第2章:魔導諜報

ベースメント

     1.

  

 ――いつの間にか眠っていたらしい。それどころか、いつ家に帰ってきたのかすらよく覚えていなかった。


「……ここ何処?」


 目を覚ました三崎薫の視界に打ちっぱなしの壁が映った。勢いよく起き上がり、辺りを見回す。

 四畳くらいの小さな部屋であった。自分が全く知らない場所にいることに気付く。


「あ――」

「ん、起きた?」


 見覚えのある顔があった。薫が駐輪場で出くわした少年――草太である。

 一人がけのソファに座り、どぎつい色のサプリメント飲料片手に携帯補給食を食べている。湯上りなのか、乾きかけの髪に上下ジャージ姿だ。


 傍らの小さなデスクにもう一人。ダークブロンドの髪に緑の瞳、高い鼻梁――カジュアルな身なりの白人女性だ。薫と目が合うと優しく微笑んだ。


「あの――ここ、どこですか? 病院?」


 状況が飲み込めていない薫が引き続き、辺りを見回しながらしながら尋ねる。


「ここは世田谷区よ、渋谷のすぐ近く」


 女性が応える。薫が聞きたかったのはここが何の建物なのか――なのだが、その疑問が解ける前に新たな疑問が持ち上がってきた。さっきまで吉祥寺にいたはずなのに、それが何故、渋谷にいるのか。


「えっと、なんで私、ここに?」

「なんでって、でっかいおっさんに絞め落とされたの、覚えてない?」


 草太が行儀悪く補給食を口にくわえたまま答えた。


「……そうだ! 何かスッゴク怖い人たちいた! いたいた! でっかい人! 何アレ!? 超でかい! 超でかかった!」


 謎の男達の暴力的な争いに巻き込まれていたことを思い出したのか、薫は半ばパニック状態でまくし立てた。勢いそのままに二人に詰め寄る。


「ていうか、あの人たち何なの!? あなたたちもだけど! そもそも何で私が――」

「ちょっ、落ち着いて落ち着いて! ちゃんと説明するから、ね?」


「テレビ見た方が早くね?」

「あ、こら、草太! 勝手にダメよ――」


 女性が薫を制している間に草太が部屋の広さの割には立派なテレビの電源を入れると、ニュース番組らしき画面が映った。


『――繰り返しお伝えいたします。本日、午後五時半頃、JR中央線吉祥寺駅付近で爆発事故が発生しました。本日、午後五時半頃、JR中央線吉祥寺駅付近で爆発事故が発生しました。現在、吉祥寺駅周辺は大規模な交通規制が――』


『関係者によりますと、一部過激派による犯行とも――』

『事前に現場周辺では異臭がするとの通報があり――』


『テロの可能性も――』


 どのチャンネルでも吉祥寺で起きたらしい爆発事故のニュースで持ちきりだった。中継のレポーターが駅近くの広場で現場の情報を慌しく伝えている。


「え? 何これ? 爆発事故、って……これ、さっきの人たちがやった、の?」

「バクハツはオレたちっぽい。たぶん」


 事の真相を知りたい薫にとって、隠さずに情報開示をしてもらえるのはありがたいが、聞きたくはなかった内容だろう。無遠慮に草太を指差しながら、薫はかすれかけの声を振り絞る。


「じゃあ――かっ、過激派?」

「カゲキ……? そうなの?」


 草太は小首を傾げて傍らの女性に振る。女性はひどい頭痛に耐えかねているような仕草で、


「正確には雪乃とアナタの二人だけは、ね。言っておくけど本社で大問題になってるからね、今回」


 ため息と共に吐き出した。一部分的にではあるが薫の問いかけは肯定された形になる。――その瞬間、


「ワハハハッ、なにその顔! アーッハッハッハ」


 草太が噴き出した。薫のポカンとした、芯の抜けた表情がどうにも可笑しかったらしい。


「……私、帰ります! 一応、さっきはありがとう。それじゃ」


 草太の余りの笑いように気分を害した薫がベッドから降りると、女性が行く先を遮るように立ち上がった。


「ごめんなさい。帰るのはダメなの」

「え? 何で? 私、その、事故には何の関係もない――ですよね?」


「今は状況が立て込んでいて……もう少しの辛抱だから、ね? ミサキ・カオルさん」


 うっ……と薫は言葉に詰まった。どうして名前を? 等という間の抜けたことは聞かない。所持品を調べられたら、名前から住所から一発だ。


「どのチャンネルも同じこと言ってばっかり……つまんね」


 笑いの波は去ったのか、草太がチャンネルを回している。ニュース番組の画面端には六時半の表示。爆発事故が起きたのは五時半なので、あれから一時間が経過していることになる。


