第1章:ファウストコンタクト
逢魔が時
1.
「お待たせ~。
その声に
「いいよー、どこ行く?」
雑誌を棚に戻しながら応じ、級友の
無意識のうちにファッション誌の華やかさに当てられたのかもしれない。薫は出口付近の防犯ミラーを見ながら、身なりを整えた。制服のブラウスとスカートに特におかしな所はない。
外の暑さに備えてセミロングの黒髪を手早くゴムで束ねてポニーテールにすると、今度は鏡に顔を近付けて念入りにチェックする。
ややきつめの目元が本人からすると気になるのだが、こればかりは生来のものなのでどうしようもない。
二人を待たせたらいけない――と顔を上げると、考えることは同じなのか、級友二人もすぐ隣で似たようなことをやっていた。その様子が可笑しくて薫は思わず笑みをこぼした。
七月下旬、東京――吉祥寺。
夕方になってもまだ日差しが強い。うだる様な暑さだが、週末の金曜日のせいか、駅前には多くの人が行き交っている。
所属するテニス部の練習も今日は休みなので、薫達三人も制服のまま人込みに混じって駅前をぶらぶら――といったところである。
既に期末テストも終っている。言わば消化試合の授業、悲喜こもごものテスト返却を経て、週明けの終業式の後は夏休みだ。
一年生の薫達には高校最初の夏休みだ。部活にアルバイト、三人で小旅行に行くのも良い。浮かれ気分でそんな話をしていると、
「よっし、今からケーキ行くか。ケーキバイキング」
有子が鼻息も荒く提案した。明るい髪色のショートカットに日に焼けた肌、活発な印象そのままの女の子だ。男兄弟が多いせいか、竹を割ったような性格である。
「バイキングねぇ……早紀はどうする? どこ行きたい?」
ケーキバイキング。心を揺さぶるその甘美な響き。財布の中身と体脂肪、その二つさえ気にしないのであれば毎日でも行きたい場所であろう。薫は曖昧に応じながら早紀に話を振る。
「二人が良いなら私はどこでも。あんまり遅くまでは――、だけど」
艶々したストレートの長い髪に
「そっか。じゃあ、駅近くの喫茶店にしない? ケーキもあるしさ、遅くもならないし」
「んじゃ、そうすっかぁ」「うん、それが良いよ」
折衷案と言うほどのものでもないが、薫は普段通り二人の間を取って了承を得た。
三人の中での薫の役割は〝中間〟だ。一人抜きん出ることなく、動的な有子と静的な早紀――二つの個性のバランスを取る役どころである。
髪型にしても、ショートの有子とロングの早紀に対して、セミロング。服装等ファッションに関しても、開放的な有子と落ち着いた早紀の間を取った物を好んで身に付ける。
薫が意識的にそうしているわけではない。元より持ち合わせていた薫の個性が自然に二人の間に収まったのだろう。薫自身も座りの悪さなど無く、むしろ居心地の良さを覚えている。
「ところで早紀、バスケ部の人、どうしたの?」「はン? 何それ?」「その、ね、……告白をされまして」「マジで!?」「あれ、前にも話さなかったっけ?」「だったっけ? で、返事は? 付き合うの!?」「落ち着け落ち着け」「……断っちゃった」「マジで!?」
三人連れ立って、他愛の無い話をしながら喫茶店へ。日常の一コマである。
2.
