バディ・スナッチャー

     1.

 

 三崎薫が失神した直後だった。

 巨漢の背後から駐車場入り口のバーゲートを突き破って、一台の黒いSUVが猛スピードで進入してきた。

 軍事用装甲車と見紛うほどの重量感――アーメット社のアーマードビークル・グルカだ。


 速度を緩めることなく突っ込んできた黒のグルカは、失神した薫を抱えた巨漢に躊躇無くはね飛ばした。

 巨漢の体がボンネットからフロントガラス、ルーフへと転がっていく。


 はねられた巨体が地面に叩きつけられる――かと思いきや、巨漢は何事も無かったように着地していた。その体には何のダメージも見受けられない。全くの無傷だ。


 巨漢は自分から車のボンネットへ横向きに飛び込んで、車体表面を勢いよく転がって衝撃を減殺したのだ。人知を超えた身体能力である。

 巨漢の着地と同時、走行中の黒いグルカの後部扉リアハッチから人影が躍り出た。転がって衝撃を受け流すと、コンクリの地面に膝立ちになる。


 暗色のライダースーツに身を包んだ、二十代と思しき女性だ。

 黒髪のショートボブに欧亜混血風のエキゾチックな顔立ち、逞しくもしなやかな長身に、艶かしいまでのボディライン。

 その女――佐脇さわき雪乃ゆきのは腰のホルスターから拳銃を抜き放ち、膝射の体勢から巨漢に向けて二度発砲した。


 右脇に抱えた薫をかばうように巨漢が上体を捻る――と、直撃するはずの二発の銃弾はどういうわけか、どちらも見当違いの場所に着弾する。


流体操術システマ――」


 雪乃が忌々しげに吐き捨てた。システマとは旧ソ連で生み出された格闘技の名称である。

 ――が、いかに優れた武術でも亜音速で飛来する弾丸をかわす技術など存在しない。


 巨漢の着用するラッシュガードに金属が削られたような線条痕が残っていた。

 一定の角度以上で受けた衝撃を弾く先端技術の結晶、超極薄の傾斜装甲繊維が編み込まれているのだ。


 銃口から弾道を予測する驚異の動体視力、システマによる超人的な身体操作、そして最先端の傾斜装甲繊維。これら三つの機能的融合が巨漢の銃弾回避を可能せしめた。

 まさに奇跡のような所行だったが――、だからこそそう何度も続くものではない。雪乃が続けて引き金に指をかけた瞬間、巨漢が失神した薫の体を盾にしながら雪乃に接近する。


 薫の体では巨体の全てをとても隠し切れはしないが、急所にさえ当たらなければ、ということらしい。

 敵が優秀であればこそ人質を撃つことはしない、という確信あっての動きだ。


「――撃てないと思う?」


 雪乃のささやきが底冷えするような殺気を孕んだ瞬間――。

 雪乃の背後、先ほど薫が駆け下りてきた非常階段がけたたましい音を立てて崩れ落ちた。


 異変を察知した雪乃と巨漢はほぼ同時に三列ある内の中央の車列に身を隠す。

 直後、崩落部分の残骸から何者かが飛び出してきた。上半身にボロボロになったパーカーを申し訳程度にくっつけた少年――草太である。左の額辺りには血が滲んでいる。


「騒ぎすぎよ」


 雪乃が厳しい口調でとがめた。喉元のスロートマイクで草太へと伝わる。


「あっちに言ってよ」


 悪びれもせずに応える草太の視線の先、消失した非常階段の上からもう一つの影が飛び降りてきた。

