Playing Love
「ドビュッシーが聴こえてきたから、三上さんだと思って」
そう言いながらドアを開けて中に入ってきたのは、何年も会っていなくて、そして、何年も恋い焦がれていた人だった。そんな恋い焦がれてた人が目の前にいきなり現れて、まともな反応を返せる人はごく少数だと思うし、私もご多分に漏れず狼狽えた。しどろもどろしてる私に、片桐くんは笑って、私が座っているグランドピアノとは別の、たまにしか使われないアップライトピアノの前に座ってそっと、鍵盤に指を乗せた。彼の弾いた流れるような音階には、聞き覚えがあった。
昔、彼と見に行った最初で最後の映画で使われていた曲。この曲だけは結構有名で、時折喫茶店やホテルの館内で流されている事がある。タイトルは確か、愛を奏でて。
何年も会っていなかった私の前にいきなり現れて、一緒に観た映画の、よりにもよってこの曲を選んで弾くその意図は、何なのか。少しは、期待してもいいのだろうか? 片桐君の奏でる音は、ディスクに納めらていたそれよりもずっと、色鮮やかで。その曲を弾く片桐君の背中を見つめながら、彼がここに来た意図を測りかねていた。片桐君がやることは、昔も今も、変わらず唐突だから。
「少しは、落ち着いた?」
こちらに向き直って柔らかく、優しく微笑む片桐君の声で、曲が終わったことを知る。私の頭の中では、反芻するように音の一つ一つがキラキラ輝きながら反響していた。
「おっ、落ち着いたも何も、いきなりすぎるでしょう……」
「いやぁ、明日から結構忙しくなっちゃうからさ、その前にって思って。大学行って芳野さんに勤め先、訊いちゃったよ」
相変わらずマイペースに話す片桐君に、私も何とか落ち着きを取り戻し初めて、笑う余裕ができる。
「大学って、大変なことになったでしょ」
「凄かった、芳野さんに見つけて貰えなかったらあのまま動けなかっただろうなぁ」
学内で学生たちにもみくちゃにされる片桐君は容易に想像できて、思わず声を上げて笑う。そんな私に片桐くんは笑い事じゃないよ、と少しだけ眉を寄せる。
「ごめんごめん、それで、何で此処に?」
何年も前に彼に対して失恋を済ませてる私は、何が起こってももう怖くないなんてヤケクソな気分で、気安い気持ちで、冗談めかしながらちょっとは期待していいかな? なんて付け加えた。
「期待にお応えできるかは分からないけど、言いたい事があって来たというか、何というか」
私は言葉を返さず、手のひらをどうぞ、と差し向け彼に続きを促す。
「時間がかかったけど、やっと気付いたから伝えに来た。おれさ、三上さんの事が好きなんだ」
微笑んだまま、片桐君は気負う事も、照れ隠しにごまかそうとする事もなく、いつものトーンでそう言った。
「パリでキツかったり、世界回って忙しくしてたときに思い出してたのは決まって三上さんと居た時間だった、気付いたときには支えになってた」
気付くの、遅すぎたかな? と苦笑混じりで話す片桐君に、クラクラしてしまうくらい、首を横に振る。
「遅すぎない、うれしい、私もずっと、ずっと、好きだったし、今も好きなの」
縋るように、途切れ途切れの言葉を、口に出す、そんな私を片桐君は微笑みながら見つめていて。
「ねぇ、三上さん。おれはこの通り世界飛び回っちゃうような仕事してるから、お互いに働いてたら一緒に居れない事も多いけど、もし、それでも良ければこの先の人生、一緒に歩いていきたいんだ」
私は、その言葉を咀嚼して飲み込む前に、脊髄反射で首を縦に振ったのだけれど、もしかしてこれ、プロポーズってやつじゃない?
それについては、その日突然現れ、現在は私の夫となった彼は「今言っとかなきゃ、いつ言うんだって気分だったよね」と語る。その日にプロポーズ、あまりの出来事に動かない頭のまま、その日の仕事を終え、その足で高級そうなジュエリーショップに連れて行かれて気付いたら左手の薬指で指輪が光っていた。日曜には友人に紹介する、と連れてこられた大学近くのスタジオで、今をときめくロックバンドのリーダーや、足繁く通っている洋菓子店、エカルラートの店主、それに大学の同学年に在籍していた片桐君の友人でもある結城君の姿もあった。世間の狭さと片桐君の顔の広さに面食らっていたが、多分、顔が広いのは結城君だ。と冷静になって思い返した。「またすぐ来るから」と言い残し一端パリに帰った彼が次に日本に来た所で、お互いの両親に報告、その後もちょくちょくと日本と欧州を行き来してくれたお陰で、気付いた頃には入籍を済ませて私は片桐圭子になっていた。周囲からは未だにミケ呼びだけれど。
勿論、世界を飛び回ってるピアニストである夫と落ち着いて過ごせる時間は多くはない。もうそろそろ日本に腰を落ち着けようと思ってる、とは言っているけど、いつになるかは分からない。だけれど、長い間の片思いが一気に実った私にとって苦ではないのが救いだ。郵便受けに入っていた彼からのポストカードをリビングの壁に掛けたコルクボードに張って、思わず笑う。
こういう穏やかな幸せが、私たちにとって一番良い暮らしなんだと、私は色とりどりのポストカードを見ながら、一人頷いた。
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