「それじゃ、また明日ね」「朝練あるから忘れんなよ、薫」
「そっちこそ! じゃあ、また明日」
小一時間ほど無駄話に花を咲かせた後、喫茶店を出て帰路に付いた。有子と早紀は駅へ、薫は常用する駐輪場から自転車で自宅へ帰る。
中央線の高架下、二階建ての駐輪場は安全第一と書かれた垂れ幕にすっぽりと覆われていた。今朝、薫が自転車を置きに来た時点では無かったものだ。何かの工事でも始まるのだろう。
場内は垂れ幕のおかげで外の光がほとんど入り込まず、かなり薄暗い。既に夜間用の照明も灯っていた。
元々が明るい雰囲気の場所ではないので、余計に不気味に感じられる。普段、軽く会釈なり挨拶なりする初老の管理人も今日に限って姿が見当たらない。
おまけに奇妙なまでに静かだった。大通りを走る車の音が微かにするのみで、先ほどまでの町のざわめきが全く聞こえてこないのだ。夜半や明け方ならまだしも、週末の夕方である。
――まるでこの駐輪場だけが外の世界から切り離されてしまったかのようであった。
ふとフェンスの先、垂れ幕の隙間から外の様子を窺ってみようか……? という馬鹿げた衝動に駆られた薫だが、すぐに持ち直して自転車の止めてある場所へと急いだ。
優先すべきは〝とっとと帰る〟ことだ。
小走りに自転車までたどり着くと、ロックを外し、一刻も早くこの場を離れたい一心からマナー違反を承知でサドルに跨ろうとしたその時、すぐ傍の柱の向こう側から人影が現れた。
「あわ、わッ」
不意に現れた人影に驚きのあまり素っ頓狂な声を上げた薫であったが、その正体を見るや、数瞬、言葉通りに二度三度と瞬きを繰り返すと、ホッと息をついた。
薫とそう年の変わらないであろう、小柄な少年だったのだ。
数週間前、貯水施設で奇怪な生物に変じた男と対峙、自らもまた異形の姿に変身して格闘戦を繰り広げた少年――藍原草太である。
ひょっこり現れた草太少年は、緑の半袖パーカーとグレーのハーフパンツ。それに加えて先と同様、インナーとして体表に密着したスキンスーツを着用している。季節感があるのか無いのか分からない。
何だ、ちょっと生意気そうな子供じゃないか――と、多少の落ち着きを取り戻した薫は、改めて自転車を手で押しながら草太の脇を通り過ぎようとすると、
「あのさ、」
草太が薫に声を掛けた。薫はつい足を止めて視線を向けてしまう。すぐにでもこの場を去りたい所であったが、変な声を上げて驚いてしまったので少々バツが悪い。
草太が何事か言おうと口を開きかける――と、何処からか奇妙な音が聞こえ始めた。
口笛だ。外国の民謡のような曲調だが、薫には聞き覚えのないものだった。音量だけがむやみやたらと大きいだけでお世辞にも上手いとは言えない。
ゴツリゴツリ、とブーツが地面を踏みしめる音と共に駐輪場の出口に続いているスロープから若い男が歩いてきた。
輝くような金髪に真っ白い肌の外国人だ。年齢は二十歳くらいだろうか。
一八〇センチを優に超える長身、形の良い高い鼻に青い瞳。美男と言って差し支えない顔立ちだ。
派手な柄のシャツをはだけさせた胸元にはごつい銀のネックレス、編み上げのパンツにワニ革のブーツ。少なくともフォーマルな服装ではない。
その長身の外国人がゆったりとした足取りながらも、足が長く歩幅が広いせいか驚くほど速く薫と草太の前までたどり着くと、やや調子の外れた口笛も止まった。
「
英語ではないことくらいは薫にも分かる。十中八九、挨拶なのだろうが薫には返答しようが無いし、そもそもする気も無い。
言葉が分からないのを良いことに愛想笑いでやり過ごそうとするも、長い右腕が薫の行く道をさえぎってしまった。
さらに、まるで品定めでもするかのような目付きで、男は薫の全身を眺め始める。いくら顔立ちが良くとも、女性に対してこれほど無遠慮な視線を向ける男性もそういないだろう。
道でも尋ねたいのだろうか? 薫の脳裏に一瞬お気楽な推測が広がるが、それならば近くの交番にでも行けばいい。男の風体からして、あまりありがたくない用件であろう。
大声を上げてしまおうか、とも考えたが、人気の無いこの状況では効果はあまり期待できない。それ以前に薫の体は不安と緊張でこわばり、声を上げるどころではなかった。
「
突然、草太が薫と外国人の間に割り込んだ。
「オレのが先、ね?」
草太が薫のすぐ目の前に立ち、男と同じように右腕を広げる。草太が男と向かい合っているせいで、薫を守っているようにも見える。
