森越苹果

 ミーンミン、ジリジリジリ。艶のはった廊下を駆け足で通り抜ける。ドタバタ、バタン。古くなった木の階段をギシギシ言わせながら駆け上がり、目の前の襖を勢いよく開ける。

「出かけるぞ!」

 襖を開けて、開口一番。蝉の声に負けじと張り上げた声は、空気を波立たせて彼の顔を上げさせた。

「煩いよ、君」

 その部屋唯一の大きく開いた窓の前、身体に不似合なロッキングチェアがギシと鳴く。小さな背を預け、注意を飛ばしている間も手の中の本から彼は目を離さない。黒くしっとりと濡れた髪が、彼がどのくらいこの場所にいたのかを教えてくれた。

「なんでもいいよ、ほら」

 彼の手から本を奪い、窓の前に置かれている木製の机の上へ。胡乱げに少年を見つめ、彼は憮然と言い放つ。

「行くなんて言ってない」

「行かないとも言ってないだろ」

「じゃあ、行かな――」

「よっし、行くぞ!」

 彼の言葉など聞く気もない。少年は笑顔で彼の手を掴み、来たとき同様の足取りで階段を駆け下りた。後をついていく側の彼は、不慣れな一段跳びに顔を引きつらせ、自分よりも大きな歩幅を睨みつける。

 それでも彼が掴まれた手を嫌がらないのは、少年が彼の友人であるからだ。

「……帽子取ってきたいんだけど」

「ばっかだなー、ちゃんと用意して来たに決まってんだろ」

「心外だね」

「お前の分の水筒な!」

 乱暴に帽子を被せられ、位置を直そうとした彼の手に青色の水筒が押し付けられる。用意周到なところを見ると、彼の親にも承諾済みなのだろう。

『いつも本ばかり読んで……、本も大事だけど身体を動かすのも大事よ』

生返事で返していたのが良くなかったのかもしれない。次から気を付けよう。彼が内省している間に、少年は自分の水筒を肩から斜めに下げる。たっぷりと満たされた水が、ちゃぷんと音を響かせる。

「重い」

「軟弱。行ってきまーす!」

 庭で水撒きをしていた祖母に気が付き、少年が大きく手を振る。笑って手を振り返す祖母に、彼は少し笑って、いってきます、を口の中で転がした。

「どこに行こうな」

 彼の家を出て早々、全力疾走を果たした少年は息切れを物ともせず彼に問う。もともと体力のない彼は、ひたすら呼吸を繰り返すだけで答えることはできなかった。頬を伝う汗を手の甲でぬぐい、麦わら帽子の下から少年を睨みつける。

「だから、君は、行く前にっ、計画して、から」

「息切れてんぞ」

「うるさい」

 一息で抵抗するも、汗だくで膝に手をついていては効果が無い。タオルを持って来れば良かった。彼がすでに遠い我が家を振り返ると、少年が「あ」と声を上げた。

「忘れてた」

 少年のほうを向いた途端顔面一杯に広がった白に、一瞬思考が止まる。目の前で、汗が白に吸い付いて半透明になっていく。それは確かに今彼が欲したものであるが、少年がそれを持っていたようには見えなくて、彼は何を言ったものか数秒悩んだ。

「これ、お前の。おばさんから預かってたんだったわ」

「どこに持ってたっけ」

「ポケット」

「膨らんでたのはこれが理由か……」

 なんにせよ有り難い。準備の良い母親と全力疾走にも負けず少年のポケットから落ちなかったタオルに感謝して、彼は首回りの汗を拭きとった。

 満足気にそれを見届けて、少年が暑さに負けない熱い手で、彼の手首を取る。

「山行こうぜ、山」

「どこさ」

「肥後さ」

「肥後どこさ」

「熊本さ」

「ってなんで歌ってんの」

 こらえきれずに彼が笑い出す。あははは、と少年も口を開けて笑って、二人で笑いながら走り出す。意味の無い、とりとめもない、単なる言葉遊び。つくボールも何もない。公園なんて大したものもない。あるのは地平線を飲み込む山と、高く広がる蒼穹と、山の麓から流れる川だけだ。視界一面に広がる水田と畑、その間の畦道を二人で駆けて、真っ直ぐ先に待ち構えている山へと向かう。

