Jeux d'eau

 学生時代の友人から、呼び出しを食らって向かったのは、大通りに面した場所にある、洋菓子店兼喫茶店。パティスリー・エカルラートと看板を掲げるその店は、若い女性に人気の店で、私もよく利用していた。一年程前に、代替わりをして今の業態に落ち着いたのだけれど、私と今日私を呼びつけた友人は、その店が茜洋菓子店と名乗っていた頃から、この店のケーキが大好物だったのだ。そのおかげで、私たちは同年代の現店主とも、先代の店主とも顔なじみで、今日もカウンターで笑みを浮かべる店主である青年に「いらっしゃい、ミケさん」と迎え入れられる。

「ミケあんた遅っそいわよ!」

 ナツミさん、もう来てますよーと店主に言われ、教えられたテーブルへ向かえば、お冠のナツミ。腕時計を確認すれば、約束の時間まではあと少しだけ時間があった。ナツミあんた一体どんだけ早く来たのよ。そういえば、彼女は十分前行動どころじゃない早め早めの行動をしていたっけ。と思いだし、「ごめんごめん」と彼女の向かいの席へ腰を下ろした。

「シュークリームください、あと紅茶はお任せ!」

 そう注文をすれば、ナツミはまた?と言いたげな顔をする。

「いいじゃない、好きなんだから! カスタードとホイップの運命的な出会いよ、此処のシュークリームは。しかも皮がサックリしてるのもポイント高いんだから!」

 私が此処で頼むのは、大抵シュークリーム。紅茶は詳しくないから、店主にお任せするパターンで。店主のブレンドするフレーバーティーが此処の売りのひとつでもあるのだし。

 ワンパターンだと、私に言っているナツミの前には食べかけのモンブランが鎮座している、それを見た私はナツミも人のこと言えないよねぇ、と思ってしまう。彼女はここでは大抵モンブランを頼むのだ。

「それはそうと、ナツミの紅茶って何?」

「春のブレンド。華やかな気持ちになりたいって言ったらちょっと先取りだけど。って」

「ちょっとどころじゃない気もするけど」

 今は二月の半ば、まだ寒さが厳しい日が続いている。そうツッコミを入れれば、ナツミは「気分の問題よ、気分の」とその紅茶の香りを楽しんでいた。


「お待たせしました、ご注文のシュークリームと紅茶です。追憶のブレンド、と言ったところですかね」

 此処の店主は何か超能力でもあるのだろうか、と思うくらいの訳知り顔で、その紅茶を私の前に差し出した。柑橘系の香りが立ち上るそれには、飲んでみると何らかのスパイスが効いていて、不思議な気分になる。追憶のブレンド、と言うように、それは過去を思い返したくなるような、そんな心地にさせてくれる紅茶だった。

「で、本題は?」

 他愛ない世間話をしつつ、紅茶とスイーツを楽しみ、紅茶のお代わりを頼んだところで、私はそう切り出した。ナツミがただ単に世間話をする為だけに私を呼び出す確率は少ない。何てったって私の持ってる話題といえば音楽と音楽とあと音楽くらいなので。向かいに座るナツミはえへへ、なんて気味の悪い……いや、可愛らしい笑みを浮かべていた。「私ね、結婚することになったの」と。

「それはめでたいね、おめでとう。相手は水原みずはらくん?」

 彼女の学生時代の交際相手の名前を挙げれば、彼女の答えはイエス。はにかみながらも言葉を続けた。

「そろそろ、地に足着けとこっかーって、ホラ、私らってもうアラサーでしょ、そろそろね」

 だから、春のブレンドか。なんて彼女の飲む紅茶の謎が解け、私はポットで頼んだ追憶のブレンドを空いたティーカップに注いだ。店内では雰囲気を壊さない程度の音量で、静かにピアノの音が流れる。此処の店で、シュークリームや紅茶以上に気に入っているところは店内に流れる音楽のセンスだ。店主の趣味なのか、日によって違うジャンルの曲が流れ、どんな曲が流れていても店内の雰囲気を壊さないその選曲が、ケーキを買うだけでなく店内に居たくなる空気を作ってくれている。今日はクラシック、私が何度も何度も繰り返し聴いていた音が、流れていた。