「下がってて、あぶないから」
草太が手の甲でポンと薫の自転車のカゴを叩いた。薫からしたら少し頼りないくらいの
一方、日本語が分かるのかどうかは定かでないが、草太の行動の意味は分かったのだろう。男の表情が一変した。
笑ったのだ。目尻を鋭く吊り上げ、尖った犬歯を剥いて。まるで獲物を見つけた猛獣のような凶暴な顔付きは、なまじ結構な美男だけにより一層に禍々しい。
直後、男は何の警告もなく草太に殴りかかっていた。あまりに唐突すぎて薫は何の反応も出来なかった。暴力に対する恐怖や嫌悪の感情すら湧き起こらない。
草太が跳び退いて男の拳をかわすと同時、薫の真横に並んだ。同時に薫のワイシャツの後ろ襟を掴み、彼女の膝裏を爪先で押し蹴って、背後にひっくり返るようにして転がっていた。
「うひゃあぁぁ!?」
突然の平衡感覚の喪失。地面に叩きつけられる自分を想像して、薫は叫び声をあげていた。――だが予想に反して衝撃も痛みもやってこない。
薫の体は草太に引っ張られながらゴロンと地面を一回転、元の立ち位置の二メートルほど後方に立っていた。支えを失った自転車がガシャン、と音を立てて横倒しになる。
一瞬――、まさに瞬きの間に多くのことが起こっていた。
襲い来る拳を避けた草太に対し、男は続けざま、その長い右足で回し蹴りを放ったのだ。
蹴りは草太だけでなく薫ごとなぎ倒す勢いだったので、草太は足先で薫の体勢を崩し、伸膝後転に近い形で二人同時に転がったのだ。
転がる前も後も変わらず棒立ちの薫ではあったが、目を白黒させながらも、
「あの……ど、どうも」
引きつった声でとりあえずの礼を口にした。後ろ倒しになる最中に男のブーツが顔面スレスレを走り抜けていくのを視界に捉えていたからだ。
状況がさっぱり理解できない様子ではあれど、少なくとも少年――草太の方は自分に危害を加えるつもりが無いようだとは分かったらしい。
片や、何の警告も無しに女子高生ごと蹴り倒そうとする外国人である。
「いいから。ちょっと下がってて」
草太は冷静に応じて、乱暴ではないがやや邪険に薫の体を後方へ押しやった。
「――シィっ!」
間髪入れず、男が一足で迫ってきて左右の拳で草太に殴りかかってきた。めまぐるしい暴力の応酬が始まった。
男が殴り、草太がかわす。男が蹴る。草太が避ける。今度は草太が殴る。男がかわす。
草太の蹴りを男がすねで受け止める。殴る。蹴る。かわす。蹴り、受け、殴り、かわして――。
しばらくの間、薫はただ呆然と眼前の争いを眺めていた。突然の暴力行為に思考停止に陥っているのだ。
『この人達は一体、何で喧嘩しているんだろう? そもそもこの二人は一体、何者なんだろう? 知り合い同士の喧嘩?』
『いや、それ以前に私はここで何しているんだろう? 早く家に……、ああそうだった。家に帰らなくちゃ――』
時間にして十秒ほどだったろうか。我に帰った薫は目立たぬよう細心の注意を払いながら、じりじりと倒れた自転車に近づいていく。
目の前で唸りを上げて展開される暴力の嵐。本来なら一ミリたりとも近寄りたくはないが、自転車のカゴに積んだ個人情報満載の学生鞄を置いてはいけない。
都合の良いことに倒れた自転車の近くには非常用の下り階段がある。争う二人に警戒しつつ、薫はタイミングを計る。
意を決して自転車に駆け寄ると、鞄を引っ掴んで立ち入り防止の柵を飛び越え、一目散に階段を下る。男が何事か口走ったが、気にも留めなかった。
駐輪場の一階部分は自動車を停める駐車場で、二階部分よりもさらに薄暗い。急に飛び出しては危険かとも思ったが、幸い場内を走る車はなかった。
――いや、走っている車があれば、助けを求めることもできたので、どちらかと言えば不運かもしれない。
とにもかくにも全力疾走である。後ろから誰か追いかけてくるんじゃないか? 捕まってしまうんじゃないか? そんな不安に駆られながら走る。走る、走る――。
息を切らしながら薫は、もう二度とこの駐輪場は使うまい、と心に決めていた。明日からはバスを使おう、とも。今日のこの出来事を話せば、両親もバス通学を勧めるに違いない。
あと一〇メートルも走れば出口、というところだった。今のところ誰も追いかけてきてはいない。分かっていながらも背後を確認し、視線を前に戻した瞬間――、
「えッ……!?」
眼前に突如として、壁――。薫は慌てて立ち止まり、そして絶句した。
もちろん本当の壁ではなかったが、それがあまりにも巨大だったので一瞬、壁かと錯覚してしまったのだ。
