Étude op.10 nº3

 かつて、私は恋をしていた。

 たおやかで、激しい恋を。


 始まる前に終わってしまった恋だったけれど、彼と過ごした日々は未だ鮮やかに胸に焼き付いているし、その日々は今の私を支えてくれている大事な宝物だ。

 学生であった甘やかな日々はとうに過ぎ、今やアラサーと呼ばれる年代に突入した私は学生であった頃の指導教授の奥さんがオーナーを勤めるピアノ教室で講師をしている。全国的なチェーンではないが、個人としては規模の大きなその教室は、オーナーである彼女が著名なピアニストであることもあり、人気のある教室だった。「習う人も、教える人も楽しい教室にしたい」が口癖の彼女は、自分のピアニストとしての収入も使い、レッスン室が空いている時はそこを講師に解放してくれたりと、講師にとっても素晴らしい環境を整えてくれていた。面接の時にその話を聞き、慄いた私は彼女に本当に良いのか、と訊いてしまった事がある。その問いに対して、彼女は笑顔で「旦那の稼ぎで生活できるんですもの、私の収入はここにつぎ込もうと思って」と答えてくれた。剛胆な人なのだ。ちなみに最初、指導教授からこの教室の事を紹介された時には、彼女が自分の妻だとは一言も言わなかったし、彼女も彼が夫だとは言ってくれなかった。正式に採用され、晴れてこの教室の講師の一員となった時に、いたずらが成功した子供みたいな笑みを浮かべたオーナーに、「ミケちゃんの話は、芳野よしのから聞いてたわ、期待してるわよ」と彼と彼女の関係を教えられたのだ。そのお陰で、この教室での私のあだ名も学生時代と同じものとなってしまったのだけれど。

 三上圭子みかみけいこ、それが私の本名だ。名字と名前の頭文字一字ずつ取って、ミケ。教授までもがミケちゃんと呼んでたあの学校で、私をそう呼ばなかったのは一人だけだった。この季節になると、私はその人の事を思い出す。

 空いたレッスン室の窓の外では、冬の張りつめて透明な空気が、月を美しく見せている。暗いレッスン室で美しく浮かび上がる月を少しだけ眺め、照明のスイッチをオンにすれば、各室に備え付けにされている有名メーカーのロゴが入ったオーディオをつけ、持ち込んだCDをセットする。あるピアニストの新譜。ショパンのピアノ曲を中心に構成されたアルバムの演奏者は片桐飛鳥かたぎりあすか。かつての私が恋をした相手、その人だ。彼は海の向こうに留学し、今や日本じゃ「クラシック界の貴公子」なんて呼ばれる存在で。欧州を中心に活動している為か、一度も日本ではリサイタルを行っていないけれども彼の出したアルバムはCDショップで平積され、飛ぶように売れているのは知っている。クラシックの情報誌で何度か特集を組まれ、インタビュー記事を読んだこともある。日本でリサイタルをやらないのか、という質問に「ずっと日本でもやりたいと思ってるんですけど、なかなか機会がなくって」と答えていた。ネットでの噂レベルでは、来年は日本にくるのではないか、との情報が流れていたけれど、所詮噂のレベルだ。あまり信用していない。けれども、きっと私は、彼が日本で演奏するとなれば、それがもし離島での公演だけであったとしても、どんな手を使ってでも彼の音を聴きに行くのだろうな、と漠然と思っている。彼自身に恋をしてたのと同じかそれ以上に、今でも私は彼の奏でる音を愛しているのだから。オーディオから静かに流れるのは、練習曲作品十第三番。日本では別れの曲のタイトルで親しまれる、このアルバムの一曲目。この季節のこの曲は、否応なしに大学四年のあの頃を、思い出させてくれる。


 その日も、私は学内の練習室に籠もって延々とピアノを弾いていた。昼に練習室に入った筈なのに、気がつけば目の前の譜面が見えなくなるほど暗くなっていた。窓の外では月の光は冬の透明な空気を通り、完全に暗くなりきらない夕暮れの中で美しく輝いている。

 夕暮れの中の練習室で、昔からずっと、何度も何度も弾いていて指が曲を覚えてしまっている一番のお気に入りを奏でていた私が鍵盤から指を離せば、ガチャリと練習室のドアが開く。

