蒼黒のユーベルメンシュ

小悪丸

序章

暗渠にて


 サッカーグラウンドほどもある広間に太いコンクリート製の支柱が何十本も建ち並んでいる。関東の地下三〇メートルに広がるその空間は、さながら巨大な神殿のようだった。

 埼玉県春日部市、首都圏外郭放水路――調圧水槽。周辺地域の洪水を防ぐための施設である。


 七月初め。梅雨による集中豪雨の影響で天井から染み滴る雨粒は、ひんやりと湿り気を帯びた空気に混ざって地下の石柱群を薄く霧がからせている。

 そんな幻想的な光景の中、藍原草太あいはらそうたは一人その時を待っていた。年齢は十四~十五歳、小柄だが目鼻立ちのぱっちりとした利発そうな顔付きの少年である。

 

 少年――草太の体はダイバーが着用する物に似た暗色のスキンスーツに覆われていた。

 首から爪先まで全身にぴったりと張り付くようになっているため、年若いながらも鍛え上げられ、絞り込まれた体をしているのが分かる。


「見過ぎるな、いつも通りに――」


 己に言い聞かせるように両掌で頬を叩いて気合を入れる。多少の緊張と、何より体をほぐすために草太はその場で軽いストレッチを始める。


『――聞こえる? 直に目標がそっちに出るわ』


 不意に草太の耳裏に貼り付けられた小型受信機から女性の声が届く。ハスキーな――だが何処か非人間的な――冷たい印象を受ける声。


「聞こえてるよ、雪乃ゆきの


 草太は腕を十字に組み、上腕三頭筋を伸ばしながら応答した。スキンスーツの喉元、その裏地にはスロートマイクが取り付けられている。マイクがONの状態であれば、そのまま喋るだけで声帯の振動が伝わり通信相手へと届くようになっている。


「相手は?」

半々デミね、私が接触した時点では』


「まぁ、何とかなるかな」

『あまり舐めてかかると――、死ぬわよ』


 ささやくような雪乃の声が凄味を帯び、草太の耳に低く響く。


「あんたの弟子だからね、簡単にはやられない」


 慣れているのか、草太は別段気にした様子も無く応答する。――が、


『声が震えているわ。――怖い?』

「……、少し」


 おもむろに動きを止めると、決まり悪そうにぽつりと呟いた。


『正直ね』

「雪乃に隠したってしょうがないだろ」


 照れ隠しなのだろう、草太は不機嫌そうに眉をひそめてみせた。


『いいわ、いつもの顔』

「見えてないのに」

『分かるわ。そういうものよ。通信終わり』


 唐突に切られる通信。〝目標〟が近いのだ。草太は意識を締め直すために瞑目、気息を整えた。身体もほどよく温まっている。微かな震えはもう収まっていた。


 通信を終えて数十秒――。調圧水槽の中央部に位置取る草太の眼は、薄らと霞掛かった空気の向こうに人影を捉えていた。

 モスグリーンのレインコートを着た長身の男。目深にフードを被っているので、その表情まではうかがい知ることは出来ない。

 

 男は遠目に草太の姿を認めると、躊躇無く中央部へと歩を進め始めた。石柱が建ち並ぶ死角の多い空間は伏撃される可能性が極めて高い。

 命知らずとも取れる行動だが、男は既に覚悟を決めているようだ。一本道に造られた放水路、むざむざ自分を逃がすはずが無い。必ず挟撃か待ち伏せがあるはずだ――、と。

 

 目標の接近に草太も大きく深呼吸を一つ、大股で男に近付いてゆく。相手の狙いや状態が何であれ、草太のやるべきことは一つ。

 戦って勝つ――、それだけだった。

 すぐさま二人の距離が詰まり、どちらからともなく歩みが止まろうとした瞬間、


горосゴーラス


 ぼそり、と男が低い声で呟いた。

 ロシア語――? と、草太が反応するが早いか、男の体が草太に向かって勢いよく跳躍した。直線にして約一〇メートルをたったの一足で。尋常の脚力ではない。

 

 レインコートの袖から飛び出した血色の悪い腕が草太の顔を鷲掴む――かに見えたが、それは叶わない。草太の頭部が男の五指をするりと後ろにすり抜けると同時、


「ひゅッ」


 呼気も鋭く、草太の左脚の爪先――上足底による前蹴りが男の胴を正面から蹴り抜いていた。

 男の突進の勢いが加算されてカウンター気味に当たったが、元よりダメージを与える目的の蹴りではない。


 小柄な草太と長身の男。その体格・体重のハンディキャップが生む作用反作用の力を利用した、第二撃への布石である。

 草太は男の体をとして蹴りつけることで、勢いよく後方へと飛びのいたのだ。

 

