Pavane pour une infante défunte
この空港には何度も足を運んでいたが、かの地へと向かう飛行機に乗るのはこっちへ来て以来、数年ぶりの事だった。パリの音楽院に入り、ピアニストとしてデビューし、そして卒業。欧州各国を飛び回ってたと思えばいきなりニューヨーク。そしてまた欧州へ。そんな目まぐるしい数年を過ごしていたら、気がつけばもう三十代の階段に足をかけようとする年代になってしまっていた。
五年以上振りの日本へ。これからはそろそろ日本でも精力的に活動していきたいな、なんて。思ってはいるけれども、どうなることやら。
バカンスも兼ねたご挨拶、な今回の訪問は極秘だったし、キチンとする理由もないな。と長時間の空の旅に備えた緩い服装。全体的にすこしだけ草臥れたその服装は、ピアニスト、アスカ・カタギリではなく、ただの片桐飛鳥そのもので。半分はこちらの血が混じっているとはいえ、欧州から見ればまだまだ童顔の部類に入るおれは、どこからどう見てもアジア系の学生だった。
空港内を流れるフランス語のアナウンスが、耳に心地よい。人々はスーツケースや鞄を持ち、思い思いの場所へと飛んでゆく。そんな空港ロビーの一角にある喫煙スペースで、おれはヴォーグを取り出した。ああ、あの頃もこんな風だったなぁ、なんて。あの頃とは違うメガネと髪型で、喫煙所の壁にもたれ掛かる。
「飛鳥」
彼がおれに声をかけてきたのは、成田の出発ロビーにある喫煙所だった。「なかがわ、さん」
「よかった、まだ保安検査通ってなかったんだな。ここで会えなかったら諦めようと思ったけど、会えてよかった」
彼はひと月と少し前に別れた元恋人で、でも、別れたところでその後ひと月程のおれの感情にはあまり衝撃も何もなかったから、きっとそんなに好きだったわけでもないんだろうなぁ、と思ってしまった相手。だけれども、おれが譜読みをしてる最中でも反応をかえしたり、あまり呼ばれたいと思えない名前で呼ぶことを許した程度には特別に想っていた相手。
彼は工事現場の監督をすることが仕事だった、今日も、仕事着である、作業服にワイシャツとネクタイを合わせた姿でおれの前に現れた。彼の襟を彩る濃紺のネクタイは確か、おれが彼の誕生日に贈ったもの。滅多に行かない高級店に、いつもの格好でふらりと入ってしまい、高級スーツを纏った店員にしどろもどろで説明しながら選んだ思い出が蘇る。
「ちゃんと、お別れ出来てなかったからさ、送り出す言葉位、言わせてくれよ」
そう言って、照れくさそうに笑う彼に、結局おれは頷いてしまう。喧嘩別れに近い去り方をしてしまったけれど、おれも彼も嫌いあって別れた訳じゃなかったから。
それは、三上さんと進路の話をした翌日の夜の事だった。その日の朝に、留学するという希望を三人の親と、担当教授に告げ、昼には成田発、シャルル・ド・ゴール行きの航空券を買った。決意が揺るがないうちに自分の周りを固めてしまいたかった。後には戻れない状態で、彼にうちあけよう、そう決めたから。大学の卒業式の翌日には日本を旅立つというスケジュールを作り上げたその足で、中川さんの住むアパートへと足を向けたのだ。
「あれっ? 飛鳥、来てたのか」
仕事を終えて帰ってきた中川さんの言葉と、合鍵で彼の部屋へと上がり込んでいたおれが二人分の夕食を作り終わったのはほぼ同時で。中川さんの間の抜けた声に、おれはまぁね、と返しながら、リビングのテーブルに二人分の食事を運んだ。彼にとっては普通の夕食だったけれども、おれにとっては、展開次第でたぶん恐らく、彼と食べる最後の食事。彼が振ってくる他愛もない言葉に、いつも通り相槌を打ったり、言葉を返したりしながら、皿の中身を片づけていく。彼が食器を洗い終わって、リビングに戻り、テーブルに向かい合ったタイミングで、おれは話を切り出した。
「おれね、留学することにしたんだ」
唐突に切り出しすぎたか、彼は押し黙って、目の前のテーブルをじっと見つめていた。
