第2話 不幸と不思議
紙袋を開けると、ふわっと香りが立った。
揚げられたパン粉の香ばしい香りに、ひき肉とじゃがいものしっとりとした匂いが混ざり込み、油の微香がそれを引き立てている。
気づけばコロッケを一つ手に取っていた。それから一口かじるまで、迷いはなかった。
噛み締めると、ひき肉の小さな一粒一粒に味がぎゅっと詰まっている。決して揚げたてではないのに、カリッとした衣、ホクホクとした中身の美味しさは確かにまだそこに残っている。
至高の逸品とはこのことだ。僕は固く確信しながら、手に持ったコロッケの残りを口の中に押し込んだ。
お腹に入るまでの経緯にどれほどの疑問がつこうとも、美味しいものは美味しいのである。このコロッケに巡りあわせてくれたことだけは木崎に感謝してもいいかもしれない。満天堂。覚えておこう。
それにしても——。
まるで理解の追いつかないことが続いていた。
『昨日こと』とはなんだろうか。僕には、昨日一日、学校以外の時間で木崎に会った記憶はない上に、コロッケとはここ一週間ほど関わりもしなかったはずなのだ。満天堂なんていう店は聞いたこともなければ見たこともない。
木崎を探して教室を見渡すと、いつも通り隅のほうで仲間と馬鹿笑いをしている。
一つだけいつもと違うのは、こちらの視線に気づいたらしい木崎が、なにやら意味ありげな笑みを浮かべてこちらに手を振ったことだ。気味が悪い。
——どうせ、奴らの得意なイタズラに違いない。
僕はそう結論づけ、もう一つのコロッケへと手を伸ばした。
まぁ、こんなに美味しいものに出会えたのなら、たまにはこういうこともいいかもしれない、と思う。
*
歩きながら本を読む、というスキルを僕が身につけたのは今から四年前——ちょうど名前事件が起こった直後のことである。
そうすれば登下校中、極力誰とも顔を合わさないようにすることができるからだ。
自分と他人は違う。他の奴らなんてみんな馬鹿だ。そう割り切ってしまえばそれはそれでやりやすく、そんな感情が薄らいだ今となっても、本を読みながら家へと向かう習慣は抜けていない。
春に比べればずいぶんと輪郭のはっきりしてきた雲が並ぶ空の下を、ゆっくりと歩く。『猿でもわかる相対性理論』。それが昨日借りてきた本のタイトルだ。猿でも分かるくらいに簡単に説明できるのなら、それは世紀の発見といえるのだろうかと疑問に思いつつも借りてきた。
「猿でも」「簡単」「理解」などの単語が散りばめられた序文は昼休みの間にさっさと読み飛ばし、すでに光速不変の原理とかいう部分に入りつつある。しかし、まったくわからない。おそらくこのタイトルの意味は、猿に『は』分かる、という意味なのだろう。人間には早すぎる。
それでも意地でページをめくっているうちに、家へとたどり着いた。
同じような家々が立ち並ぶ比較的新し目の住宅街の中にあって、我が家は五年ほど前に壁を塗り替えたせいか目立っている。白の中の青だ。まだなんの役にも立たなかった僕が塗ったムラだらけの壁は、幸い裏手にあって見えない。
家の横手からホースで何かを洗っている音がしていた。お母さんが、新しい鉢植えでも作る為に準備でもしているのだろう。
ページをめくりながら玄関前の階段に足をかける。
すると、横手からホースを持ったお父さんが、ひょいと顔を出した。
「お帰り、進夢。そこら辺にバケツがあるから、気をつけろよ」
「あ、うん。ただいま…………え? なんで?」
反射的に答えたあと、僕は一瞬固まった。
お父さんはいつも会社でかなり帰りが遅い。僕が寝た後に帰ってくることもあるほどで、お母さんに言わせると、かっこ良く言うと企業戦士、悪く言うと社畜というタイプの人間らしい。
「あ、ああ……ちょっとした事情があってな。またあとで話す」
そう言って、すぐに顔を引っ込めたお父さんは、つばの広い麦わら帽子を頭に乗せ、首からはタオルを垂らした農家のおじさんスタイルである。しかしひょろっとした体格といかにもサラリーマンと言った細く四角い眼鏡、それに薄い顔立ちの相乗効果により、絶望的にそれが似合っていない。
思えば、お父さんは時々変なことをする事がある。
あれは五年ほど前だっただろうか。外で散々遊びまわり、空きっ腹を抱えて家に飛び込んだ時の事である。走ってはいけない廊下を走りキッチンに飛び込んだ僕は、お父さんが珍しく早く帰っているという情報をお母さんから聞かされた。そして喜び勇んでリビングへと駆け込み、そして足のツボを盛大に刺激されながらひっくり返ることになったのである。
ビー玉。
それは、床一面に広げられたビー玉だった。数は何千個ではくだらないかもしれない。それをお父さんは一つ一つ拾い上げては鑑定していたのだ。
その時に打った後頭部には、まだ凹みが確認できる。
他にも、珍しく早く帰ってきて一緒におもちゃを買いに行ったと思ったら、バケツ一杯分のビー玉を買っていたことがあった。おそらく、ビー玉マニアというやつなのだろう。もしこの趣味が僕が生まれる前からずっと続いているものだとすれば、総数を考えるだけで恐ろしい。
それはきっと、発作のようなものなのだろう。
仕事でたまるストレスなどをそこで発散し、そしてまたしっかりと働きに行くのだ。だから、仕方がない。そう思いつつも、なぜか、そういうお父さんの姿を見ると、自分がからかわれている時よりもずっと胸が詰まって、イライラした。
数年ぶりのイライラを抱えながらドアを引いた。
自分が数年前と何も変わっていないことを魅せつけられたような気がして、なおさらイライラした。そしてなかば意識的に足音荒く玄関に踏み込んだ時、僕はようやく大切なことを忘れていたことに気がついたのだった。
——バケツあるから気をつけろよ。
気がついたときには時すでに遅し。
僕は盛大にバケツを引っくり返し、全身をびしょびしょにさせながら玄関に横たわっていた。なんとか受け身をとったものの、狭い空間のことである。腰を靴箱の角でしたたかに打ってしまい、下半身にじんわりとした痺れが広がっていた。
「どうしたの!?」
音を聞きつけたらしいお母さんが廊下を駆けてくる。度重なる事件にとてつもなくむしゃくしゃしながら、僕は不機嫌に答えた。
「見ての通りだって、バケツで転んで——」
しかし、その先は言葉にならなかった。床で蠢く怪しげな影が目に写ったからである。背筋が粟立った。
やがて同じ事に気づいたお母さんが凍りつき、それから悲鳴を上げてキッチンの方へと走って消えた。僕は下手に動いたらそいつらに触れてしまうのではないかという恐怖と、しかしこのままいるわけにもいかないという状況の間に板挟みにされ、とても惨めな気分になった。
「どうした——っておお!?」
お父さんがのんきにドアを開けたのは、それから五秒後だった。
最大限の恨みを込めた目でその顔を睨みつけたのは言うまでもない。僕の周りを這いまわる十数体の影は、アメリカザリガニだったのである。
HALF grass horse @sativus
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