それは身の丈が二メートルほどもある大男だった。薫が十六年間の人生で出会った中では、間違いなく一番の大人物である。
圧倒的質量に再び棒立ちになった薫は、巨人が伸ばした手が自らのシャツの後ろ襟を掴んだことに気付かず、まるでクレーンゲームの景品のように真上に吊り上げられていた。
「あれっ? あの、ちょっ……あのッ!?」
前後左右、どんなに頑張っても動けない。薫は上体をばたつかせ、抗議の声を上げた。
吊り上げられたことで身体が限界まで伸び切ってしまっているため、歩けないどころかバランスを取ることすら覚束ない。
「どうも、いきなりで済みません」
眼前の巨人が発した、よく通る低い声。薫がハッとして見上げると巨人と目が合った。
スキンヘッドに彫りの深い顔。この巨漢も外国人だった。年齢は四十歳前後、紺のラッシュガードに暗い迷彩色のカーゴパンツという身なりだ。
階上の若い男と――気性も含めて――同じ人種だとすれば、薫にとっては危険極まりない人物だが、大作りな顔立ちにあるのは意外なほどに優しい目付きである。
巨漢の外国人は重機のように薫を吊り上げたまま、少し困ったような微笑を浮かべた。階上の男とは違い、敵意や威圧感等のネガティブな感情を全く発していない。
小さなウサギを目の前にした巨象のような、余裕と落ち着きを感じさせる表情だった。
「ちょっ――と、失礼しますね」
完璧な発音の日本語と共に巨人のもう片方の手、太い二本の指が薫の首元にスーッと伸びてきてノド横の二点をピタリと押さえた。
『……これはもしかして、首を絞められているのでは?』
指先が当てられてから物の数秒。あ微かな息苦しさと共にわずかな疑念が生じた矢先、まるで魔法にかけられたように薫は人生初の失神を経験することとなった。
落ちる寸前、薫の脳裏によぎったのは――、
『ああ、ケーキバイキングに行っておけばよかった……』
3.
「
一方、薫に逃げられた階上の男は声を上げていた。
すぐさま追いかけようと意識を向けた瞬間、眼前の草太の体が羽毛の如くふわりと舞い上がり、男の右腕に絡み付いていた。
草太の両足が男の右腕を挟み込み、両手で男の右肘を可動域の逆方向に引き伸ばしている。
関節技――跳び付き式の、腕ひしぎ逆十字固めだ。肘関節をてこの原理で破壊する技である。
上体で男の腕を固定しながら草太が腰を反ると、ミシッという何かが軋むような音が微かに響く。
腕十字の確かな手応えから、草太はそれが関節の破壊される音だと認識したが、
「――
男がぽつりと言葉を発した途端、草太が掴んでいた右腕が急激に膨張した。――否、正確には左腕と両肩、背中もだ。
柄シャツの腕部が破れ落ち、前を止めていたボタンも弾け飛ぶ。まるでギリシャ彫刻のような男性的で力強い筋肉が刻まれた上半身が露わになった。
右腕を破壊される寸前に
僧帽筋から大胸筋に広背筋、そして肩から上腕、前腕、両の拳。
両腕とそれを支えるパーツのみの限定的な〝
異変を察知するが早いか、草太は一も二もなく男から距離を取っていた。
その手にはまだ、明らかに人肌ではないが石とも金属とも違う――またそのどちらでもあるような――不気味な硬度と質感を持った感触が残っている。
「
毒づいた男の上体は赤黒い物質に覆われて盛り上がり、異様なシルエットを作り上げている。草太が〝変身〟した際のそれにも似ているが、急所である頭部や腹部は露出している特異さも相まって、まるで古代ローマの
「な~にが
またも異形の怪人と相対することとなった草太はぶつくさとぼやきながら、男に体を向けつつも円を描くようにしてじりじりと非常階段に近づいていく。
――と、その時、階下から大きな物音が響いた。車のエンジンが唸りを上げる音、それだけなら草太も男も注意を引かれなかったろうが、続いて響いたのは二度の轟音――銃声だ。
発砲音を聞くや否や、草太は姿勢を保ったまま後方の非常階段に向かって跳躍していた。ほぼ同時に男の赤黒い巨腕が草太のいた空間を横薙ぎに払っていたが、パーカーの布地を引き裂くだけにとどまった。
一足早く非常階段にたどり着いた草太に遅れまいと気合十分、男は感情に任せて巨大な両拳を打ち鳴らす。
が、金属が擦れ合うような不快な音はどうやら本人も意図しないほど耳障りだったようで――、
「
再び毒づいた。
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