Clair de lune

 成田の到着ロビーにあったのは、数年ぶりに見る女性の姿だった。もうイイ歳だと言うのに鮮やかな色を身に纏いそこにいる女性は、そこだけ別世界ではないかという程に、華やかだった。

「ただいま、母さん」

「やだ飛鳥アンタまだそんなもっさい格好してんの!? やめてよもう!」

 放っといてくれ。


 数年ぶりの再会をそんなノリで済ませたおれと母さんは空港内にある喫茶店に場所を移していた。俺が帰ってきたと思えば、今度は彼女の方がワールドツアーであるらしく、このまま発つのだとか。母子揃ってピアニストをやっていれば、こう言うこともある。

「で、何で帰ってきたの?」

「まるで帰ってくんなとでも言いたいみたいな口ぶりだなぁ、こっちでやっと出来ることになったからご挨拶だよ、ご挨拶」

 帰ってきた理由についてはそう答える。嘘ではない。今度の初夏にこっちでリサイタルをやることは決定済みで、今回はその打ち合わせと挨拶だ。そろそろこっちに拠点を置きたくなってきたものある。国籍だってあることだし。その回答に「逃げ帰って来たのじゃないならよし」と満足げに笑う母に、逃げ帰ってくるわけ無いじゃん。と笑う。

「ねぇ、あの人は元気だった?」

 懐かしむような笑みを湛え、そう訊ねる母は、初恋を思い浮かべる少女のように見えた。


「嫌い合って別れるわけじゃないんだから、いつでもおいで」と笑っていた彼と母が別れた理由は未だに教えられていない。母もパリを訪れる時に時間が合えば逢っているようだから、多分その言葉は本当だろうし、だからといってお互いに現在のパートナーを蔑ろにしているわけでもない。あの二人の間にあるものに、おれがなにかしらの推測をする事は野暮だと思っているし。あの人、と言うのはおれの血縁上の父親で、母の元夫である。フランス人でパリに住む、生粋のパリジャンだ。

「相変わらずだったよ、ワールドツアー行くなら寄ってみたら? 住所変わってないし」

 そう答えたおれに、母さんはクスクスと笑い、行きたいんだけどねぇ、と言葉を繋ぐ。

「今回、なーんかスケジュールみっちみちでどうにも抜けれなさそうなのよ、残念」

「そっか、そりゃぁ、残念だ」

「アンタのお陰で出発前からスケジュールきっつきつよ、どうしてくれんのよ」

 出発前にアンタとお茶してるって、本当意味分からない。なんて軽口を叩きながら目の前のコーヒーを飲み干し、彼女はヒールをカツカツ鳴らしながら出ていった。

「アンリが相変わらずだって聞けて良かったわ、気分良いから奢ってあげる!」と言い残して。

 その後の「アンタこっちじゃクラシック界の貴公子とか言われてんだから、もうちょっと小綺麗な格好しなさい!」というのは聞かなかったことにする。今の格好は長時間フライトだったからほとんど寝間着みたいなもんだ、もうちょっと何とかはなる。と心の中で言い訳をしながら。


 日本の大学を卒業して、パリに出てからは何かと実の父親であるアンリ・リュシェールに世話になっていた。今でこそアスカ・カタギリで通しているが、デビュー前はアスカ・リュシェールとして学生をしていたのだ。

 両親が別れたのはおれが高校に上がる前の話だったし、母さんにも片桐さんという現在の夫が居る訳で、彼にもパートナーが居る事については驚きはしなかったし知っていたけれど、その相手が青年だったのには面食らった。いや、おれはおれで父親よりもいくつか年上の男と付き合っていたんだけど。その青年は彼との年齢差よりも、おれとの年齢差の方が近かったお陰で、色々と良くしてもらった。彼は彼で「弟が出来たみたい」と笑ってたし、おれも兄が出来たようで楽しかった。その青年の名はノエル・ギャルと言う。