 雲一つない空は、その名の通りの青で二人を見下ろしている。そこに浮かぶのは、白か黄色か眩しくて形容しがたい太陽。ありのままの自然には、きっと、この二つは欠かせない。

 照りつく日差しはじりじりと肌を焦がし、シャツやズボンからはみ出した手足が痛みに汗で抵抗する。麦わら帽子のおかげでやわらいだ日陰の下、汗まみれの彼の視界は、熱の蜃気楼で時折歪んだ。

 まるで、どこかに迷い込んでしまいそうな。目を凝らさないと見えないそれが、彼は好きで、苦手だった。

「日陰入ろーぜ、日陰。あっちぃ!」

 少年が彼の手を離した。彼の手で覆われていた手首が、日に晒される。ジリジリ、ジリジリ。汗ばんだそこは、それでも確実に水分を奪われて、少年の後を追って彼が日陰に入るころにはすっかり乾いていた。

「きゅーけー」

 まだ出かけて三十分も経っていないのに休憩とは。言い返そうとした彼の口はしかし、少年と同様すっかり乾いていて、迷わず水筒に口を付ける。ごくりと鳴る咽喉に少し驚いて、今度はゆっくり、彼は冷たい麦茶を飲んだ。麦の薫りは柔らかく、淡く、鼻の奥まで冷気とともに広がっていく。耳には同じようにしか聞こえない蝉の声。一つ一つの声は細いが、重なりによって生まれる蝉時雨はまるで音のカーテンだ。暑さに火照った彼の頬に影を落とす、二人がもたれかかったこの木にも、何匹か止まっているのだろうか。

 彼が身体の熱が冷めるのを静かに待っていると、不意に少年が彼の肩をつついた。

「なあ、見ろよ」

「蝉?」

「違う、カブトムシ」

「ほんと?」

 振り返る気のない声で、彼は少年に応える。事実、彼は昆虫に興味がない。

 一方、少年は昆虫が大好きで、友人の中でもずば抜けて虫取りが上手い。彼の隣で少年が脚を伸ばす。視界に移る日焼けした脚は、彼よりも太くて健康的だ。白い靴下に戦隊モノの黒い靴は、どちらも走ったときに飛び散った砂ですっかり汚れてしまっている。

「っし、捕まえた」

「早いよ」

「じゃじゃーん」

 眼前に突き出された物体に、反射で身を引く。ガン。頭が木にぶつかった。頭に手を当てようにもまたカブトムシを突き出されては嫌なので、そのまま、けれど瞼を閉じて痛みに耐える。

一部始終を見ていた少年は、彼の子供らしくない冷静さが可笑しくて素直に笑った。片手に持つカブトムシが、居心地が悪いと足をばたつかせる。

「痛そー」

「痛いよ」

 今度こそ少年から遠退いて、彼は後頭部を押さえた。疼く部分は打つ前と変わらないから、こぶはできてないだろう。だが、冷やしておいたほうが良いかもしれない。タオルを麦茶で冷やそうとすると、それまで笑っていた少年が慌てて止めに入った。

