第1話 夏とコロッケ

 ——初夏。

 文字で書くと爽やかなのに、実際にはただただ日差しが強くなるばかりの日々が続く。その上空気は肌にまとわりつくような不快感を増していくし、極め付きは蚊が登場するという、どうしようもない季節である。いつになったらクーラーをつける許可が降りるのか、ということがクラス内で話題になりはじめるのもこの頃だ。

 たまにクラスのお調子ものなんかが、手を上げて先生に「センセー、さすがに今日はクーラーつけてもいいでしょ? もう、俺死ぬ」とか言うのだが、返事は二パターンしかない。クーラーがなかったのに頑張って勉強していた先生の苦労話か、「今つけたら、もっと熱くなった時に耐えられなくなるよ」というどうでもいい教訓だ。

 その話をげんなりとした思いで聞きながら『未来のことはどうでもいい、僕たちは今を生きているんだ』と声高に主張したくなるのをぐっとこらえつつ、机に突っ伏すのが僕みたいな人間の役回りである。

 とかく、この世は生きにくい。

 今日も今日とて、僕はなかば机の上に倒れこむようにしながら授業に耳を傾けていた。

 いや、正確には授業ではなかった。

 十分ほど前から盛大に脱線し、今は先生の結婚旅行で訪れたというスイスの話にクラス中が盛り上がっていた。暑苦しいことこの上ない。せめて頭の位置を下げてでもいないと、熱射病にでもなってしまいそうである。僕は小さくため息を付いた。

 人間というのは、馬鹿ばかりだ。

 さきほどから激しく騒ぎたて、口笛を鳴らしている木崎健太郎がその代表格である。別に先生がアルプスの上で美人の奥さんとキスをしたからといって、なんだというのだろう。

 やつとは小学生の頃からやけに顔を合わせることが多く、そのまま進学した地元中学でも二年連続で同じクラスになった。向こうは嬉しそうだったが、こちらからすればまるで嬉しくない。むしろ災難である。大げさに握手を求めてきた時など、その時は笑みを無理やり顔に貼り付けて応じたが、その後しっかりとトイレで手を洗ったものだ。

 思えば、僕が自分の名前を嫌いになったのも、やつのせいなのである。

 忘れもしない、小学四年生の春のことだ。

 担任だった佐紀子先生が、「将来の夢」なる宿題を出した。

 当時の僕はその宿題に大いに戸惑った。そんなことを考えたこともなかったからだ。そもそも、まだ学校に入って四年しか経っていないような子どもに、夢もへったくれもあったものではない。十数年後の未来よりも、今晩のおかずが気になっているような年代である。

 散々悩んだ挙句に、「まだありません」と書いた僕は、それから一ヶ月もの間、木崎健太郎からいじめられることになった。

 名前が「進夢」なのに—— 

 まったく馬鹿馬鹿しい理由である。だが、それに今でも影響を受けている僕も、大概に馬鹿馬鹿しい。そして、そうだと分かっているからこそ、ヒキどころがないのである。

 僕はまだ立ち上がって何かを叫んでいる木崎の背中を、恨みを最大に込めた目で睨みつけた。

 思い出すだけで腹が立つ。なので出来る限り思い出さないようにしている。しかし、こんな暇な時間には、なぜだか頭に蘇ってくる。


 先生の結婚生活が危うい展開を迎えたところで鐘が鳴り、授業は唐突に終わりを告げた。

 生殺しである。非難轟々のクラスに、続きはまた次の時間でと言い残していった先生の頭は、春の光を反射して眩しい。まだ四十代後半のはずだ。聞くまでもなく、相当な苦労がその後にあったに違いない。

 窓から一陣の風が吹き抜け、教科書のページをめくった。少し生ぬるいが、心地よい風だ。少し汗ばんだシャツの中を通り抜けていく涼しさを味わっていると、あまり来てほしくない奴が近づいてきた。

「お疲れ、進夢」

 木崎である。

 手に小さな紙袋を持ち、リズミカルにこちらへと歩いてくる。まだ治まっていないらしい興奮が、眼の奥や紅潮した頬などに見て取れた。よほど、先生の髪の行方が気になっているのだろう。

「ああ——なにか用?」

「これ、ばあちゃんから。これからもよろしくってさ」

 ずいと紙袋を差し出す木崎を、僕はまじまじと見つめた。

 記憶に間違いがなければ、僕は木崎のばあちゃんなる人物にまったく接点はないはずだからだ。なにが“これからもよろしく”なのだろう。

「なにそれ?」

 僕は紙袋には手を伸ばさないまま尋ねた。

 よく見ると、袋の右下には『満天堂』と丸っこい文字で書かれた赤いハンコが押されている。

「なにって、コロッケだよ。昨日の!」

 まるで僕がたちの悪い冗談でも言っているかのように憤慨して、木崎がもう一度紙袋を付き出した。思わず受け取ってしまう。そのままの流れで口を開けて中を覗きこむと、焦げ茶色のコロッケが二つ綺麗に並んでいた。揚げたてではないが、美味しそうな匂いが漂ってくる。

 しかし、それは今はどうでも良いことだった。

「昨日? なんの話か全然分からないんだけど」

「おいおいおいおい!」

 突然木崎が楽しそうに言って、こちらに身体を寄せた。暑苦しいので僕も同じだけ後ろに下がる。

「お前が嫌なら大きな声では言わねえけどさ、昨日のことは」

 声を落としてそう言った。悪戯っぽい笑みが口元に浮かんでいる。

 気味が悪いほどに意味がわからない。

「いや、だから、なにが——」

「まぁ、今度ちゃんと紹介してくれよな」

「いいからちょっと待て」

 しかし、勢いに乗った木崎が待つわけがない。こちらを向いてわざとらしいウィンクを決めると、最後にぐっと親指を立ててみせた。

「これからも、満天堂をヨロシク!」

 嵐のように木崎が去って行ったあと、僕の手元には二つのコロッケが入った紙袋だけが残っていた。冷めかけたコロッケの温度がしんなりとした紙袋越しに手のひらへと伝わり、はやく食べろと僕を急かしているようだった。

 この暑いのになんでコロッケなんだろう。

 そんな的外れなことをぼんやりと考えながら、僕は袋の口を開けた。

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