 勢いを殺さないようバックステップしながら、背後のコンクリートの支柱を器用にも後ろ向きのまま二歩三歩と駆け上り、ぐぅっと身をたわませると、


 「せぇ――、のッ!」


 全身のバネを使って弾かれたように跳躍。一瞬、草太の体が地面と平行になって――、全体重を乗せた右の膝蹴りが男の顔面にぶち込まれる。

 肉を打つ鈍い音と共に男の上体がのけ反り、両腕が力なく宙を掻いた。右膝から体幹へと伝わる重い衝撃に草太は確かな手応えを感じる。


 このまま畳み掛けを――

 そう思った瞬間、突如として草太の視界が遮られ全身が冷たいものに包まれていた。


 水滴だ。直撃を受けた男が半ば浮き上がった片足を強く踏み込むと同時、コンクリの地面に広がっていた水溜りが噴水のように噴き上がったのだ。


「――ッ!?」


 視界を確保――どころか、悪態を吐く間すら無かった。左から水の壁を突き抜けるように何かが草太の側頭部へと襲いかかってきたのだ。

 恐らくは男の右腕なのだろうが、視界を奪われた草太には判別できない。草太の体はいまだ空中にあり、回避は――間に合わない。


 草太は咄嗟に左腕で頭部をかばいつつ可能な限り脱力することで、体内に衝撃を受け流すための〝じゅう〟を作った。

 直後、まるで鋼鉄のハンマーでぶっ叩かれたかのような一撃。その威力たるや、草太の体が空中でおよそ一回転半、約五四〇度も回転したほどだ。


 そのまま地面に真っ逆さま――かと思いきや、男の左手が万力のような強い力で草太の足首を掴んでいた。

 抵抗する暇も無く草太の体は宙空を縦横無尽に振り回された後、勢いよく放り投げられ、数間先の水溜りに転がった。


 重さにして五〇キロ弱とはいえ、人間一人をボロ切れ同然に扱う腕力は、最早人間のそれではない。その事実に呼応するかのように、レインコートの下から現れた男の姿も、また。


 体格が先刻よりも明らかに大きくなっている。半裸の肌は不気味な緑灰色で鱗のようなものまで生じており、薄らと漂ってくるのは腐水の臭い。

 フードの下から現れた顔は人間と爬虫類の中間と言ったところだ。頬顎の下にはえら、眼球はまぶたの変わりなのか、奇妙な皮膜が瞬きを繰り返している。


声が聞こえるゴーラ・スリシェン……」


 男が再び呟いた。地に伏した草太が微動だにしないことを視認すると、調圧水槽の出口へと向かっていく。

 止めを刺すつもりは無いらしい。あるいは相手がまだ年若い少年であるからか。

 

「……ス、ストップ」


 不意に響くかすれた声に男の歩みが止まる。

 男が振り返ると、草太が支柱を頼りに何とか立ち上がろうとしていた。


「悪いけど、さ……もう少し、付き合ってよ」


 草太は息も絶え絶え、搾り出すように声を発した。全身を強く打ち、軽い脳震盪を起こしている。ようやく立ち上がったはいいが、とても戦い続けられる状態ではない。


「……半変身、状態デミ・フォームド


 体中を襲う激痛と混濁した意識の中、草太は通信での雪乃の言葉を思い出す。相対する男はもう半ば以上に人間とは違う生き物である。だが――、


「オレだけこのまま、ってのもね」


 異変は始まっていた――、同じく草太の体にも。


 霧がかった空気の中では目立ちにくいが、草太の体から蒸気が立ち昇っている。初めは薄らと、やがて段々と濃く。体温が異常に上昇しているのだ。

 蒸気が立ち込める中、突如として草太の体のそこかしこから黒光りする液状の物質が生じ、見る間に体中を覆い始めた。

 スキンスーツに包まれていない頭部までもが覆われると、不気味な黒色物質は立ちどころに硬質化していき、真っ黒な外殻のようなものへと変質していく――。


 眼前の少年が〝同類〟であることに気付いた男は、喉の奥でくぐもった唸り声を上げた。


『少年の体が〝何か〟に変わる前に行動せねばならない』

『退くべきか、襲いかかるべきか――』


 男の逡巡はほんのわずかな間であったが、それでも草太にとっては充分だったらしい。

 既に〝変身トランスフォーム〟は終わっていた。

 

 節足動物、主に昆虫や甲殻類が外皮として形成する外骨格。今や草太の全身は、その外骨格――天然の鎧とも言うべき物質に覆われていた。

 傍目には小柄な人間がいやに有機的で生々しい造りの甲冑を着込んでいるようにも見える。あるいは人間大の甲虫類が存在するならば、これに近い外見になるかもしれない。


お前じゃないヴィ・ラズニェ


 男がジリジリと後退した。履いていたブーツが底ごと破れ、――先ほどの跳躍や水柱はこれにより起こしたものと思われる――水かきの生えた奇怪な爪先が覗いている。

 草太が金属とも何ともつかない体を馴染ませるように身じろぎさせながら、


――?」


 そう応えるのが早いか、男が足を跳ね上げると再び水飛沫が上がった。地に薄く張った水溜りを水かきの付いた足で器用に操り、草太の視界を遮るように蹴りつける。目眩ましだ。


 ――が、草太の纏った外甲は叩きつける飛沫を物ともしない。草太は水流の目潰しを突き破るように突進し、同じく突っ込んできた男と正面から激突した。

 重く鈍い音と共に生じた衝撃で周囲のもやが吹き飛び、水溜りに大きな波紋を作る。

 

 一瞬の沈黙の後、男が苦しげに呻き、よろけながら後ずさる。はだけたコートの下で緑灰色の胸の真ん中が陥没していた。草太の頭部が相撲の立ち合いで言うところのぶちかましの形で衝突したのだ。

 折れた骨が臓器を損傷したのだろう、男の口から血の混じった反吐が漏れる。装甲に鎧われた草太の体はそれ自体が凶器であった。


「まだ続ける?」


 年相応の少年らしい声音と共に草太が面を上げると、黒い頭殻の両眼部のその奥に、草太の――人間のままの――瞳があった。

 男は苦痛に喘ぎながら、それでも草太から目を逸らさない。降伏する気は無いようであった。


 対手の闘志に敬意を覚えたか、草太の眼光がわずかに和らぎ、そして燃え上がる。


「じゃ――ここから第2ラウンドってことで」


 漆黒の外骨格が軽やかに宙を舞った――。


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