 輝かんばかりの金髪と赤く巨大なガントレット。青い目を血走らせた若い男だ。

 草太が非常階段を駆け下っていたところ、男の両腕が階段の基部を一撃、破壊したらしい。草太はあえなく崩落に巻き込まれた様子である。


装甲種アーマードか――あなたの兄弟ね」

「ちがわないけど、ちがう」


 雪乃の指摘に草太はパーカーとハーフパンツを引っぺがしながら非難めいた声を上げる。黒いスキンスーツに包まれた、小柄ながらも鍛え上げられた肉体が露わになる。


「目的は達しました! 退きましょう、坊っちゃん!」


 同じく巨漢も、男に向かって日本語で呼びかけた。目的とは――薫のことだろう。


「黙レ、ヴォルコフ。ガキを殺ッてかラだ」


 男――〝坊っちゃん〟が訛りのある、それでも流暢といって差し支えない日本語で巨漢――ヴォルコフに返答した。声に並々ならぬ怒気を湛えて草太に近づいていく。


「なぁんだ、日本語しゃべれるのか」


 日本語が話せるのなら最初からそうしろ、とでも言わんばかりに草太が呟く。


「草太、確保」

「了解」


 雪乃の短い命令に草太は後退して距離を作ると、〝坊っちゃん〟に背を向けて駆け出した。


「クソガキ――!!」


 追いすがる〝坊っちゃん〟に対し、雪乃は姿勢を低くして車体のボンネットを支えに、片腕で拳銃を連射した。

 もう一方の手で腰のポーチから小型のスプレー缶のような物を取り出して放り投げる。


 〝坊っちゃん〟が巨大な両腕を盾にして、銃撃を物ともせず大股で走り寄る。草太の動きを捉えようと腕甲の隙間から前方を窺った瞬間、雪乃の投げた物体が空中で炸裂した。

 閃光手榴弾フラッシュバンだ。凄まじい光量が容赦なく〝坊っちゃん〟の眼を灼き、一時的に視覚を奪い去る。


「ヴォルコフ! 援護しろプリクローイ! ……ヴォルコフ!」


 悲鳴に近い声を上げながら、〝坊っちゃん〟は縮こまるようにしてその場に身をすくませていた。視神経にショックを受けた人体が起こす、自己防衛のための反射行動である。


「坊っちゃん……ッ、キリル! 早く変身をダワーイ! 半変身そのままでは!」


 車体の陰からヴォルコフが声を張り上げた。右脇に薫を抱えたままでは援護のしようもない。

 ヴォルコフの声が早いか、草太もヴォルコフの隠れる車体までたどり着いていた。駆けてきた勢いのまま、ボンネットを足場に宙空に跳び上がると――


「シィッ!」


 ヴォルコフの頭部めがけて飛び蹴りを繰り出した。ヴォルコフが空いた左腕で防ぎつつ、狭い車列の間から通路へと飛び下がる。


、下ろしたら? やりづらくない?」

「ご心配なく。このままで結構」


 小さな襲撃者に対して物腰柔らかく応じるヴォルコフだが、直後に幾度かの銃声が響き渡るとその表情に微かな乱れが走る。雪乃が坊っちゃん――キリルに向けて発砲し続けているのだ。


 わずかに生じた隙を逃す草太ではなかった。滑り込むようにしてヴォルコフの間合いに侵入する――が、すぐさまヴォルコフも反応し、左の拳で迎え撃つ。

 一撃で失神しかねない巨大な拳を紙一重で掌でそらパリングしつつ、草太はそのままヴォルコフの左腕を両手で掴んだ。ただ掴んでいるのではない、肘と手首の急所に指先をねじ込んでいる。