「ドビュッシーが聴こえてきたから、三上さんだと思って」

 開けられたドアに立っていたのは、ふわふわとした癖毛が無造作に伸ばされた背の高い男性のシルエット。もう顔を確認しなくても、声でわかる。

「片桐君」

 声に出して彼の存在を確認すれば、イエスとの答えの代わりに灯される室内の明かり。明るくなった練習室のドアを閉めるのは、ふわりとした癖毛と、よれたセーターにワイシャツ、ジーンズ、そして片手でコートとマフラーを抱えた男性。間違いなく、片桐君だった。学内では基本ミケと呼ばれている私を、三上さんと呼ぶ唯一といっても良いその人は、いつもの柔らかな笑みをさらにふにゃりと崩して笑っていた。

「三上さんはドビュッシー好きだよね」

 更に言えば、さっき弾いてたの。いつも弾いてる。と彼は壁に立てかかられていたパイプ椅子をガチャリと鳴らして広げ、そこに腰掛ける。ちょっと寄っただけ、と言うわけではなさそうで。

「うん、はじめてこの曲弾いたときから好きなんだ。指慣らしとか、気分転換にはやっぱりこの曲じゃないと調子出なくって」

 散文的な音の滴が連なるような、美しい旋律が心地の良いその曲は、ベルガマスク組曲の中の一曲で、初めて弾いた頃は知らなかったけれども、笑顔の仮面を付け、心の中で涙を流すピエロの事を歌った曲である。ヴェルレーヌの詩をモチーフに作られたこの曲は、昔の私にとってはキラキラと美しい曲にしか聞こえなかったけれど、今の私には、悲しくも、美しい曲として響いてくる。その背景を知ることで、曲が変化していく瞬間というものが、私はたまらなく好きなのだ。

 小さな音を鳴らしパイプ椅子から立ち上がる片桐君に、席を譲って私は窓枠に腰掛ける。彼はたまに、行動を言語化する前に動き出す。4年間の大学生活でそこそこ長いつきあいになっていた私は、大体の行動は読めるようになっていた。恋は見つめること。私は4年間、彼を見つめていた。それこそ、その想いを言葉にして伝える事をせずに、静かに彼を見つめて、時折彼と歩む道が交差する、そんな穏やかな恋心を隠した友人関係を築いてきたのだ。きっと、この想いを言葉にしたところで、叶わぬのであれば、そうやって、静かに穏やかに、過ごしていたかった。

 片桐君が鍵盤に指を走らせ奏でるのは、さっきまで私が弾いていた曲の冒頭。穏やかな夜の海のような心地よく揺れる音符の滴に私は目を閉じる。彼の弾くピアノの音は、まるで海のようで。様々な生命をその中に包み込み、穏やかに波打つ海みたいに輝く音の粒。私は彼の弾くピアノの音が大好きだった。「ねぇ、三上さん」冒頭だけを弾いて鍵盤から指を離したらしい彼は、私に問いかける。「三上さんは就職、どうするの?」と。

「まだ、全然。色々受けてはいるんだけど、何となくで受けちゃダメだね。この業界のどっかで仕事したいなーとは思うんだけど、何がやりたいのか全然わからないの」

 困っちゃったよ、もう。と苦笑しつつ答えれば、「プロになる気はないんだ? コンクールの常連なのに」と重ねられる。

「んー、なれたら素敵だなぁ、とは思うけど。きっと素敵だって思ってるうちはなれないと思う。私がコンクール出るのはあの空気が好きだからってだけだし」

 逆に片桐君はコンクールから逃げてるよね、上手いのに。と付け足しながらも言葉を返すと、少しだけ思案するような間。そして彼は言葉を探しながら口を開く。

「三上さんの逆で、おれは苦手なんだ。コンクールってさ、結局は審査員が、その曲をどう解釈するか、でしょ? そこで否定されたら全部ダメ、みたいな空気がね、どうしても好きになれなくて」

 マイペースで飄々としている片桐君がそんな風に評価を気にしていたなんて思わなかった。言い訳のように「必要であれば出るけどね」と重ねられた言葉は違う人が聞けば、嫌味か。と取られかねない言葉だ。何せ、彼はたまにポンとコンクールに出てみれば、大抵上位に食い込んでくるのだから。コンクールが好きじゃないけれども、出れば上位をかっさらって行く片桐君と、コンクール会場の雰囲気が好きで、順位を気にしない癖にそこそこの順位に名を連ねる常連の私、端から見たらどっちも嫌味に見えるかもしれない。だけれども仕方がない、あのステージで、大勢の人間がいると言うのに、とても静かで広いホールの中、私と曲、曲と私、その二人きりになれる空気が、雰囲気が、私はどうしても愛おしいのだから。

「片桐君は、留学なんでしょう?」

 就活負け続け、お祈りを紙面で貰う度に高笑いしながらそれを破り捨てるという精神衛生上大変劣悪な生活をしている私はともかく、彼はスパーンと進路を決めていると思っていた。眼鏡の奥で静かな光を湛える碧い瞳を見つめてそう尋ねる。彼はその碧をゆっくりと細め、伏し目がちに笑みを浮かべる。悲しげな、もしくは困ったようなそんな顔をする彼に、訊いてはいけなかったかと不安が襲う。