「俺の水筒には水入ってっから、こっち使えよ」

「でも」

 それだと少年の分の飲み物が減ってしまう。この夏真っ盛りの下、水分が尽きてしまったらどうするというのか。

「いいから、ほら」

水筒を開け、少年は彼の躊躇いにかまわずタオルを奪おうとする。彼は少年の手から逃れて、

「気持ちだけ受け取っとく」

 自分の水筒を開けた。

「お前の麦茶だろ。タオル茶色になるぞ」

「他に方法がない」

「俺の水のほうが冷たい」

「別に冷たくなくてもいいし」

「……どっちだよ!」

 彼は少年の言葉に呆気にとられた。どっち、とは。そこから会話を戻って、先ほどの自分の言葉を思い出し、耳に熱が集まるのを感じた。

 彼の動きが止まったのを見て、少年が噴きだす。うずくまり、肩を震わし、笑いをこらえている。

「……間違えた」

「知っ、てる」

 途切れ途切れに笑いを滲ませた言葉に、彼の眉間に皺が寄り。ふっ、と彼も口から笑いを溢した。二人で言い合ったのが馬鹿馬鹿しくなり、二人して水筒の蓋を閉める。

「川探そう、川。水も冷たいだろ」

「賛成」

 麦わら帽子をかぶり直し、二人並んで走り出す。畦道に戻り、川岸に向かう。水田が近いせいか、川岸は彼よりも高い少年の背丈を追い越す草が生い茂っていて、二人は川岸の前で立ち尽くした。

「うわあ」

「山の裾のほうに行こうか」

「そうだな」

 今度は彼が先立って走る。後を追う側にされた少年は、自然と彼の背中を見つめることになる。ズボンの裾から伸びる、白くて細い脚。少年と違い、彼は見た目も中身も昔からずっと文学少年だ。息切れの声は少年よりも彼のほうが多い。この暑さに加えて、かれこれ一時間ほど走り続けているようなものだから、仕方がないといえば仕方がない。

 だというのに、彼の走る速度は先ほどの少年と同じで、見るからに無理をしているとしか思えない。友達なのだから。少年に対して遠慮などいらないというのに、彼の背中はそんな少年の優しさを拒絶しているようにまっすぐだった。

 だから、少年は少しの苛立ちを覚えた。

「……そんなに距離ないだろ。歩こう」

「なに、もう、疲れたの?」

「疲れてねえけど」

「じゃあ、早く、木陰に入った方がいい」

 窺うような目線を送られ、少年は思わず背後を振り返った。誰か後をつけてきているのではないか。まるで何かの漫画にありそうな、そんな展開を期待した。しかし現実には、今自分たちが走ってきた畦道と雑草と田んぼと山と、憎いほどに晴れ渡る青空しか視界には写らない。がっかりして前を向くと、彼に笑われた。

「なんだよ!」

「いや、……君って割と、夢見る少年だよね」

 口角を釣り上げて、どちらかというと馬鹿にするような笑みなのに、様になっているところが悔しい。暑さと恥ずかしさで溶けてしまいたいと思ってしまうのは、きっと彼に『夢見る少年』呼ばわりされたことが大きいだろう。自分はいつまでも子供らしいまま。彼ばかりが大人に成長しているようだ。

悔しい。自分と彼と、何が違うのだろう。本を読んだら、彼のようになれるのだろうか。

「あと少しだよ」

「知ってる……」

 答えて、おや、と少年は気付いた。先ほどよりもペースを落としているのに、息が乱れている。暑い。それは分かっている。黒く焼けた自分の腕を見おろし、また、暑い、と言葉にする。そういえば彼はあんなに汗だくなのに、どうして自分はこんなにも汗をかかずにいられるのだろう。不思議だ。それに、どうして彼の足の速さに自分が追いつけないのだろう。いくら彼が少年に合わせたとはいえ、それは少年の最速よりもまだまだ遅い。

 立ち止りそうになった少年の手を、今度は彼の手が掴んだ。

「ぼやっとしない」

「あ……」

「早く日陰に入ろう。君が危ない」

「はあ?」

 彼の細腕からは想像しがたい強い力で引っ張られる。足の速さは少年の方が速いはずだが、腕を引っ張られて走るのはいかんせん体勢が悪くなる。いつもの速さで走れない少年にとって、彼の走る速さはちょうど良いものだった。