「それにしても、アンタはどうすんの、気付いたらあっちゅー間に三十路よ?」

 店内を流れるピアノの音に意識を注いでいれば、ナツミから飛んでくる痛いお言葉。

「いや、ええーっと、今のままでとりあえずは不自由してないというか」

「アンタどうせ毎日毎日ピアノ漬けなんでしょう、出会い無いならお見合いでもしたら?」

「いやぁ……お見合いしてる時間あったら、ピアノ触ったりコンサート行きたいかなぁ……?」

 だからアンタはだめなのよ! とビシッと音がするような鋭さで指を指され、私は反論の余地も与えられない。

「アンタまさかさ、まだ片桐クンに片思いしてるなんてこと無いわよね?」

 今や世界的なピアニストよ? 世界が違うわ、世界が。とバッサリ切り捨てながらナツミは言う。世界が違う相手に叶わぬ想いを寄せるのは止めやしないけど、現実の将来も考えるべきだ、と。

 私はその件に関してイエスともノーとも答えられず、ただただナツミのマシンガントークを曖昧な笑みを浮かべて聞くほか無かった。彼女は言いたいことを言い切って満足したのか、それじゃぁ、招待状は送るから! と言い残して店を後にしていった。相変わらず彼女は嵐のような子だった。私はその嵐を見送って、ぬるくなってしまった紅茶を一人で楽しむ。追憶、と店主によって名付けられたそれの香りはぬるくなっても変わることなく香っていて、店内に流れる〝彼〟の音と相まって私の意識を追憶へと誘ってくれた。


「ドビュッシーが聴こえてきたから覗いてみたけど、やっぱり三上さんだ」

 いつも通り練習室でピアノ漬けの一日を過ごしていれば、ふらりと入ってきたのはあの夜から随分姿を見かけなかった片桐君、その人だった。どこかすっきりした顔で現れた彼は「もし、この後用事無いなら、ちょっと出かけない?」と唐突に私を連れだした。卒業式まであと十日あるか、と言うような冬も終わりに近づいた昼下がりのことだった。

 片桐君の着込むコートも、この間の冬の夜の日よりは薄手のものに変わっていて、それもまた春の訪れを感じさせている。私はというと、あの日と同じ、パーカーで、冬から春への季節感もへったくれもないというような装いだった。彼が私を連れ向かった先は、最寄り駅周辺の繁華街にひっそりと佇む名画座で。上映していたのは、少しだけ古い、音楽が印象的な洋画だった。私は何度か見た作品だったけれど、片桐君は初めて見るらしかった。生涯一度も陸地へと足を降ろすことの無かった、ピアニストの話。美しいピアノの旋律と共に紡がれる、甘やかで切ない人生の物語。私は私で、見たことがある、と言ってもテレビ画面での話だったから、劇場の音響と大スクリーンで観るその作品は新鮮で、チラリと横目で隣の様子を伺えば、真剣な目でスクリーンを見つめる片桐君が、そこに居た。

「良かったね」

 案の定、ラストで泣いてしまった私は、映画が終わり、近くの喫茶店に場所を移ってもハンカチが手放せない事態に陥ってたけれど、目の前の片桐君は、いつもの笑みより少しだけ柔らかい表情でそうだね、と笑っていた。

 平日の昼過ぎという時間帯のせいか、店には私たち以外の客が居なかったのは不幸中の幸いと言えるか。泣いている女と、穏やかな笑みを浮かべる男の二人組なんて、不穏すぎる。店員が注文した紅茶を持ってきた後、奥に引っ込み、カウンターにすら人影が居ないこの状況は、客が私たちだけだからか、それとも気を使われたのか。

「私ね、小さい頃にこの映画見てピアノ弾きたいって思ったんだ」

 その頃は、音大に入って音楽の道に進むなんて思っても居なかった。音楽と縁の深い家庭でも無かったし、映画で聞いたピアノの音がきれいだったから、なんて理由ではじめたピアノがここまで続くとは私も、多分両親も、思っても居なかったから。

「良いね、そういうの。三上さんがあの映画に逢ってなかったら、ここでこうしてることも無かったんだなーって」

「そう言われてみると、そうだね」

 この映画が、私をここまで導いてくれたのか、と妙な納得をして、私は目の前の紅茶を啜る。レディグレイとメニューに書かれていたその紅茶は、柑橘系の香りが心を落ち着かせてくれる、そんな紅茶だった。そして私は、劇場でふと思ったことを、口にする。

「片桐君って、あの映画のピアニストに似てるよね」

 音楽の中で生きてるようなそのピアニストに、彼は似ていた。ピアニストの生きた世界は船の中だけで、彼は地上に生きているけれど、それでもどこか似ているような気がしてしまった。

「じゃぁ、おれは三上さんに曲を作らなきゃかな」

 そう言ってクスリと笑みを深める片桐君に、私の顔が赤くなったように感じた。ピアニストが想いを向け、それが届かなかった相手の事を言ったように思えたからだ。だけれど、よく考えれば、あのピアニストは、他のシーンでも様々な人間を見、そのイメージを音楽に乗せていたから、彼がどのシーンを思い浮かべながら言ったのか、訊かなければ、わからない。そもそも彼には付き合っている年上の恋人が居るわけだし。そして小心者で傷つきたくなかった私は、「もし、出来たら聴かせてね」とだけ笑って、核心に触れることは出来なかった。


