4 医者はどこだ

 新入りの子犬が目を怪我した。

 今はエリザベスカラーを周囲にゴンガンあてながらふらついている。

 どうにも後ろ足が気になるらしく、数日前からガジガジとよくくわえ込むような姿勢で噛み付いていたので、個人的には後ろ足で目を蹴りつけたかと踏んでいる。もしくはホウキに噛み付いたか。原因は今のところわからないが、せっかくワクチン注射にも動じず痛がりもせず、病院が平気だったのになあ、と残念でならない。お嬢も、長らく病院が平気だったのだが、一度手術で死にかけてからは医者に対し、唸って威嚇するようになった。


 日本において、シェパードという犬種はだいたい耳に入れ墨が入っている。これは管理のための番号を打刻してあるものだ。成犬になってからでは耳に神経が通っているので、幼い頃に入れるのが通例らしい。この際、ハンコ注射の様に針で耳に傷をつけるのだが(近年はハンコ注射がわからない人もいると聞く。大雑把には、針を複数本同時に押し付けて射つ注射だ。押し付ける際の動作、残る針跡の特異性からこの俗称がついている)、キョトンとしている子、驚いてしまう子など、個体差で反応も違う。嫌なことをされたと思えば、子犬の頃のことでも案外ずっと根に持っているのが犬という生き物なのだ。

 獣医を嫌がらないシェパードはつまり、この入れ墨の時に特に不快だとか怖いだとかを感じることなく、その後もワクチン注射などが嫌な記憶になっていないということになる。犬は大型になるほど、ちょっと痛いくらいのことは気にしない奴が増えるように思う。体感でしかないが。

 中には痛がる子犬もいるため可哀想だと感じる人もいるだろうし、事情を知らず、子犬の耳が染料で緑に染まっているのを見て、大騒ぎする人は少なくない。中には入れ墨を入れた、という言葉だけ受け取って「虐待だ」と言う人もいた。無理もない。わたしだって入れ墨を入れられたのが意思表示のできない人間の子供だったらまず虐待を疑う。

 だが、どうか許して欲しい。

 先頃京都で、シェパードに似た犬が野生化しているようだ、という話もあがっている。自分が見てもシェパードに見えるので、おそらくは、その血統を継いでいるのだろう。ああいう事態でも、それがシェパードそのものであれば、耳の入れ墨を調べれば飼い主が、ひいては捨てたのが誰なのかわかるということなのだから。……もっとも、シェパードを意図的に捨てる飼い主が放棄の際に耳を切り取るという痛ましい話も耳にしたことがあるので、他にも様々な対策は考えられていかなければならないと思うのだが。

 とにかく、管理は、どうしても必要な犬種なのだ。

 結果的に可愛がられるだけ可愛がられて生涯を過ごすことになるシェパードが多くいるのも確かだが、その『可愛がる』は、『甘やかす』とは決して合致しない。最初にも書いたが、シェパードというのは危険な生き物だからだ。

 躾のされていないシェパードは、なまじ頭が良いだけに手に負えない猛獣にもなりかねない。躾をすることは、種族が違う生物である人と犬とが共に暮らすための約束事を教えることでもある。そしてその約束事として、犬には申し訳ないが、腕力で彼らに勝てない知恵の獣に従ってもらうしかない。ヒトの間でも、この犬種を飼うに当たっては「ほら、ちゃんとヒトに従うよ、このイヌはとても僕らの役にたつんだよ」と周りに喧伝できるほど躾る必要がある。なにせ相手は頭が良い。約束事を教えられないヒトには、この獣は知恵が退化しているのではないかと犬の方から白眼視される日々が待っている。


 それはそれとして、新入りの甘噛癖が治らない。

 偉そうに言っておきながら、生後半年に満たない子犬を思わず甘やかしてしまう自分がいる。

 これは、まずい。

 お嬢の時に躾を手伝ってもらった訓練士にもまた連絡を取る必要がありそうだ。

 ……無理をして破綻する前にプロを頼るのも、大事なことなのです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

シェパードのため息 味噌汁粉 @misosiru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