桐壺 その四

 光源氏は三歳になった。光源氏の容貌はとても優れていたので、桐壺の更衣を嫉妬していた女御や更衣たちも光源氏だけは憎みきれないようだった。


 その年の夏、桐壺の更衣は病気が悪化し、帝に里帰りの要望を出した。だが……。



「ならぬ! そなたにはそばにいてほしいのだ。もう少し様子を見ようではないか」



 帝は桐壺の更衣を離そうとはしない。


 そんな日々が続くと、桐壺の更衣の病状はますます悪化していく。その様子を見て桐壺の更衣の母親は泣く泣く帝にお願いした。



「そこまで言うのならば……」



 ここに来てようやく帝は桐壺の更衣の里帰りを許した。その際、光源氏に苦労させてはならないと思ったのか、宮中に残すこととなった。


 桐壺の更衣が里に帰る日、帝は涙を流しながら引き止めた。何とも情けない行為である。



「桐壺の更衣、お前は私を残して死んだりはしないだろうな」



 桐壺の更衣は帝の言葉がいたわしく思い、一つの和歌を詠んで返答した。




 限りとて別るる道の悲しきに

    いかまほしきは命なりけり




 その和歌を聞き、帝は大変取り乱した。もはやこれが今生の別れと思ったのだろう。


 それを他のものが必死におさえ、ようやく桐壺の更衣は退出することが出来た。




   ###




 その夜、桐壺の更衣は母に見守られてひっそりと息を引き取った。その報せを聞いた帝は茫然自失となり、自室に閉じこもってしまった。


 この場合、桐壺の更衣の子供である光源氏が宮中にいることは非常識であった。そのため、光源氏も桐壺の更衣の母の元に引き取られていった。


 帝は愛するものを失い、さらにはその子供までも遠ざけられてしまったのである。


 帝は桐壺の更衣に三位の位を贈った。女御となれなかった桐壺の更衣へのせめてもの贈り物のつもりだったのだろう。しかし、この行為すらも他の女御や更衣にとっては嫉妬の的となった。


 その中にあって、桐壺の更衣を惜しむ女御や更衣も少なからずいた。桐壺の更衣は女御や更衣の全員に恨まれていたわけではなかったのだ。




   ###




 そして時は過ぎ、秋になった。それでもいまだに未練が残っている帝の様子を見て弘徽殿の女御がこっそりと呟く。



「まったく、帝の未練にも困ったものです。それにしても、死んだ後にも人の心を掻き乱すなんて、何て憎らしい女だったのかしら」



 何とも嫉妬深い人物だ。


 しかし、帝にも原因がある。帝が弘徽殿の女御の子供である一の宮を見ても、桐壺の更衣の息子の光源氏に会いたい、と言うのだ。嫉妬に狂わないほうがどうかしている、とも言える。




   ###




 さらに時は過ぎた。帝はいまだに桐壺の更衣のことが忘れられない。そのため、靫負ゆげい命婦みょうぶという女房を桐壺の更衣の里につかわした。光源氏や桐壺の更衣の母親の様子を知りたかったのだろう。


 靫負の命婦は桐壺の更衣の里に着いたが、そこは見るも無残なほど荒れ果てていた。桐壺の更衣が亡くなり、母親も屋敷を手入れする気力がわかなかったようだ。


 桐壺更衣の母親は靫負の命婦を屋敷に招きいれたが、涙にむせび泣き、とても話にならなかった。


 桐壺の更衣の母親が落ち着くと、靫負の命婦は帝の手紙を渡した。


 桐壺の更衣の母親はゆっくりと手紙を開く。


 要約すると、



『あなたを心配しています。光源氏を連れて、宮中に来てくれませんか?』



 ということだった。


 そして手紙の最後には和歌が添えられていた。




 宮城野の露吹きむすぶ風の音に

    小萩がもとを思ひこそやれ




 いつまでも桐壺の更衣のことが忘れられない想いが伝わってくる和歌だった。


 桐壺の更衣の母親は迷った。



「帝のお言葉は大変恐れ多いです。しかし、私は今更宮中に出仕しようとは思えません。さりとて、娘の子供だけを宮中に送るのも悲しくて……」



 こう言われては靫負の命婦も光源氏だけを宮中に連れて行くことも出来ない。


 靫負の命婦は帝と桐壺の更衣の思い出などを話しながら桐壺の更衣の母親の心を慰めた。


 そして、夜も更けてきたので退出しようと屋敷のそばに止めていた牛車に近づいた。


 ふと振り返り、桐壺の更衣の母親を見て靫負の命婦は一つの歌を詠んだ。




 鈴虫の声のかぎりをつくしても

    ながき夜あかずふる涙かな




 その和歌を聞き、桐壺の更衣の母親は即座に和歌を返す。




 いとどしく虫の音しげき浅茅生に

    露おきそふる雲の上人




 靫負の命婦は桐壺の更衣の母親や光源氏が宮中に来ないことを確認すると、そのことを帝に伝えるために牛車に乗り込んだ。


 帝は返事を聞き、とても悲しんだ。


 帝はその後も食事の量が減ったり、政務をおろそかにしたりといつまでも悲しみは癒えないようだった。


 帝の周りのものは



「本当に困ったものです」



 と言い合って嘆いた。


 結局、帝の嘆きは光源氏が宮中に戻ってくるまで続くのである。

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