「あのッ、どうして帰してもらえないんですか!? もしかして私、人質とかそういう――」


 誘拐、監禁、身代金――薫の脳裏にそういった単語が浮かぶ。思わずチラ、と出入り口の方に視線を向けると、ドア上に設置された監視カメラと目が合った――気がした。


「心配いらないわ。手荒なことは絶対にしないし、今日中に必ず帰れることを約束します。もちろん、車でお家まで送るわ。――だから、逃げ出そうとするのだけは止めてね?」


 不安を覚えずにはいられない、微妙な言い回しであった。


「さっきみたく気絶したくないでしょ?」


 一方、草太の口からは物騒な発言が飛び出す。ちゃぶ台を返すにしても性急に過ぎる。


「えっ? ぼ、暴力振るう気なの!? 今、手荒なことはしないって――」

「だってオレ、カゲキハだもん」


 邪気の無い顔でそう続けるのだから、屈託のない過激派もいたものである。


「茶々入れないの! 本ッ当、ごめんねぇ。この通り、この子ちょっとおかしいから」

「いえ、何かもう、いいです。大丈夫です」


 申し訳なさそうに手を合わせる女性の弁明を、薫は溜め息混じりに受け入れる。眼前の女性の常からの苦労を如実に感じ取ったのだ。


「ん――用意できたみたい」


 不意に草太が耳に手を当てながら口を開いた。耳元の通信機に連絡が入ったらしい。


「ミサキさん、色々あって混乱しているところ悪いんだけど、いいかしら?」


 わざとらしい咳払いの後、女性が薫をドアの方へと誘導する。もしかしたら――と淡い期待を抱く薫であるが、


「一応、聞いておきたいんですけど……どこへ?」

「ボスのところ」


 草太がドアのロックを解除しながら言った。薫の帰宅はまだ先らしい。


     2.


「私はここまで。あまり心配しないで。また後で会いましょう」


 長い長い下りのエレベーターが目的のフロアに到着すると同時、女性はそう言って上階へと戻っていった。

 必然、薫は草太と二人きりということになり、途端に不安に襲われた。


「あの、今から会う人って? こ、怖い人じゃないよね?」

「ボス? 怖いも何も、会社の上司ボスだよ」


 場持たせ感のある薫の質問に、草太はにべもなかった。


「会社、って――」


 言われてみればなるほど、よく磨かれた大理石の廊下、壁にはモダンアートの絵画が幾つか飾られている。落ち着いた雰囲気のオフィスと言われれば、その通りかもしれない内装であった。


 前方の両開きの扉が開く。靴越しにも足触りのいいカーペットの敷かれた部屋に、スーツ姿の男女が二人。体格のいい白人男性と日系らしい女性だ。

 警護あるいは秘書と思しき男女が左側の壁にあるドア横のロックを解除すると、スライド式ドアがゆっくり開いていく。

 ――いよいよボスとご対面、ここまで来たらもう余程のことでも驚かないぞ、と薫が決心した矢先である。


「ようこそおいで下さいました」


 低く柔らかで、耳にした人の心に沁み入るような――、そんな深みのある声が響いた。


「突然のことで申し訳ありませんでしたね。どうぞ、お掛け下さい」


 センスの良いアンティーク調の椅子が一つ。声に導かれるようにして薫が腰掛けると、その視線の先、大きなデスクの向こう側に声の主――ボスがいた。


「ヨハン・コワルスキーと申します。ここの責任者をしております。どうぞよろしく」


 初めまして、と〝ボス〟ことヨハン・コワルスキーが深々と頭を下げた。


「こっ、こちらこそ、です。はじめましてっ、三崎薫です」


 薫も慌てて頭を下げる。呆気に取られていた。ボスという呼称から、厳つい壮年の男性を想像していたのだが、目の前にいるのは優しげな老人であった。

 整えられた頭髪と口髭は真っ白、深く皺の刻まれた皮膚からしてかなりの高齢だが、緑色の瞳の知的な眼差し――何より、美しく響く落ち着いた声音からはむしろ若々しい印象さえ受け取れる。