 一度だけ、父であるアンリに訊いた事がある。「何でノエルだったの?」と。そう訊ねられたアンリは優しく穏やかな笑みを浮かべ、「好きになったら理由なんてないよ、ただ一緒に同じ物を見て、人生を歩いていきたくなったんだ」と答えてくれた。「愛に壁なんて存在しない、性別も、年齢も、勿論人種も」とも言っていた。それを聞いて何年か後の先日、日本に行く事を告げにアンリとノエルが暮らす家に顔を出したときに同じようにノエルにも「何でアンリだったの?」と訊いたら同じような答えが帰ってきた。正直に言おう、おれは彼らが羨ましかった。同じ物を見て、感想を交わし合って、微笑み合いながら人生を共に過ごしていく。それは多分、すごいことなんだと思う。そして、それを羨ましいと思ったおれの頭の中には、昔別れた恋人ではなく、何年も連絡を取っていない、日本の大学で一緒だった女の子の笑顔が浮かんだのだ。都合のいい話だ。彼女に相手が居たのなら、スッパリとあきらめればいいだけの話だろう? とおれの中のおれが、囁く。試してみて駄目であれば、ひとり、音の世界で生きていけば良いだけの話だろ? と。それは、俺にとって、一筋の光が差し込んだように思えた。


 冷めてしまったコーヒーを飲み干して、空港からタクシーで都内のホテルへ入ってすぐにしたことと言えば、大して珍しくもないビジネスホテルのユニットバスでシャワーを浴び、今度は少しだけさっぱりとした格好でホテルから出るという一連の動作。と、言ってもジーンズとアイロンのかかった無地のシャツを選んだだけなのだが。仕事に関するスケジュールは明日で、今日と滞在最終日はフリーだった。言い換えれば、今日しかなかった。さっぱりとした服装で向かった先は、数年前に通っていた母校。教務課に顔を出せば事務員さん方が色めきたつ。そして学生たちもこちらに駆け寄ってくるというちょっとした騒ぎの中心になってしまったおれは、誰でも良いから芳野よしのさん――在学当時の担当教授を連れてきてくれ、と念じていた。


「あれぇ? 片桐くんじゃないか」

 久しぶりだねぇ、と丁度教務に用事があって来たらしい、何らかの書類を持って歩いてきた芳野教授その人に声をかけられたのだった。

「いやぁ、すごい騒ぎだったねぇ」

「予想外でした、おれの方が驚きましたよ」

 芳野さんに拾い上げられたおれは、芳野さんの用事が片付くと同時に、彼の研究室に連れられる。応接用のソファに座らされ、マグカップにティーバッグとお湯を入れただけの紅茶を渡されれば、おれはそれにそっと口をつけた。

「で、数年ぶりだけど、どうかしたのかい?」

「久々にこっち帰ってきたんで、ご挨拶、とか?」

 あと、三上さんってどうしてるのかなぁ、って。と何の気なしを装ってそう付け足すと、芳野さんは笑う。

「ミケちゃんなら、ウチの妻のピアノ教室で働いてるよ。今日も行けば居るんじゃないかなぁ?」

 いっつも、遅い時間までレッスン室に籠もってるみたいだし、ウチののお気に入りでね、よく彼女の話は聞かされるんだよ。と。

 彼女へと繋がる道が出来た。彼の奥方がやっているピアノ教室というのは知っている。異国の空の下で過ごした数年間、節目節目に浮かんだ彼女に、会いに行く為の情報集めはこれで十分だ。ティーバッグの入ったままの紅茶を飲み干して、有り難うございます。と席を立つ。そこで挨拶も仕事の話もしてないことに気付き、教授も俺が来た目的を確信して、おもしろそうに笑う。

「片桐君はまだまだ若いねぇ! あ、サイン頂戴、アルバムに」

 折角だし、これで今の学生に自慢するかなーなんて言う芳野さんはおれが在学してた頃から変わらない飄々としたテンポでおれのアルバムを出してくる。その出されたパッケージにこれまた渡された油性マジックでサインをしていれば、「ミケちゃんによろしくね、あの子にもたまには顔出せって言っておいてよ」と芳野さんは笑ったまま、言うのだった。