 ヴォルコフの腕に痺れに似た痛みが走ると、次の瞬間にはその巨岩のような体が軽々と宙を舞っていた。小手返し――合気道の技である。

 本来なら手首の関節を極めて相手をその場に崩して動きを制する技なのだが、あたかも投げ飛ばしたかのように目に映るのは、ヴォルコフが自ら跳躍してから逃れているためだ。


素晴らしいハラショー


 紛れもない賞賛の言葉が草太の耳朶を打ったかと思うと、ヴォルコフの巨体は華麗に着地していた。


「げェッ――!?」


 同時、素っ頓狂な声と共に今度は草太の体が宙を一転していた。――小手返しであった。

 空中での尋常ならざる身体操作で小手返しをいなしたヴォルコフは、瞬時に草太の腕を掴み取り、技をかけ返したのだ。小脇に女子高生一人を抱えながら、である。


 弧を描きながら背中から落下した草太だが、すぐさま立ち上がっていた。あまりにも綺麗に投げられたことでほとんどダメージが無いのだ。

 ヴォルコフがその気であれば、草太の手首や肘の関節を破壊するか、もしくは頭から地面に叩きつけることも可能であったはずだ。


「――ッ」


 草太は無言で身構えた。今の己の実力では天地が逆さまになっても勝てない相手だと、身を以て理解したのだ。

 ならば――と、草太が異形の肉体へと変じようとした時、二度の短い発砲音が響く。


「時間稼ぎ、ご苦労様」


 声も無くどうと地に倒れ伏すヴォルコフの巨体、その先に薫の体を支えた雪乃が立っている。

 キリルが視界を奪われ立ち往生している隙に、背後からヴォルコフを銃撃したのだ。


「撤収する。荷物は丁重に扱いなさい」


 自らの言葉とは裏腹に、雪乃はいまだ気を失っている薫の体を荒っぽく引き起こして草太の肩に担がせる。

 ついでに草太の頭を乱暴に撫で回した。何処となく、あまり機嫌が良くないことが窺える。


「……言われなくても」


 抗議するでもなく諦めたような顔付きで受け入れる草太。猫っ毛がくしゃくしゃだ。


「向こうで合流するわ」

「――? 一緒に行かないの?」


 草太の問いに雪乃が無言のまま後ろ手に背後を指差してみせる――と、突如として乗用車が一台、逆さまになって空中を横切った。向かいの駐車車両とぶつかり、騒々しくガラス片やサイドミラー、バンパー等を飛散させつつ落下する。


 ――直後、地鳴りのような轟音が場内に響き渡った。


     2.


「やっテくれたナ」


 車が飛来した方向、二本の太い支柱の間をゆっくりと移動する巨大な赤黒い塊――轟音の主は重々しい足音と低く濁った怒声と共に通路に姿を現した。


 はシルエットだけで判断するならば、ゴリラに似ていた。巨大な両腕を地面に垂らし、ナックルウォークのような姿勢を取っているせいもある。

 だがそのディティールは霊長類とは似ても似つかない。体毛の代わりに全身を覆いつくすのは暗赤色の装甲――外骨格だ。


「骨モ残さねェ……木ッ端微塵だ――!!」


 変身を終えたキリルであった。重兜にも似た赤黒い頭殻からくぐもった声が響いてくる。

 装甲に包まれた体躯は先ほどより二回り以上も肥大していた。鎧というよりは最早、巨大なパワードスーツでも着込んでいるかのような状態である。

 さらに丸太のように太い両脚の間には蛇腹状の長い尻尾が鎌首をもたげている。


 草太の黒い装甲外骨格が体のラインに合わせた若干の丸みを帯びているのに対して、キリルのそれは揺らぐ炎のように荒々しく不規則だ。まるで本人の精神や感情がそのまま体表に現れ出でているかの如く――。

 

「こっぱみじん……」


 無意識なのだろう、草太が小さく声を漏らした。目を丸くして巨影に見入っている。


「日本語上手いわね――あなたより」


 雪乃が冗談混じりに言うと、


「ね」


 相手の語彙力に素直に感心しているらしく、草太は言葉少なに同意した。

 皮肉の通じない教え子に少し呆れているのだろう、雪乃は冷たい美貌をほんの少し曇らせる。


「早く行きなさい」


 溜め息混じりの雪乃の声と同時、往路側の通路を黒いグルカが逆走してきた。


「アレは一人じゃ無理――あ、なるほど」


 すぐに得心が行った様子で頷くと、草太は器用に車列を抜けてグルカに向かっていった。雪乃の体表がゲル状の薄い皮膜のようなものに覆われていくのを目にしたからだ。


 雪乃もまた〝変身〟を開始していたのだ。

 ゲル状の物質は徐々に青味を帯び、雪乃をライダースーツごと包み込んでいく。全身を覆う青いグラデーションの掛かった体表には不可思議な紋様が刻まれている。

 流線的なフォルムはより人体構造に近く、女性的なボディラインが幾らも損なわれていない。草太やキリルの外骨格とは少し性質が異なるようだ。


 特徴的なのは頭部だ。

 顔の上半分は西洋兜のバイザーのように覆い隠されているのに対し、下半分は滑らかな表面に人間の唇に似たものがある。

 しかも実際に声を発する器官ではなく、あくまで唇をかたどっただけの意匠であるらしい。


悪魔マグス……!」

魔術師メイガスって呼ぶのよ――では」


 驚嘆するキリルにハスキーな声で応じる雪乃。その体表のそこかしこに波型の吸排気口らしきものが現れると、場の空気に異変が生じ始める。

 突如として周囲の温度が下がり始めたのだ。場内の車の窓が車内との温度差で次々と曇っていく。夏場――七月下旬の東京では絶対にありえない、吐息が白く染まりそうなほどの異常な低温である。


