3 インドア派

 今まさに目の前で、子犬が寝息を立てている。

 この犬もシェパードで、生後二ヶ月少々のメスだが、既に晩年のお嬢と変わらない前足の大きさをしている。お嬢は最盛期、四十キロを超える体重だった。この犬もそうなるのだろうか。それまでには顔に飛びつく癖をなおしてやらなければなるまい。今のところ、人間の髪の毛は噛んで良いものだと思っている節がある。

 ただ、この子犬は譲り受けることになる日ギリギリまで兄弟犬と過ごしていたからか、強く噛むことは(髪の毛以外には)してこない。乳歯の生え始めがムズムズするようで、ひっきりなしに何かを噛んでいるのだが、お嬢の時ほど怪我をせずに済んでいるのでありがたい。子犬の歯というのは、顎がまだ育っていない間にも肉を噛みちぎるためにだろうか、鋭いのだ。お嬢はその牙で噛むのに一切の容赦がなかった。半年くらいで家族みな、手は傷だらけになったものだ。

 ただ、そうして噛むかたちのいたずらには躊躇がなかったお嬢だが、脱走、逃走のたぐいで迷惑をかけられたことはほとんどない。お嬢は外があまり好きではなかった。


 お嬢、お嬢と説明もなく連呼していたが、そうと呼ぶだけあってお嬢は当然、メスである。しかしシェパードを見慣れているはずの人でさえ、初見でオスと見紛う大きさをしていた。飼い主が言うのも何だか大柄な体に見合う長い手足、派手な顔立ちの美犬であった。大柄な犬というのもあり、シェパードは存在感だけでもかなりのものになるのだが、一方でこの小さい頃に「自分がどれだけ強いのか」を把握させておかなければならない。奇妙な言い方をしたことに自覚はあるが、大型犬を飼育したことのある方には理解いただけることかと思う。

 これを把握できていない犬は、成犬になった後でも人間や他の犬を相手に喧嘩を売るなど、「自分の存在感」を主張することに躍起になってしまうのだ。

 お嬢のときには、大型犬に慣れていない飼い主という環境で、この躾には失敗する寸前だった。

 だが、ここは奇跡的かつほとんどありえない話ではあったが、彼女は先にも言ったとおり外に出ることを好まない、あまりにもインドア派な性格だったので、苦労をせずに済んだ。

 犬がインドア派ってどういうことやねん。

 いまだになんであそこまでインドアやったんやと、関係者一同心底首をかしげるところであるが、間違いなく、お嬢はインドア派であった。――おそらく、私自身がお嬢に出会うことなくこの文を読んだとしても「いや、散歩に行かせなかったサボり飼い主の問題だろう」と思ったはずだ。なので、そうではないのだと主張しておく。

 生後45日で我が家に来たお嬢さんなのだが、この時点で既に運動嫌いの傾向があったのだ。まさか、と思いながら一週間くらい経ったある日、まだ全てのワクチン接種も終わっていないため近所で目を離すことなく見守っていたのだが、二軒隣で飼育されていた柴に吠えられてしまった。その後すぐに天寿を全うした物静かな老犬であり、威嚇や攻撃ではなく、見ていた限りは犬同士の間で「しらないひといぬがいるー! こんにちはしらないひとこんにちはー!」「うっさいわ!」くらいの会話があったのだろう。

 だが、犬同士の交流経験が少なかったお嬢には、これがどうやら本当に恐ろしかったらしい。

 子犬がちょろちょろとうろつき回るのは、目的地が定まらずふらついているのも理由の一部にあるわけだが、その時のお嬢は放たれた矢のようにまっすぐに自宅に向かって突っ走ると、敷地に入った途端安心しきった顔でへたりこんだ。一部始終を見ていたこっちとしては腹を抱えて笑ってしまったわけだが、プライドの高い彼女には笑われたことが不満だったのかもしれない。これ以降、お嬢は外に出るのを嫌うようになってしまったのだ。

 幸いにして、他犬たにんを嫌うことは……いや、ほとんどの他犬を好みはしなかったのだが、基本姿勢は無視する形だったので、孤高気取ってる系の振る舞いを取る程度で済んだ。極端なのは散歩における姿勢で、100メートルも歩けば「まだ行くん? もう帰らへん?」と言いたげな情けない顔で飼い主を見あげたものだった。ペットボトルを噛み破ることが大好きだったのだが、この辺りのタイミングでペットボトルを渡そうものなら突然キリッとした顔、シャキッとした姿勢で、まっすぐ歩き出す始末。おうちでゆっくりカミカミしたいのだ。

 縄張りにもさほど興味なく、とにかく家でゆっくり過ごしたい系シェパードは、群れかぞくの中での立ち位置にも特に思うことはなかったらしく、多くの犬が大好きな遊び、「引っ張りっこ」――要はただの綱引きだ。綱はタオルだろうがぬいぐるみだろうがなんでもいいだけで――で自分より腕力で確実に劣る非力な女性が相手になった時、困った顔で周囲に助けを求めたりもした。

 犬の飼育経験がある人になら、この異常事態の意味をわかってもらえるだろうか。

 引っ張りあいは、犬の有名な遊びでありながら、生半可な覚悟でやるべきではない遊びである。なぜならこれの勝敗で犬は、本犬と相手の立場、その上下を確認してしまうからだ。故に、簡単に負けないくらい明確な力の差がある小型犬相手ならともかく、普通の女性は力の有り余っている大型犬相手に引っ張りっこをするべきではない。その時も、直前までは人間男性が引っ張りあいをしており、その間はお嬢も真剣な顔でムキになって引っ張っていたのだ。まともにやりあえば間違いなく、ニンゲンのメスはお嬢に瞬殺されたことだろう。最悪を考えれば、引きずり倒された可能性もある。

 だが実際には、お嬢はひとしきり困惑した後、タオルの綱から口を離した。

 現場で見ていたが、その時の彼女は「ええー……あんた、あかんて。そんなんあんた怪我するに決まってるやん……」とでも言いたげな様子だった。直前まで引っ張りっこ中の犬特有の、狂気一歩手前の顔をしていたのが、瞬時にそんな理性のある顔で困りだした様は、横で見ていた犬の訓練士が大笑いしてしまうほどの変わり具合であった。

 このあたりの、「こんなんしたら相手怪我するよな、困るやろうな」という判断をできるかどうかは、人間にできる躾だけでは決まらないらしい。

 散歩嫌いのインドア犬は、そうやって周りに、本犬にとって理不尽な理由で笑われるたび、「うわぅうぐーぅ」と妙な声を上げて抗議したものだった。

 まるで人間の子供が不満を言葉に出来ずに文句をいう様にそっくりで、その抗議をするたびに「文句垂れてる」「愚痴言ってる」とさらに笑われて、お嬢は最後にはふてくされて四肢と顎を地面に投げ出すように伏せるのである。そして上目遣い――鯨目、と言うそうだ。犬がそうやってはっきりと白目を見せている時は、嫌がっている、不満があるという意味にとらえても大きく間違っていない――をして、鼻からひときわ大きく溜息を吐くのである。

 ふすー! と。

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