未だに男女の事は未経験なのだし、知らないことを光に教えることはできない道理だ。

 だからと言って兄のやりように納得できるのかと言えば、到底無理だとは思うのだけど。

 「色好みの女房なら後腐れもないし、うってつけだからな。丁度いいと思ったんだ。てっきり翠子で試そうとするだろうと思ったのに、まさか六条御息所にいくとはなあ。」

 そう言われて、どきりとした。

 ちょっと、心当たりがあったので。

 「それにしても光が六条御息所となあ。ウマウマとやられた感じだな。粘り負けかな。」

 翠子の動揺には気づかずに、兄は何やらブツブツとぼやいている。

 それは違うわよ、と翠子は声には出さずに突っ込んだ。負けるも何も兄は粘っていないのだ。六条邸の近所に通いどころを作ってしけ込んでいたわけだから。

 冷静に考えれば兄は光にしてやられたのではなく、単に御息所に相手にされてなかったのではないかと思う。最初から勝負は成立していないのに違いない。

 あとは大した話もなく兄は帰った。

 一人になって、兄の話を反芻する。

 「翠子で試そうとすると思った」と兄は言った。

 そして、思い返すと確かに光が「試そうとした」らしき事象はあった。ただ、うっかりと翠子が身をかわしてしまったのだ。

 あれはもう一年ほども前になる。 

 

 その日の光はなんだかそわそわとして落ち着かなかった。居間にいる時から翠子の方に頻繁に視線を投げてきたかと思うと、目が合うとふいっと視線をそらしたりしていた。

 閨に入ってからもなかなか寝付かずにいる。

 なんだか変な緊張感を滲み出してさえいて、翠子もつられてなんだか寝付けなくなってしまった。

 そのまま微妙に張りつめたような時間が結構流れた。

 翠子には光が眠っていないことがわかっていた。

 光が翠子が起きていることに気づいていたのかはわからない。翠子は光に背を向けて横になっていたからだ。

 ふと、光が動く気配がした。

 すうっと光の指が翠子の方に伸びる。

 その指が翠子の肩に触れそうになったとき、翠子はつい、指をかわしてしまったのだ。

 伸びてきた指は引っ込んで、もう伸びてはこなかった。

 兄の話を聞いている感じだと、あれは兄にあてがわれた女房から得た知識を翠子で「試そうとした」事例だったのではないかと思う。

 たぶん、というかそれは自分が失敗したのだろうとは思うのだけど、ちょっと勘弁してほしい気がする。

 普通、そういう物事が起こる時には覚悟というか心の準備みたいなものがあるだろうと思うのだ。

 正式の婚姻ならもちろんのことだし、例えば密やかに通って来るような場合でも、恋文もなしにいきなり閨に踏み込んできたりはしないと思う。閨に相手を迎え入れる時点で、しかるべき心の準備ができているのが当たり前というものではないだろうか。

 いや、確かに光は翠子の背の君だし、ずっと同衾していたわけだから、そんな覚悟はとおにしていて当然だと言うかもしれない。

 だけど、考えてもみてほしい。そういう心の準備って、準備状態のまま何年もおいておけるものだろうか。

 しかも正直に言えば、翠子はただの一度もそんな心の準備をしたことがなかった。

 だって、結婚当初光は十二歳だったのだ。

 それから今までの間にすくすく成長して、今では背も翠子よりもかなり高いし、歳だって結婚しているのがおかしくない歳になったけれど、なまじ訪れが日常になってしまっていたせいで、翠子は光をそんな風に意識したことはなかったのだ。

 でも。

 失敗した、という気持ちがするのは事実で、なんだか胸の中で変に燻る。その気持ちがなんだか理不尽な感じもして、翠子はモヤモヤとしたものを抱える羽目になっていた。

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