「びっくりしましたか? こんなお爺ちゃんで」

「いえ、そんな……えぇと、その、ハイ」


 嘘をついても無駄だろうと思い、どもりながらも正直に答える薫。


「草太も。ご苦労だったね」

「はい」


 薫の傍ら、直立不動の姿勢で草太が短く答えた。やや緊張した面持ちである。


「傷の方は平気かな?」

「擦っただけ、なんで。血もすぐ止まったし――、止まりましたし」


 ヨハンと名乗った老人は孫にでも接するように言葉を掛ける。薫がちら、と横目に草太の様子を窺い見ると、草太は表情も硬く左眉の上に貼られた小さなテープを撫でながら答えた。


「それは良かった。――外の暮らしはどうかな?」

「何とか、やってます。はい」


「必要なものがあれば用意させるよ」

「特には……ないですけど」


「何でも言いなさい」

大丈夫ダイジョブっす、です」


 柔和な表情と澄んだ声で幾つか訊ねる老人に詰まりつつも、だが慎重に応える少年。

 他愛の無い会話のように思えたが、短い質問と返答が行き交う内に、薫は会話の端々に異質なものが含まれていることに気付く。


 声のようで声ではない、音のようで音ではない――奇妙な〝何か〟。


 が起こるたびに草太は何処か居心地悪そうにしている。

 徐々に徐々に、草太の中でに対するストレスが増していくのが傍から見ている薫にも感じ取れた。


「そうか、時間を取らせてしまったね。君の先生も――うん、もう帰ってきているようだ。行って出迎えてあげるといい」

「了解です、ボス。では失礼します」


 張りつめた緊張を解かぬまま、草太はそれでもキチンと会釈はしてから足早に部屋を出て行ってしまった。ヨハン老人はそんな草太の態度を特別気にした風も無く薫に向き直る。


「客人を放っておいて、とんだ失礼を」

「いえ、とんでもないです」


 時間にしてほんの数十秒。突然にこの場に連れてこられた薫としても緊張を和らげる時間が欲しかった所だったので、おそらくそのを作る為の会話でもあったのだろう。

 向き直った老人の瞳には見て取れるほどの好奇に満ち溢れていた。今の奇妙な現象についての薫からのアプローチを待っているのだ。


「今のはその……、んですよね?」

「分かりましたか?」


 肯定と取って良い回答だろう。薫は頷いて、


「彼は――草太くん、は気付いていないんですか?」

とは長い付き合いですから、さすがに多少は――ね」


「普通は分からない、ということですか?」

「えぇ、初対面ではまず、気付かないでしょう」


 すぐに答えに思い至ったものの、薫はそれでも数瞬の間を置いてから口を開く――。


「じゃあ、私がここに呼ばれたのは――」


 自称・過激派の少年と謎の外国人達のボス、ヨハン・コワルスキーは視線の高さを変えないまま大きなデスクをぐるりと回って、ゆっくりと薫の前までやってきた――車椅子であった。


「足が悪いもので、このままで失礼します」


 思いがけないほどしっかりとした両掌で薫の両手を包み込むと、老人は破顔した。


「三崎薫さん、私は貴女を待っていたのですよ。――長い間、ずっとね」

 

     3.


 首都・東京を代表する繁華街の一つである渋谷、その南西に一つの軍事施設がある。

 アメリカ陸軍世田谷駐屯地――通称〝セントラルベース〟。


 東アジア情勢の緊張により頻発する小競り合いや、国際テロ行為に即応する目的で設置されたものだ。

 有事の際は軍事基地として機能するが、平時は自衛隊との合同訓練や兵站の管理、現状は専ら米軍人及び関係者の宿泊施設や交流の場として活用されている。


 設営されて数年、目立った不祥事もなく、在日米軍基地としての役目は無難に果たしていると言っていい。だが、〝セントラルベース〟にはもう一つ、隠れた役割がある。ベースメント――その地面の下に。

 アメリカに本社を持つ世界有数の複合企業体コングロマリット〝アインソフ〟グループが、ベース内の米軍からすらも半ば独立した占有スペース、言わば秘密部署を持っているのである。


 藍原草太、佐脇雪乃はその秘密部署の所属であり、彼らの正体は〝インテリジェンス〟、世に言うところの産業スパイである。

 ヨハン・コワルスキーは巨大商社アインソフの極東支部長にして、スパイ部署のボスでもあるのだった。


     4.


