若紫 その十七

 紫の上の邸宅の門を叩かせると、事情の知らないものが開けてきたので、牛車を中にそっと引き入れた。



「ここに光源氏様が来ます」



 と惟光が乳母の少納言に伝える。



「紫の上様はもうすでにお休みになっています。なぜこのような夜更けにおいでになるのでしょう」



 とどうせどこかの女のところからの朝帰りだろうと思っているようだ。光源氏が



「兵部卿の宮の邸宅に移るようだから、その前に紫の上に伝えたいことがあって」



 と言うと



「どういうお話でしょうか。さぞかしはきはきとしたお返事ができることでしょうね」



 と皮肉を言って笑った。光源氏がかまわず中に入ってきたので、乳母の少納言は決まりが悪く、



「他に人もいませんので、女房たちがはしたなく寝ているので困ります」



 と言い訳をする。



「まだ紫の上は寝ているのだろう? さあ、起こしてあげよう。こんな美しい朝霧も知らないで寝ているなんて」



 と言いながら紫の上のそばに寄っていってしまったので、乳母の少納言は「あれ」と言う閑もなかった。


 紫の上は何も知らずに寝ていたのを、光源氏が抱き起こしたので目を覚ました。兵部卿の宮が迎えに来たと思ったようだ。光源氏は髪をなでて



「さあ、いらっしゃい。お父上の使いで来ましたよ」



 と言うと、紫の上ははじめて相手が兵部卿の宮ではないと気づいて驚き、恐ろしそうにした。



「何とも情けない。私も父親と同じですよ」



 と言いながら紫の上を抱えて出てきたので、惟光や乳母の少納言は



「まあ、これはどうするのですか」



 と言う。



「私の邸宅へとお誘いしたのに、兵部卿の宮の邸宅に行くようなので、ますますお便りも出しにくくなるだろう。とにかく、誰か一人お供しなさい」



 乳母の少納言はうろたえて



「今日は都合が悪いのです。兵部卿の宮が来ましたらなんと言えばよいことか。あまりに突然のことに私たちは思案のしようがございません。これでは私たち女房は困ってしまいます」


「それならいい。今は誰も来なくとも、女房たちは後から来たらいい」



 と縁側に牛車を寄せた。女房たちはどうしてよいかわからず、呆然としている。

 紫の上も気味が悪く、怖くて泣いている。乳母の少納言もとても止める術がないと考え、とるものもとって紫の上と一緒に牛車に乗り込むのだった。


 光源氏の邸宅はそこから近いところなのでまだ明るくならないうちに到着して牛車から降りた。光源氏は紫の上をいかにも軽々と抱きかかえて降ろす。乳母の少納言は



「まだ夢でも見ているようです。私は一体、どうしたらよいのでしょう」



 と牛車の中でためらっている。



「それはそちら次第だよ。本人はもう連れてきたのだから、帰るというのなら送ってあげよう」



 乳母の少納言は仕方なく牛車から降りた。何しろ急なことなので、乳母の少納言はまだ胸がドキドキして止まらない。


 紫の上の部屋は惟光に用意させ、紫の上を休ませた。紫の上はこれからどうされるのか、と怖がり震えている。さすがに声をあげて泣くこともできず、


「乳母の少納言のところで寝たい」



 という声がとてもあどけない。



「もうこれから乳母の少納言と一緒に寝てはいけないのですよ」



 と光源氏が教えると、紫の上は悲しみをこらえきれず、泣きながら眠ってしまった。


 乳母の少納言は心配で横になるどころではなく、茫然自失の有様で起きていた。

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