「それは、確定事項なのか?」
彼が低い声で絞り出したのは、その言葉だけだった。
「受かるかどうかはわからないけど、受験はするし、パリには行く。卒業式の次の日、成田十四時発の」
おれは、努めて淡々と話す。今でもあのときおれは彼に一体どんな言葉を求めていたのか、わからない。だけれど、彼の発した一言は、おれが欲しかった言葉ではなかったことだけは、わかっていた。だからといって、留学をやめろ、なんて彼が言うはずもなかったし、待ってると言われても、頑張れ、と言われても、たぶんあの日のおれは激高したのではないか、とも思うのだ。単なるわがままな若造、それ以外の何者でもなかった。
「そうか」
その一言だけ口に出し、彼は再び押し黙る。そして、おれは声を荒げた。
「そうか? そうか、の一言で終わりにする訳? 結局中川さんにとっておれなんて「そうか」で終われる相手なんだね!」
普段声を荒げる事のないおれが、テーブルを叩いて彼を詰る。おれによる理不尽な詰りに、彼は静かに、そして悲しそうな目をして、諭すように口を開いた。
「相談もしてくれないで、飛鳥一人で決めて、それがもう決まりきった事なら、俺はどうすることもできないだろう」
話し合う事もせず、一方的にこうします、と言われたら、ハイそうですか。と言うしかない。と、彼は諦めきった口調で、投げやりな笑顔を浮かべる。
「……そう、じゃぁおれは帰る。ここにあるおれの物は好きに処分して」
買い置いてある生活用品や私服、そして持ち込んだキーボードも、持って帰る気にはなれなかった。勝手に捨ててしまえ、と言い切って、おれはキーホルダーにつけてあったこの部屋の合鍵も、テーブルに叩きつける。
「わかった」
言葉少なく了承を伝えてきた彼に、俺は更に苛立ちを募らせ、「さよなら!」と吐き捨てるように別れの言葉を投げつけた。このまま此処にいたら、彼にどんな憎まれ口を叩きつけるか、わからなかった。
ドアを閉める前にポツリと聞こえてきた、「捨てられたのは、俺なんだけどなぁ」と誰に聴かせるでもない彼の独り言が耳に入って、俺は音の鳴るような勢いで、そのドアを閉めた。どこで間違ったんだろう、いや、最初から間違ってたのかもしれない。だけれども、三上さんを恨むような気持ちは全く無かった。これは、おれの選んだ手順の間違いだった。それだけは、認めたくないけれども、わかっていた。
そうやって別れた相手が、今この空港に、おれの隣に居た。保安検査が始まるまで、まだ少しだけ、時間はあった。けれども、店に入って話をする、なんてそんな気分にもなれず、喫煙所の中でお互いタバコをくわえながら、どちらとも無く話を始める。ちゃんと、別れを告げるために。
「俺はさ、飛鳥のやることは全部応援したい」
彼はそう切り出す。そこら辺にいるただのおっちゃんには、そんな事くらいしか出来ないしな。と笑いながら。だから、留学も、その先に待ってる飛鳥の未来も、俺は反対しないし、応援したい。と。隣に座る彼は、笑う。
「おれも、ちゃんと相談すれば良かった。迷ってたんだ、ずっと」
どうしても萎んでしまいそうになる声を、一生懸命張りながら、おれもそう返す。
「クラスメイトに、背中を押してもらえたから。決心が揺らぐ前に、全部決めちゃいたかったんだ」
ああ、お前意外と優柔不断だから。と、納得したように頷く彼に、彼と過ごした六年間を想う。荒んでたおれに、手を差し伸べてくれたのも、こうやって、おれの勝手で別れた後も、フォローを入れてくれるのも、彼の優しさで。その優しさに救われてきたというのに、その優しささえ信じないで、疑心暗鬼になっていたとしか思えない。いや、どうせ別れなきゃいけないのなら、いっそ酷い別れ方をして、終わらせてしまおうと思ったのだろう。他人事のようにそんなことを思いながら、彼の言葉を静かな心で受け止める。終止符が打たれた関係だからこそ、こうやって心穏やかに話ができるのかもしれない。
「いつかは、こういう時が来ると思ってた」