 ――鋭い左のジャブが二つ、間髪入れず右のストレート。弾いて受けた草太がちらりと目線を下げると、雪乃の右足が斜め前に一歩踏み込むのが見えた。

 すぐさま鉄鞭で打たれたかのような衝撃がやってくる。左ミドルキック。咄嗟に右腕で防いだものの、衝撃が体の芯まで届く。草太はたまらずバックステップ、距離を取った。


「守っているだけ? また死ぬわよ」


 冷たく響く雪乃の声。セントラルベース地下の機密施設の一区画、通称〝実験室〟では激しいスパーリングが行われていた。

 巨大な長方形のフロアは白いゴムに似た物質に覆われ、天井の照明は分厚い強化ガラスで保護されている。草太と雪乃が打ち合っているすぐ脇の壁面には天井と同じく、強化ガラスに守られたモニタリングルームが備え付けられている。


「ミーティング、そろそろ始めていい?」


 先ほど薫とも顔を合わせた白人女性がモニター室のガラス越しにマイクで声を掛ける。

 電子諜報シギント担当のレイチェル・ダ・シルバだ。メキシコ系アメリカ人で、NSA――米国家安全保障局での勤務経験もある。


 レイチェルの催促に雪乃は片手を上げて草太に合図した。〝ストップ〟だ。


「オーケー、それじゃ始めま――」


 草太が構えを解き、レイチェルが口を開くや否や、雪乃は草太に向かって右フックを繰り出した。すんでのところで頭を沈めてかわした草太も、雪乃のレバーに左の掌底を見舞う。

 が、体を捌いて受け流した雪乃はそのまま草太の背後を取ると、後ろから抱きしめるような形で羽交い絞めにした草太の耳元に囁く。


「終わり」


 その言葉に草太は体から力を抜いて、首元に回されている雪乃の右腕を二度叩いた。タップアウト。降参の意思表示を受けた雪乃は拘束を解くと同時に、わずかに口元を緩めた。


「ハイハイ、それまで! レイチェル、もう始めちゃって」


 ため息混じりで傍らのレイチェルに促すのは三十代半ばの白人男性、フランス出身のフレドリック・ルゥ。警護・保安要員でドライバーも兼任。先ほどの騒動でグルカを運転していたのもこの男だ。

 淡い赤髪に無精ヒゲ、俳優としてもやっていけそうな端正な顔立ちだが、かつてはフランス機動憲兵隊、国家治安介入部隊にも所属していた腕利きである。


 日本人の二人、佐脇雪乃と藍原草太の役割は実行部隊のチーフエージェントとそのアシストだ。年若くして特殊作戦群、準軍事工作担当官等の経歴を持つ雪乃。草太はその徒弟である。


博士ハカセは? いないの?」

照子テルコなら引きこもり中。処理班が持ち帰ったサンプル、えらく気に入ったみたい」


 草太の疑問にレイチェルがやれやれといった様子で答えると、実験室の照明が落とされた。

 壁面にアインソフの傘下企業である大手家電メーカーのロゴが映し出される。白い壁面は巨大スクリーンとしても使用できるらしい。


 スパーリングを終えた二人がグローブを外して床に座り込むと、強化ガラスを隔てた簡易ミーティングが始まった。


「まずはさっきの確保作戦スナッチ、三人ともお疲れさま。で、早速なんだけど」


 先ほど吉祥寺で起きた騒動の原因、三崎薫の映像が映った。角度からして駐輪場・駐車場内の監視カメラ映像だろう。続いて草太、雪乃、長身の外国人二人組も映る。


「この男は知っているわ」


 手にした小型タブレットを操り、雪乃は巨漢ヴォルコフの静止画像を巨大スクリーンに投影した。


「――この人、有名人?」


 巨漢の恐るべき技量を思い出したか、険しい表情の草太が意見を求めるように視線を向けるが、レイチェルもフレドリックも共にかぶりを振るのみである。代わりに雪乃が応えた。