 雪乃の体表に出現した吸排気口が急速に大気から熱を奪っているのだ。駐車場全体がコンクリートと垂れ幕で覆われている為に場内の冷却は恐ろしく早い。

 草太がグルカにたどり着き振り返ると、雪乃の体表の文様が吸い込んだ熱を誇示するかのように発光し始めた。ホタルの発光と同様の冷光現象である。


「……ブリザード」


 明らかな畏怖の念を込めて草太が呟く。意識を失いながらも周囲の冷気を感じ取ったか、肩に担がれた薫の体がブルッと震えた。


「荷物確保! 出して!」


 薫を抱えた草太が後部座席に乗り込むや否や、グルカはドアも半開きのまま発進した。グルカが駐車場を出たのを見届けると、十分に熱を溜め込んだらしい雪乃の体がより強い光を発する。

〝何か〟を起こす前触れ――危険信号とも取れる現象だが、その青白い光は同時に見る者を魅了する妖美な輝きに満ちていた。


 やがて雪乃の背面部吸排気口がジェットエンジンのノズルのような形に変わると、まるで大気が悲鳴を上げているかのような甲高い音を発し始める。取り込んだ空気を圧縮し始めたのだ。


 青い外皮の表面をゲル状の物質が重なるように覆っていく――と、突如として耳障りな金属音と共に何かが空を裂いて飛来した。

 雪乃が半歩体を引くと、横薙ぎに走った蛇腹状の尻尾が傍らの柱に深い亀裂を作る。


〝何か〟が起こるのをただ待っているほどキリルも愚かではない。赤黒い巨身が意外なほど素早く跳ね上がると、雪乃めがけて文字通り鉄槌のような両拳を振り下ろす。

 雪乃が飛び退いて回避すると続けざま、頭上から巨大な踵が襲いかかった。前転しながらのあびせ蹴りだ。これもかわす――と再度、蛇腹状の尾が唸りを上げて襲い来る。


 溜め込んだ空気の圧縮を続けながら、雪乃はそのことごとくを回避してみせる。

 華麗にステップを踏み、時には地面スレスレにまで身を低くして。さながら舞踏か拳法の演武のようだ。


 不意に尻尾による横薙ぎの一撃が雪乃の下腿を狙った。雪乃は高々と飛び上がって回避――と見るや、キリルの巨体が動いた。

 跳躍中の雪乃に対し、渾身のバックハンドブローを繰り出す。空中にあっては避けることは出来ない、仮に防いだところで大ダメージは免れない。


 が、しかし巨拳は虚しく空を切り、勢いよく柱にめり込んでいた。雪乃は――?


 ――雪乃は駐車場の天井に逆さま、四つん這いになって張り付いていた。まるで爬虫類のように。


「くそったれめ――」


 毒づいたキリルが赤鉄の尻尾で追撃をかけるも、雪乃は再び身を躍らせて今度はキリルの背部へと取り付いた。

 引き剥がそうと試みるキリルだが、両腕の外骨格の可動域が思った以上に狭かったらしく、背中にまで手が届かない。

 ならば――と、巨軀を打ち振って雪乃を振り落としにかかるが、いかなる原理か、雪乃の体はピタリと吸着して微動だにしないのだ。


 AAHHHGGGHHAAA――――!!!!


 激昂したキリルは暴れに暴れた。両腕と鉄尾を振り回し、巨大な体を躍らせながら雪乃を引き剥がそうとするも、雪乃はその度に柱や天井に飛び付いて逃れてしまう。

 そして再びキリルの巨大な頭部や背中にぴたりと張り付く――その繰り返しであった。完全に遊ばれていると言っていい。


 その間も雪乃は溜め込んだ空気の圧縮を継続しているが――ふと、キリルの腕部に取り付いていた雪乃が素早く跳び離れた。

 直後、雪乃が取り付いていた場所から無数の鋭いトゲ状物質が勢いよく突き出す。仕掛けをかわされた怒りか、キリルは荒々しい唸り声を上げた。一方、間一髪で逃れた雪乃は――