お前と付き合いだしたその頃から。と彼は笑う。穏やかなその笑みに、おれも釣られて静かに口角を上げた。やがて訪れるであろう別れが解っていて尚、それを見せずに共に居てくれたのは、ひとえに経験の差か。あの頃のおれは、彼との日々がいつまでも続くものだとばかり思っていたのだ。だけれども、時は流れ、おれの世界も広がった。高校生だった頃のおれと、今のおれの世界の広さはとてつもなく違ってしまっていて。これが大人になるということなのか、成長というものなのか。と今になってようやく理解する。
「だってな、飛鳥。お前は広い世界に飛び出していける。それをフイにしちゃだめだろ」
実はお前に聞かされる前から、留学の話があることは知ってたんだ。と、いたずらっぽく笑う。
「え、何で」
「
同音異語の少女の名前を聞かされれば、ああ、リョーマ君経由か。と納得する。彼の別れた妻である人の元で暮らすその少女は知っていた。彼経由で彼女にピアノを教えていたから。そして、その少女は、おれが入っていたバンドであるバードランドのギターをしていたリョーマ君と同級生で、学内でも彼と明日香ちゃんはクラスメイト達とバンドをやっていたのだ。
「成る程ね。知っててあの態度だったんだ」
「相談すっ飛ばしで決定事項伝えたお前が悪い」
そこをすかさず突いてくる彼に、つい渋面を見せてしまう。おれの渋面を見る彼はカラカラと笑っていた。
空港内に、おれの乗る飛行機の保安検査を開始します、というアナウンスが流れる。おれは、これで本当に最後になるであろうタバコに火をつけた。隣では、彼も同じようにタバコに火をつけていた。このタバコの火が消えてしまえば、この先きっと、彼と会うこともないのだろう。
「なぁ、飛鳥」
「何?」
お互い言葉もなく煙を吐き出していると、タバコが半分消費された頃、彼はおもむろにおれの名前を呼ぶ。
「ずっと、見てるから。頑張ってこい」
お前が有名になっても、ならなくても、おれはお前を見ているよ。と誰に言うでもない低いトーンで小さく言葉を付け足した彼に、ああ、おれは彼に本当に愛をもらっていたのだな。と気付く。見守るという、愛を貰っていたことに。それは恋とか情とかそういうものではないのかもしれないけれど、親が子に与えるそれと似通っていた物だったのかもしれなくても、愛は、愛だ。
「うん、行けるところまで、行ってみるよ」
あなたが隣に居なくても、おれひとりだけでも。
あと一本、とタバコの箱を開ければ、その中身は空だった。その事実に、過去に想いを馳せていたおれは、現実に戻る。空港内のアナウンスは、彼と別れた日とは違い、フランス語が流される。数年前の成田に意識を飛ばす時間は終わりを告げ、現実のシャルル・ド・ゴールの喫煙ブースにおれは一人で立ち尽くしていた。俺の乗る飛行機の保安検査を開始する、というアナウンスが、タイミング良く流れており、空のタバコをくしゃりと潰したおれは、それをゴミ箱へ捨て、喫煙ブースに背を向けた。
ねぇ、中川さん。と思い出の中の彼に声をかける。やっと、そっちに戻れるよ。と。戻れたからと言って貴方に逢うことはもうないのだろうけれど、貴方がくれた愛は、ちゃんと思い出の中に仕舞ってあるから、俺は一人で走る事ができたのだ。おれにとって、大学での四年間の思い出は、おれを支えてくれる大事な宝物なのだ。彼らの、彼の、そして彼女との思い出が、今のおれを作ってくれたのだから。手を離してしまった事を後悔した夜もある、だけれども、離さなければ、おれは今、こうして此処にいないのだろう。だから本当は後悔してなんかいない。が、正解だ。
過去を思い起こしながら、思わず口ずさんでいたのは〝亡き王女のためのパヴァーヌ〟だ。ふわふわと、つかみ所のないその曲のメロディの中で、おれの中にある思い出達は、厳かにパヴァーヌを踊っていた。
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