 頭上から西に傾いた太陽が、依然として熱烈な日射を二人に浴びせる。暑さにあてられて頭がくらくらしてきた。少年の手を引っ張る彼の背中が、二人の目指す山の姿に、揺れて、溶け込む。さすがの少年も自分の身体の異変に不安を覚えた。手首を握られた手を強く握って、意識を保つ。

 日陰まであと少しということが分かるのに、気分が悪くなってくる。

「うえ。なんだよ、これ……」

「熱中症でしょ」

 ようやく日陰にたどり着くころには、少年はすっかり元気を無くしていた。帽子で日陰の下にさらに日陰を作り、彼が見つけた川で冷やしたタオルを首にかけて木にもたれる。隣に座った彼は自分の帽子を使って、少年に風を送る。一刻も早く家に戻るべきだが、この状態で動けばさらに悪化させるだけだと判断したのだろう。彼は細かく少年の様子を窺って、特にこれといった症状、傷がないかの確認をした。

「水分補給しなよ」

「さっきしたっての。でも」

「でも?」

「……そんな飲んだら後が面倒だろ」

「なんでさ。僕のお茶がある」

「だってお前が」

「僕?」

 自分の頭のことを忘れたのだろうか。先ほど少年がカブトムシを近づけたせいで、木に打ち付けてしまったことを。けれど川はもう見つかった上に、彼の頭を冷やすはずのタオルは少年の首にかかっていて、少年が渋ったところで何の意味もないことは自覚していた。自分の額に浮かぶ汗をぬぐうこともせず、彼は少年に水を飲むことを要求する。

「君が元気にならないと、僕も帰れない」

 少年の水筒を奪い、蓋を開けると彼はそのまま少年の口元に水筒を押し付ける。少年が口を尖らせて抵抗を示すと、一息吐いてそんなことを言う。

「う……そーゆーとこ卑怯だよな、お前」

 しぶしぶ少年が水筒に口をつけると、彼は風を作る帽子の影に隠れてぼそりと何かつぶやく。蝉の声がうるさくて少年の耳には届かない。

「なにぶつくさ言ってんだよ」

「別に。暑い?」

「さっきよりかはマシ。なんで?」

「動けるなら、川岸まで行こうかと思って。あっちのほうが涼しいよ、陽に当たらなければ」

「行く」

 山に入るといくらか涼しくなることは体感済みだが、ここよりも涼しいとなればどちらがいいかなど考える必要もない。迷わず川岸を選んだ少年に、彼は笑って川のある方向を指した。山の裾とはいえまだまだ手の行き届いていない場所のあるその山の裾は、木の根や土の塊で凸凹としていて歩きづらい。運動靴を履いている少年ですら、何度か足が滑ったり根に引っ掛けたりした。運動靴ですらない彼の方は、二・三度前のめりに転倒しそうになり、その度に少年が手を貸してやった。

 ザアザア、ザワザワ。蝉のカーテンを抜け、鳥の声がいくつか聞こえるようになると、大量の水が押し流される音も耳に入るようになった。気温も先ほどよりもいくらか下がったような、そんな気がする。温くなったタオルを冷たい風が撫でて、少年の体温と一緒に熱を奪う。

「着いた」

「確かに、涼しいな」

 木陰に隠れて清涼な空気に身を任せる。石は陽の光で熱くなっていて、腰を下ろすことができないのだ。二人並んで大きく息を吸い込み、吐く。乱れた息はいつの間にかいつもの調子に戻っていて、少年は気分が晴れていくのを静かに味わった。

「遠いね」

 少年の様子を見て安心したのか、少し柔らかい口調で彼は言った。それは何に対しての言葉なのだろう。空か、山か、それとも人の声か。考えて、検討もつかなかった少年は答えを求めて素直に彼を見下ろした。麦わら帽子を目深に被っているせいで、少年から彼の表情は窺えない。