 さて、大学を後にしてすぐ彼女の勤めているというピアノ教室に足を向けた所までは良い。ていうか、そもそもどうやってここに足を踏み入れようか。腕時計は夕方六時を指し示していて、近くの喫茶店に入って早二時間だ。店員の目も気になってくる。紅茶のお代わりを頼んで、あと少しだけここで粘らせて貰おう。その後少し、でどう会いに行くか、決まればいいんだけれど。最後の望みの綱だ、と、基本料金だけは払い続けていた日本仕様の携帯で、滅多に使わないナンバーに電話をかけた。彼も同じように、日本の携帯を契約し続けていた筈だから。

「朝四時だっつうのバカじゃねーの」

 電話に出た彼――結城駿介ゆうきしゅんすけは、開口一番そう言ってくる。そう言えば彼はアメリカだった。「ごめん忘れてた」と返せば、ケラケラ笑う声色で、ウソウソ、実は日本なんだよなーコレが。と言ってくる。

「うそ、おれも今日本」

 偶然に驚きながら、おれがそう言えば、結城のテンションは見る間に上がっていって「マジで? 滞在期間時間あったらバードランドでセッションしようぜ! リョーマとタァ兄とアカネには連絡すっから!」と話を大きくしていく。

「日曜の昼なら空くよ」

「オッケー、俺は今回完全にバカンスだから合わせれっし! 問題はリョーマかなぁ、アイツ結構売れっ子だから」

「とりあえず、日曜昼間、いつも行ってたスタジオ行ってみる」

「そんなノリでよろしくーで、何で電話して来たんだ?」

 そう振られるまで、すっぽり本題を忘れていた。お代わりの紅茶はいつの間にか目の前に置かれていた。

「ちょっとね、三上さんに会いに来たは良いけど勤め先の前で躊躇して二時間超って感じなんだけど、どうしよう」

「三上さん……ああ、ミケちゃんか。ほほう、成る程な。当たって砕けてこい、骨は拾ってやるぜ」

 思いっきりからかう声色でそう言ってくる結城に、結局そう言う方法しか無いのか。とうなだれる。骨は拾ってくれるようだから、砕けた場合には日曜は昼間からやけ酒してやる、なんて思いつつ。

「結局そういう方向しか無いのは良くわかった。日曜は覚悟しろよ」

 脅すように低い声で告げれば「おお怖い」と結城はケラケラ笑う。

「成功したら、日曜、ミケちゃんも連れて来いよな」

 そんじゃ、俺ミナミさんとデート中だから。とおれの返事は聞かずに電話を切る。おれも古いタイプの二つ折りのそれをパタンと畳み、ポケットに突っ込んで置かれた紅茶を一気に流し込む。そしてそのまま会計を済ませれば、いざ彼女の元へ。


 受付の女性に声をかければ、また騒ぎになりそうな気配を感じ、大学での騒動で懲りていたおれは、「プライベートなんで」と受付嬢を落ち着かせる。「ええと、三上さんがこちらに居るって聞いてきたんですけど」と続ければ、「十四番教室ですよ、今はレッスン入ってないんで、多分籠もってピアノ弾いてます」と受付嬢は教えてくれた。


 廊下ですれ違う人に会釈しつつ逃げながら、彼女のネームプレートが填められている教室の前に立つ。ドアの向こうから微かに漏れる音に、思わず笑みがこぼれる。それは、ドビュッシーの月の光。ドアに背を預けて、ドア越しに耳を澄ませる。揺れ動く水に反射する月の光が瞼の裏に浮かんだ。その決して長くはない曲は、走馬燈のように浮かぶ学生の頃の記憶の蓋を開ける効果的なBGMで、ああ、あのころからきっと、おれは彼女が好きだったのかもなぁ、なんて、今更気付く。遅すぎただろうか? 遅すぎたならば、諦めるだけだろう? そんなことを自問自答していれば、曲が途絶える。おれは、ひと呼吸だけ置いて、扉をノックし、ドアを開けた。


「ドビュッシーが聴こえてきたから、三上さんだと思って」

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