「そう言えば、三上さんって進路決まった?」

 その後も、店内に流れる曲の話や、他愛もない世間話に興じてから店を出ると、片桐くんは思い出したように、そう切り出す。その話はきっと、数ヶ月前のあの夜の続きなのだろう。

「決まったよ、あの後ちょっとしてからすぐ」

 あの夜に、背中を押された私は担当教授に相談し、勧められたピアノ教室の面接を受けたのだ。教授からは「ここならミケちゃんに合ってると思うよ」と言われ、受けた先でも「貴女はウチに来るにはバッチリの子ね」と笑顔で迎えられた。そのお陰で「卒業したら、ピアノ教室の先生になるの」と、笑顔で片桐君にも話す事が出来た。

「俺もね、留学決めたんだ、学校の入学自体はまだ先だけど卒業式の次の日にはパリに行くって決めたよ」

 生まれ育った場所だから、暮らし慣れては居るけど、向こうでちょっとのんびりしようと思ってね。と彼も笑う。

「じゃあ、ここに片桐君が居るのも後ちょっとなんだね」

 少しだけ寂しい思いでそう口にすると、荷造りしてると名残惜しい感じがするんだよね、と隣を歩く片桐君は笑っていた。

「じゃあ、これで」

 例のごとく、私を家まで送ってくれた片桐君は、アパートの前でそう言った。

「うん、じゃあ、また、卒業式で」

 多分、卒業式まではお互い会えないんだろうな、と思いながらそう返すと、彼も「うん、卒業式で」と笑い返してくれた。そうして私は、彼が歩き出す後ろ姿を少しだけ眺め、誰もいない部屋のドアを開けたのだ。


「お会計、お願いします」

 思う存分、過去に浸った後は唐突に現実。冷たくなってしまった残りの紅茶を流し込み、カウンターへ向かう。店主はいつも通りに、金額を言ってその代金を支払おう、とした時にひとつ、いつもとは違う注文が頭に浮かんだ。

「あの、さっきの紅茶、茶葉って買えますか?」

 その問いに、店主は顔を綻ばせる。よっぽど気に入って頂けたんですね、と。

「勿論ですよ、何グラム行っときます?」

「ええと、じゃ、百グラムで」

 普段も家でティーバッグながら紅茶は常飲、持て余す量ではないはず、と百グラムを頼む。いそいそとバックヤードに引っ込む店主を眺め、店内の音楽に耳を傾けながら店主が戻ってくるのを待っていれば、流れるのは、ラヴェルの水の戯れ。キラキラした水の反射のような細かい音の粒が印象的なその曲の奏者はきっと、片桐くんだ。もう何年も彼の弾く生の音を聞いていないけれど、私は彼の音を聞き分けれる自信があるのだ。茶葉を入れたアルミパックを持って戻ってきた店主に、「これ、片桐飛鳥ですよね?」と訊ねれば、「よくわかりましたね」との答え。

「ちょっとしたファンで」

 そう言い訳のように言いながら、飲食代と茶葉の合計金額を支払う。店主はその代金を受け取りながら、「ミケさんによく似た人、俺知ってますよ。合ったら絶対意気投合する」と笑っていた。

 家に帰るまでの道を歩きながら、私はあるメロディを口ずさんでいた。さっき店で聴いたクラシックではなくて、遠い昔に聴いた、映画を鮮やかに彩った恋の曲。彼と観た最初で最後の映画で流れた甘美で愛おしいメロディ。

 彼は有名になって、海の向こうで頑張っている。あの頃みたいに、ふらりとやってきて、「三上さん、居るかと思って」なんて笑って、他愛もない事を話したり、連弾したり、お互いにお互いの演奏を聴き合ったり。そんな日はもう二度と訪れないとはわかっている。けれども、私の心は多分、まだあの学校の練習室に置き去りにされたままなんだろうな、と、卒業から数年たった今、気づいてしまった。あの練習室で、私の心だけが、現れるはずもない彼を待っているのだ。私の世界が終わるその日まで。

 すっかり、暮れはじめてしまった夕焼けを見つめながら、そんな取り留めもないことを考える。だけれども、彼を、そして彼の音を、好きになって、その好きを思い出の箱に入れることすら出来ない私は、これからも一人で生きて行かなきゃいけないのだ。

 迎えに来ることはない王子様を静かに待ちながら。

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