「芳野さんには、薦められてる。母もかなり乗り気で、ついでに言えばパリには実父の家がある……念のためにだけど、願書はもう出してあるし、あとは受験するだけ、なんだよねぇ」

「これ以上無いくらいに、留学の足枷がない環境なのに、躊躇してる?」

 留学の是非を答えずに、留学に待ったをかけるものが何もない現状を答えた片桐君に、私はつい、その言葉の裏を考え、そして問う。片桐君ほどの人が、日本で埋もれるなんて、考えられなかったのだ。片桐君の音は、世界に聴かれるべき音だ。その問いを返すために言葉を考えるように、鍵盤をもてあそぶように、ぽろん、ぽろんと途切れがちに彼の脳内に散らばっているのであろう音符を鍵盤に落とし込んでいた。

「付き合っている人が、居てね」

 ぽろん、

「でもその人は、年上で、仕事があって、」

 ぽろん、

「きっと、離れる事になれば。それが最後だとおもう」

 その言葉を最後に、黙り込んだ片桐君と、口を開けなくなったかのように、窓枠に腰掛け、動き出せずにいる私。何せ、私は今しがた自らの問いによって、始まる事の無かった恋を終わらせてしまったのだ。失恋と言うにはあまりに呆気なく、あまりに唐突なそれに、息の仕方まで忘れてしまったみたく、私は固まった。年上で、仕事をしている、大人と付き合う片桐君が、急に遠い人に感じる。彼のその落ち着きと、大人びた雰囲気は、彼が付き合っている人によって作られたものなのだろうか。私の頭の中にある譜面の中で、音符の粒が散らばっていくような音がする。考えがまとまらなかった。沈黙は一体どれだけの間続いていたのだろうか。じっと黙って考え込んでしまっている片桐君より先に動いたのは、私だった。元々、この恋をどうこうしようだなんて、私は思っていなかったのだし、どうこうしようと思ったところで、私に勝算なんて、ひとつもないのだ。私は窓枠から腰を上げ、片桐君の隣に立ち、鍵盤をひとつだけ意志を込めた強さで叩く。

 叩いた音は、d1。その沈黙の中に、レはよく響いた。レを叩いたのに意味はない。けれども、その音は、この空間によく似合っていた。

「ねぇ、片桐君」

 いきなり一音だけを出した私を、目を丸くして見上げる椅子に座ったままの片桐君に、私はそう切り出した。

「きっとね、全てを手に入れるなんてこと、今の私たちにはできないよ」

 全てをその手に収めるには、私たちの手はまだ、小さすぎる。だって、まだ二十代も始まったばかりなのだ。

「でも、どちらかに固執して、どちらかを諦めるなんて、そんなことをするには、まだ若すぎるとも、思うの」

 だって、私たちってまだ学生なんだよ?そう言って笑って見せれば、驚いた顔をしていた片桐君は、力を抜いた、そんな笑みを見せてくれた。

「そっか」

 憑き物がおちたように、いつものふにゃりとした笑みを浮かべる片桐君に「そうだよ」と私も笑う。

 そっかぁー、と再び声に出した彼は、さっきの悲しそうな、困ったような伏し目ではなく、優しげな雰囲気を纏いながら、その瞳を細め、そっと十指を鍵盤の上へと置く。隣に立っていた私も、そっと後ろ――さっきまで腰掛けていた窓枠へと腰を下ろし、彼の指が動き始めるのを待つ。動き始めた十指が奏でるのは、ショパン。練習曲作品十、第三番。即ち、別れの曲。寂しくも美しいその旋律に身を任せて、外の空気に冷やされた窓ガラスに背中を預ける。片桐君が奏でる、海にも似たその旋律に身をまかせて、音の世界へと潜る。片桐君の音と、私。その瞬間、それだけがこの空間の全てだった。


「別れの曲だね」

 最後の一音を慈しむように慣らした片桐くんは、その両手をそっと鍵盤から離す。そして私は片桐君の音の海の中から水面へと浮かびあがった。

「うん、日本では〝別れ〟って単語が使われてるよね」

「西欧だと〝Tristesseトリステス〟だっけ。悲しみ」

「英語圏でも基本的には別れ、だけどね」

 片桐君は、いたずらっぽく笑いながら、言葉を続けた。

「フランスだと〝L'intimitéランティミテ〟親密とか、内密って呼ばれてる事もあるんだよ」

 その言葉に含みがあるのか、それとも、彼が住んでいた国のことを教えてくれただけなのか。失恋直後の私には、判別し難く、しかし自分の望み通りに解釈することも、できなかった。内心戸惑っていた私を見透かすような笑みを浮かべて、彼は更に言葉を重ねる。