「馬鹿ね」


 鼻で笑った。無表情な仮面の下で余裕の表情を浮かべているのが目に見えるようだ。いつの間にか高音域の空気圧縮音も止んでいた。

 激情に駆られ突っ掛けるキリル。怒気を孕んだ巨大な拳がしゃがみ込むように身を屈めた雪乃の頭上を通り過ぎていく。

 ――同時、雪乃は屈曲した体のバネを利用して、キリルの懐に両足タックルダブルレッグの形で勢いよく飛び込んでいた。


 両者の体が接触した瞬間、耳をつんざくような爆音と共に溜め込まれた圧縮空気が一気に放出される――。

 発生した衝撃波で場内の車のガラスが一斉に砕け散り、何十個もの警報機が作動。やかましく鳴り響いた。


 解き放たれた圧縮空気がもたらす、刹那にも満たぬ、極々僅かな時間の超音速――。

 その恐るべき推力によってキリルの巨体は駐車場最奥部まで吹っ飛ばされ、巨体の半分以上が壁面にめり込んでいた。前面部装甲は爆破でもされたかのように粉々に砕け散っている。


 頭殻部分に辛うじて残った赤茶けた繊維質の合間に覗くキリルの眼、半ば意識を失いかけて朦朧とした青い瞳に雪乃の姿が映る。


 蒼く美しい雪乃の外皮が炭化・硬質化し、ベリベリと剥がれ落ちていく。強制的な変身解除フォームアウトだ。超音速での体当たりは雪乃にとってもノーリスクではないらしい。

 元から着用していたライダースーツも焦げ落ちて、インナーのスキンスーツが露わになっている。素材は草太の物と同じようだが、こちらは灰色を基調とした多目的迷彩色である。


「今日のところは勘弁してあげる」

「――!?」


 虚ろだったキリルの目に光が戻った。相手に――しかも女性に――情けをかけられたことに対して、強い憤りを覚えたらしい。

 キリルの射るような視線を気にも止めず、雪乃は颯爽と駐車場の囲いを乗り越えて姿を消した。グルカとは別に用意していたのであろう、すぐにバイクのエンジン音が木霊した。

 

 ――去り際に浴びせられた冷笑に、キリルの眼光がさらに鋭くなった。


     3.


「坊っちゃん、動けますか?」


 ほどなくしてヴォルコフがキリルの元へと駆けつけていた。発砲を受けて倒れていたはずだが、その割には目立った銃創も出血も見当たらない。


「……不死身か、お前は」

「いやいや、危なかったです。命からがら」


 赤黒い破片を撒き散らして壁面から抜け出てくるキリルに手を貸してやりながら、ヴォルコフが応じる。


「その割には随分と余裕あったな……お陰でテンションが下がっちまった」

「余計な心配をおかけしてもいかんかな、と」


 ニッと笑ってVサインを作ってみせるヴォルコフ。どうやら銃撃を受けた際、敵方二人には気づかれぬよう、無事であることを示すVサインを送っていたようだ。


「おい、もういいって。……ああ、くそ、気持ちが悪い、昼飯を戻しそうだ」


 変身を解いたキリルは衣服もボロボロ、半裸の状態で壁に寄りかかった。衝突によって揺さぶられた脳と三半規管に多分にダメージが残っているのだろう。


「おんぶですか? 坊っちゃん」

「ばかやろう」


 キリルがヴォルコフの肩をボンと殴ると、ヴォルコフはおどけた様子で痛がってみせる。


「――では、急ぎこの場を離れるとしますか。人止めも限界でしょう」


 警報機の大合奏に混じり、パトカーのサイレンが聞こえ始めていた。キリルは気を抜くと逆流しそうになる胃液を堪えながら苦しげに頷くと、グルカが走り去った方角を見やり、


「くそったれ共が。次は絶対殺す――女も、あのガキもだ」


 関節技で壊されかけた右肘を手で揉みながら、ギリギリと奥歯を噛み締める。


「まぁまぁ、思わぬ収穫もありましたから。さ、駆け足ですよ! 坊っちゃん」


 何処からか小指の先くらいの金属片を取り出してみせた後、ヴォルコフは巨体に似合わぬスピードで走り出した。釈然としない表情のキリルが覚束ない足取りでその後に続く――


「あとお前なぁ、もういい加減〝坊っちゃん〟は止せよな」

「了解しました――キリルお坊っちゃま」

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