「蝉の声が」

 少年の沈黙を的確に受け取って、彼は答えを口にする。

「今もうるさいくらい聞こえてるけどな」

「聞いてるんだよ」

「ふーん?」

 文学少年の言うことは、時々主語が読めなくて返事に困る。少年の適当な相槌には応えず、彼はようやく少年のほうを向いた。

「……落ち着いたみたいだね。あと少し休んだら、戻ろう」

「まだ遊んでないじゃんかよ」

 彼の提案に否を唱えると、彼は些か肩を落としてうなだれた。

「この期に及んでまだ遊ぶつもりなの?」

 子供らしくない呆れた口調。このあたりの言い方は、彼の親にも共通した部分があるのを少年は知っている。そのせいで余計に、彼が大人らしく見えてしまうことも。

「なんだよ。俺が馬鹿みてえだろ」

「馬鹿じゃないか、実際」

「な、ん、だ、と」

 少年の反発を倍返しにするところは、まだまだ子供だが。怒りを煽られた少年は握り拳を作って振り上げた。実際に当てるつもりはなく、単なる脅しだ。意味がないことは重々承知であったけれど。

「僕、蝉の声が聞きたいんだ」

 少年と向かい合って、彼は真摯に答える。

「今も聞こえてるだろ?」

「君が聞いてるからだよ」

 ようやく主語を与えてもらったものの、それが示す意味は少年には全く見当がつかない。聞こえている。聞いている。日本語のわずかな違いに込められた意味を、果たして本をあまり読まない少年が掴めるのかどうか。答えはノーである。少年が首をひねると、弾みでタオルも肩から滑り落ちる。

「これで最後にしようか」

地面に落ちる前に上手くタオルを捕まえた白い手が、川に向かう。彼の背中に陽の光が当たると、シャツが白いこともあってかキラキラと輝いて見え、少年は手で目を護った。



 来た道をただ戻ればいいとはいえ、少年も彼も山道を通ってきたわけではない。川を目指していたときはお互いいっぱいいっぱいだったせいで時間も何も無視していたが、元気になり目的がただ帰るだけとなってしまうと、自分たちがどのくらい遠くに来ていたのかを嫌でも思い知ることとなった。

「……なあ」

「……黙ってていいよ」

「道分かんの?」

「……とりあえずあっちが西の空なのは分かる」

 素直じゃない返答に少年はため息をついて立ち止った。彼の話を信用すると、今二人は南西の方角に進んでいることになるのだが、木々の合間を見遣ってもなかなか見慣れた水田は見えてこない。

「そんな遠くまで来た覚えないぞ……」

「止まるとその分帰るの遅くなるよ」

 少年の独り言に、彼の叱咤が重なる。見れば、坂の上で彼は少年を待っていた。体力がないのは彼の方なのに、意地でもその素振りを見せないところも子供だなと少年は一人ごちた。

「まっすぐ南に行きゃいいじゃん」

 彼の体力回復の時間も兼ねて、少年はゆっくりと歩を開始した。顔を上向けると、赤みがかった空が見える。本当に、思ったよりも遠くに来てしまっていたらしい。夕方までには帰るから、と伝えた数時間前の自分を呪いたい。

「――」

自己嫌悪に陥りかけた少年の思考を掬ったのは、彼の声だ。

「何て言った?」

 蝉の声がうるさくてかき消されたと言外に伝えると、彼は麦わら帽子の陰で目を細める。

こちらの声も届いていないのかもしれない。それなら、少年が聞き取れなかったことも分かるはずだろう。それなのに、聞き逃してはいけなかった気がした。彼が声を張り上げることなど期待できないのに、せめてもう少し大きな声で言ってくれればと歯を食いしばる。

