番外編
小さな秘密と、愛の言葉
「あっという間だったねぇ」
にこにこと笑みを浮かべてソファに座った私の隣でコーヒーを飲む彼は、明日この部屋を後にする。大晦日に駆け込むように私の元にやってきたその人は、私の左手の薬指に指輪をくれた人で。ヨーロッパを中心に活躍するピアニストでもあった。今彼が住んでいるのは、ハーフである彼が生まれた地でもあるパリで。距離にして九千五百九十六キロ、飛行機を使って約十三時間。そうやって数字を挙げてみると大陸を越えた遠距離結婚だなぁ、なんて感想を持ってしまう。そんな彼が私の元にやって来るのは、一年でも片手で数え切れる位だった。それに何の不満もないけれど、翌日に彼がこの部屋からいなくなるというのは少しだけ寂しい。「そうだねぇ」そんな気持ちをこっそりと隠してやんわりと相槌を返した私に、彼は柔らかく笑って私の頬に唇を落とす。
「飛鳥くん!」
反射的に上がった私の声に、彼は楽しげに笑みを浮かべたまま「なぁに?」と返した。こういう所、本当にフランス人だななんて思いながらも言葉を返す。
「いきなりでびっくりするじゃない」
そんな私の文句に「相変わらず慣れないねぇ」なんて笑う彼は私の肩を抱き寄せて、両腕の中に閉じ込めるように私を包む。「そんなとこも可愛いんだけど」小さな笑い声を零しながら、私を抱きしめた彼は「また当分会えないし、圭子さんの補充しとかないと」なんて言葉を重ねるのだ。
片桐飛鳥。私の夫となったその人は、元々同じ音大に通うクラスメイトだった。私はその頃から彼の事が好きで、けれどその恋を彼に明かさずに仲の良いクラスメイトの顔をして隣に立っていて。私はそれだけで充分だった。だって、私は彼の奏でる音が大好きで――彼の音が聴けるなら関係は何だってよかったのだ。そのまま仲の良いクラスメイトの顔をして卒業をしてから早十数年、ひょんなことから数年前に再会し――共通の友人からは「電撃婚に見せかけた導火線長すぎる爆弾婚」なんて揶揄われてしまった結婚を経て今に至っている。日本のピアノ教室で講師をしている私と、パリを拠点に世界を回る売れっ子ピアニストである飛鳥くん。最初から分かりきってはいたけれど、新婚から今までずっと基本的には別居生活だ。不満はないし、メールや電話だったり――たまに彼が訪れた国から送られるポストカードは私の小さな楽しみだ。それに、何故だか共通の友人もそうだけれど――彼の友人達が何だかんだと私を気にかけてくれていて。その中には有名なロックバンド――シグナルズのリーダーまで居て私はただただ恐縮するばかりなのだけれど。
「昔から思ってたけど。ミケさんと片桐サンて、お似合いって感じ」
私が足繁く通うカフェのマスターやそのパートナー、そしてテレビの中の人でしかなかったシグナルズのメンバーが集まっていた個室タイプの居酒屋で、そう口にしたのは飛鳥くんが入ってたバンドの中では一番最年少だったらしいリョーマくんだった。「でも、付いてかなくてよかったんです?」そんなリョーマくんの言葉を継いで口を開くのは、犬猿の仲だというカフェのマスターであるアカネくん。私の前では喧嘩をしないけれど、元々バンドの中でも二人を見ていた最年長の鷹晴さん曰く水と油なんだとか。そんなアカネくんの言葉に私は言葉に悩む。――私が飛鳥くんに付いて海の向こうに渡らなかった理由を、言葉に出すのが躊躇われたからだ。勢いを付ける為にアルコールを呷り、甘いアルコールを喉に流し込んだ私はグラスをテーブルに置いて、一息ついてから口を開いた。
「飛鳥くんの枷にはなりたくなかったの」
きっと、彼はそんな事思わないだろうと言うのは知っていた。けれど、今の私がに付いて行ったって、飛鳥くんに面倒を掛けさせてしまうというのは分かっていた。何せ日本国内での引っ越しではなく、言葉もろくに出来ない国外なのだ。文化も、考え方も、何もかも違う世界の中で、右往左往してしまう自分が想像できてしまったし。――何より、そうやって迷惑をかけてしまうのに付いていくなんて口にする自分なんて、考えたくもなかったのだ。
「――たまに会えるくらいで、私達は丁度いいんだよ。きっと」
そう言って物わかりが良いような顔をして、笑って見せた私に、同じテーブルを囲む男性陣は少しだけ困ったように笑っていた。
「何か、考え事でもしてた?」
きつくもなく――けれど決してゆるくもない飛鳥くんの腕の中で、彼の体温を感じながらもぼんやりとしていた私に彼は柔らかな声を落とす。「ん? この間リョーマくんとかアカネくんとかと飲み会してた時の事、思い出して」そう返せば、彼は柔らかく微笑む。「鷹晴さんから聞いたやつだ、何でこっちに来てくれなかったのかって」基本的に飛鳥くんの知り合いと会えば飛鳥くんに筒抜けなのは知っていたけれど、そこまで報告されていたなんて。「おれもそれ、気になってたから訊いてみてって頼んでおいたんだよね」悪戯っぽい笑みを浮かべてそう重ねた彼は「圭子さんの事、枷なんて思った事は一度も無いんだけどなぁ」と言葉を繋いでいく。
「私がそう思ってるだけ――迷惑はかけたくないの」
彼の腕の中から見上げるように視線を向ければ、飛鳥くんが掛けているレンズ越しに困ったように細められる碧い瞳が私に向けられていた。「だからねっ」私は何かを告げようとしていた彼の言葉を封じるように、声を上げる。
「だからね、フランス語勉強してるの」
彼に隠していた小さな秘密を私は口にする。週に数回、仕事帰りに通う語学教室。それは今まで飛鳥くんに黙っていた事で。それを告げた私に、彼は腕の力を強める。「圭子さんのそういうとこ、本当かわいいよね」耳元で囁くように告げられた言葉は「すごいすき」と重ねられた。
「だから、もうちょっと待って。もう少し自信が付いたら――一緒に暮らしてもいい?」
焦点が合わない位近い距離にいる飛鳥くんへと言葉を紡げば、「勿論。圭子さんの部屋用意して、待ってるよ」と柔らかく――幸せそうに笑みを浮かべて返してくれる。「そのために、これを贈ったんだし?」冗談めかした調子で言葉を重ねた彼は、私を抱きしめていた腕を解いて左手を優しくその手に取る。鍵盤の上を縦横無尽に動く彼の指が、私の薬指に光るプラチナを撫でた。その仕草すら絵になる彼は、柔らかなキスを私の左手へとひとつ落として。スマートな動作に、頬が熱くなるのを感じた。
「Je t’aime à croquer.」
柔らかく微笑みながらそう口にした彼に、私は脳内でその単語を組み立てる。――食べるのが大好き。そう結論付けた私は、今までの文脈にはどうにも合わない彼の言葉に「お腹減った?」と首を傾げる。そんな私の問いかけにへにゃりと笑った彼は、「そうかも」と頷く。冷蔵庫の中身を思い出しながら、私は飛鳥くんから身体を離してキッチンへと向かう。そんな私を見て小さく笑い声を零す飛鳥くんに首を傾げながら。
私がその言葉の意味を知るのは、彼がフランスへと戻った後――新年最初の語学教室での事だった。
Je t’aime à croquer.(食べちゃいたいほど君が好き。)
練習曲作品10-3 狭山ハル @sayamaHAL
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