「イワン・ニコライヴィッチ・ヴォルコフ。ロシアの軍人よ。元ね」

「お知り合い?」


 傭兵や工作員エージェントとなったかつての同僚が競合相手に雇われていることもある。

 レイチェルの問いかけに、雪乃はおもむろに口を開く。


「十年くらい前に一度、顔を合わせたことがあるだけ。――向こうは覚えてもいないわ」


 雪乃はどう見ても二十代半ばである。十数年前とするなら、現在の草太よりも年若だろう。どれだけ幼い頃から軍事の世界に身を置いてきたのか、空恐ろしくなる発言である。


「えぇと、イワン・ニコライヴィッチ・ヴォルコフ……、あった。ワォ、凄い情報量。通称は〝ヴォルク〟――オオカミね。第二次チェチェン紛争の後、退役したようだけど」


「もう一人の情報は?」

「監視カメラの映像から身元が分かったわ」


 すぐにレイチェルがデータベースにアクセスし、情報を投影した。ヴォルコフと一緒にいた〝キリルお坊ちゃん〟の顔写真と経歴が大写しになった。


「キリル・コノネンコ、二十歳のロシア人。コノネンコは母方の姓みたい。父親は――」


「ロシア陸将、ミハイル・アレクサンドロフ」

「どうして分かるの?」


 即座に言い当てた雪乃にレイチェルが驚きの声を上げた。


「チェチェン紛争末期、当時の現場担当官だったミハイル・アレクサンドロフがイスラム系のテロ組織に襲撃、拉致された。彼を救出した特殊部隊を率いていたのがイワン・ヴォルコフ」

「じゃあ、その時の縁から彼――キリルのお付きに?」


 フレドリックの言葉に雪乃は「おそらくね」と返す。


「キリルのの方はまだ解析中だけど……どうだった? その、二人からしたら」


 少し遠慮がちにレイチェルが尋ねると、


「ただの装甲種アーマードね。より少し大きいけど」


 隣に座ってボトルの水を飲んでいる草太の頭をくしゃくしゃと撫でながら、雪乃が応じる。


「その坊ちゃんよりもさ、あの女の子は? 何なの?」


 草太が少しうざったそうに雪乃の手を払いのけながら、逆に尋ねる。


「私たちも詳しくは――なんだけど、ボスがいきなり面会するだなんて、驚きだわね」

「確かに。まずは徹底した対象の精査、それからのはずだ。いつもなら」


 レイチェルに呼応するようにフレドリックも頷く。


「ボスから何か聞いてないの? 雪乃」


 何気なく水を向けた草太に、タオルで汗を拭いながら雪乃が応えた。


「〝原種プライム〟――」


 同時、雪乃以外の三人に異様な緊張が走る。――それが意味するものは何か。


「……冗談よ。可能性は低いわ」


 ニコリともせず雪乃が言葉を次ぐと、


「まぁ、その辺のことは通達待ちってことで……それじゃ、僕はそろそろお姫様を送り届けてきますかね」


 場をとりなすようにフレドリックが席を立った。レイチェルも照明のスイッチを入れつつ立ち上がる。


「さっきの今で向こうもちょっかい出してはこないと思うけど、充分に気を付けてね。今日はこれで解散するけど、どうする? まだここ使う?」


「クールダウンが残ってる。使うわ」

「オーケー、じゃあ戸締まりは忘れずにお願いね。お疲れさま」

 

 だだっ広いフロアに二人ポツンと残された草太と雪乃。本日のトレーニング、そのメインメニューは終了したが――、


「――で、今日は何〝死に〟?」

「3死に」


 である雪乃の問いかけに草太が答える。

 死に、とは作戦行動及び訓練中にリカバリー不可能、またはそれに準ずる状態を指す。――要は何度、命を落としかけたか? である。


 二人のトレーニングの約束事として、その日の〝死に〟回数分と同じセット数のサーキットトレーニングが補強運動として課されるのだ。

 1セットの内容は腕立て伏せ100回に始まり、ジャンピングスクワット、100メートルダッシュ、1分間のミット打ちから器具を使ったワークアウト等々、十数項目にもわたる。

 運動強度はそこそこに心拍数を上げることで心肺機能を徹底的にいじめ抜く、クールダウンとは名ばかりの地獄の補強運動だ。


「駐車場でヴォルコフに投げを返されたでしょう? あれもカウント」

「ぐぇ……じゃあ4だ」


 苦々しい顔つきの草太に目を細める雪乃だが、パートナーが必要なワークアウトには当然彼女自身が付き合わなくてはならない。監督役も言うほど楽ではない。


「4は縁起が悪いわ、5セットで」

「……うぐぐ」


 草太は観念したように、腕立て伏せプッシュアップを開始した。今夜も長い戦いになりそうだった――。

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蒼黒のユーベルメンシュ 小悪丸 @croc-ops

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