いずれにしろ聞こえないことなど分かり切っているのに、どうしてこうも不安になるのだろうか。

 ミンミンミンミン、ジリジリジリ。ジーワジーワ。アブラゼミやハルゼミは少年にとって昆虫採集の対象でしかなかったが、この時ばかりはその鳴き声に舌打ちした。

『聞いてるんだよ』

 唐突に思い出す。彼は少年にそう言った。聞いてる、とは、少年が自然と蝉の声に耳を傾けているということか。

「ああ、そうか」

 和らいできたと思っていた暑さが、やけに激しく感じられる。土や砂で汚れた運動靴で、坂を踏みしめ登る。どうしてあと少しの距離が、こんなにも遠いのだろう。ジーワジーワ、ジリジリ。焦燥を掻き立てる蝉の声。麦わら帽子を脱いで彼を見上げた。

「やっとわかった」

やおら、彼が笑った。風が彼の背後から吹き付け、少年を襲う。

少年は麦わら帽子を押さえて、風をやり過ごす。

「君と僕の友情も、彼らの前では無いに等しいんだね」

 聞こえた言葉は、あまりにも冷ややかで。けれど紡ぐ声は、何かを慈しむように優しかった。彼が何を考えているかなど少年にはわからない。いくらこれまで共に過ごす時間が長かったとしても、相手がどのように考えてるかなんてまだまだ思いつかない、

 彼は少年よりも二歩も三歩も先に進んでいて、少年がその場所に立つころにはもう、別の場所に立って少年を見ていた。

 そんな彼の言う言葉の意図など、少年に分かるはずもない。表情すら見れなかったのだ、手掛かりはゼロに等しい。

「なあ、知ってるか? 蝉ってさ、メスは鳴かねえんだって」

 少年の口をついて出た内容に、彼は目を見張るも黙り込む。少年は彼の横を素通りして、近くの木を見上げた。蝉の声は夕暮れが近づくにつれて少なくなっていたが、まだまだうるさいほどだ。ヒョロロロロ……。夜の静けさを誘うヒグラシの声が、時折混ざるのを聞きながら、少年は一つの木に狙いをつける。

「ごめんな」

 少し飛び跳ねて捕まえたのは、一匹の蝉だ。脚をばたつかせて抵抗するその蝉を、少年は彼にも見えるように前に出す。

「これが、メス?」

「うん」

 彼の手の上に、そっと置く。途端、メスの蝉は羽を広げて飛び立った。あまりの速さに、彼が目をむく。呆然と雌の飛び立った方を見る彼に、少年はため息を一つついて背を向けた。

「鳴かないの、ほんとに」

「鳴かない。けど、こんだけ居れば一匹くらいは鳴くやつがいるかもしれねえな」

「なに、それ」

「メスって鳴かねえけど、それは子供を産むやつだけなんじゃないかって。生命が尽きるまでに子供が産めないメスとか、なんか、アマさんみたいなメスは、その生命が尽きる前に一声でも鳴いて、報いるんじゃないかって」

 それは、少年の祖父が聞かせてくれた話だ。少年には難しく、タイトルとうすぼんやりした内容しかもう覚えていないが、どこか惹かれるものがあったのを覚えている。なにより、表現された蝉が美しかったのだ。言葉を知らない少年でもどこか惹きつけられる蝉の描写に、彼が読書に耽る理由が分かったような気がしたのだった。

「帰ろ」

 広げた状態の彼の手を取って、坂を下る。昼間の青さが嘘のように空は赤く、朱く、二人の足元に柔らかくて不安定な光を照らす。不安定な足場を互いに助けながら乗り越え、懐かしい畦道の前に出た。

 広がる山々も、水田も、何もかもが淡い朱色に埋もれている。

 繋いでいた手を、放す。

「君は、」

 小さく、彼の声が風に乗る。

「聞こえたの?」

 震えているのは、声だけじゃない。少年には彼が何を考えているのか、何を思っているのかはわからない。けれど、伝えるべきことは分かっていた。麦わら帽子をかぶり直して、同じ麦わら帽子の下に隠れた彼の顔を覗き込む。珍しい表情に、少し驚いて。

「聞こえた。俺、ちゃんと、聞いたよ」

 少年は、笑った。

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森越苹果 @Morietsu1

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