「今のおれにとって、この曲は、今の世界との別れと同時に、新しい世界への支えになったよ」

 三上さんのおかげだ、と最上級の笑顔で話してくれた彼の姿を、私はきっと、死ぬまで忘れない。あの頃は本気でそう思っていたし、今でも私は忘れていないし忘れる気も、更々ない。


「もう暗いし、帰ろうか」

 女の子の一人歩きは危ないし、送るよ。と大学から徒歩圏内の、それでも少しだけ離れている私の住むアパートに彼は同行する、と言ってくれる。風がなく、暖房のついている室内から一歩外に出ると、夜の風が冷たく吹き付けてきた。都内とは言え繁華街からは少し離れた場所に位置するこの場所は、見上げれば少しだけは星が煌めいていて。冬の透明な空気が、星と月を、美しく魅せてくれていた。

「三上さん、それでよく寒くないね」

 私の格好はと言えば、昼間に家から出たままの格好だったおかげで、Tシャツにパーカー、そしてジーンズ。足下はまだまだ夏のままのスニーカーで。この土地で冬靴と言ってもそんなに雪も降らないし、と私は冬でも滅多なことが無い限りスニーカーで通していた。せめてもの救いはパーカーの裏地が起毛である事だろうか。

「ん、ちょっと寒いけど、私北国生まれだからへーき」

 地元で今の季節だなんて言ったらそれこそ雪に閉ざされる時期だろうし、そんな時期は大抵マイナス気温だ。これくらいの北風で、そんなに距離がないならばまぁ、我慢できないことはない。そんなことを思いながら彼に大丈夫だと返事をすれば、少し間を置いて、ふわり、と首周りに彼の巻いていたマフラーが回される。

「三上さん、ショートカットだから。首周りが寒そうだし」

 っていうか、見てるこっちが寒いよ。

 ロングヘアが残念なくらい似合わない私は、ここ数年さっぱりと纏まったショートヘアがトレードマークになっている。ふんわりと巻かれたそれからは、微かに彼のにおいがした。

「ありがと、洗って返せば良い?」

「別に洗わなくたって良いよ。思い出したときにでも返してくれれば」

 彼は、本当は男前な感じにコートでも貸せればよかったんだけど、おれも寒いから。パパに怒られちゃうかなーと笑いながら続ける。

「フランスの方の?」

 彼には父が二人居る。フランス人である、血のつながっている父親と、彼の母が再婚した、姓でつながった現在の父。数年前、片桐君はそれを何でもないように話してくれたのだ。

「そ、愛と恋の世界で生きてる方の」

 母さんを口説くために必死で日本語勉強した位、恋愛に情熱を注いる方。と付け足した。


 片桐君は黒いショート丈のトレンチを、私は淡いオレンジのパーカーに片桐君の白いマフラーを巻いて、月明かりと街灯に照らされた道をゆっくりと歩く。きっとテンポはレント・マ・ノン・トロッポ、緩やかに遅く。しかし、やりすぎないように。さっきの別れの曲のテンポだ。私のアパートまでの距離は、すぐ近くではないけれど、遠すぎる訳でもない。普通に歩けば、もう着いている時間だけれど、ゆっくりとしたテンポで歩けばまだ少しだけ、先だ。片桐君はどう考えているのかわからないけれど、私はその遅いテンポの分だけ、彼と歩けることが嬉しかった。失恋したばかりだけれども、好きなものは好きなのだから。どちらが主導してそのテンポで歩きだしたのかはお互いにきっと、わからない。だけれど、それが心地よかった。

「コンビニ寄ってこう」

 ポツポツと他愛もない話をしながら歩いている中で、そう言い出したのは片桐君だった。私の家の近くにあるコンビニの明かりが、誘蛾灯のように輝いていて、私たちは蛾よろしくそのコンビニへと足を踏み入れた。

「今日のお礼、何かおごるよ」

 お礼なんて言われる事、したっけなぁ。と思いながらもお言葉に甘えて、と私はレジ前に鎮座する肉まんを選ぶ。片桐君も気付けば多種多様になってしまった中華まんのケースからあんまんを選んでいた。私が小さい頃は肉まんとあんまんしか選択肢はなかったのに、最近はもうピザやらカレーやらと中華は一体どこへ行ってしまったのかとつっこみたくなる位に種類が増えている。ちなみに私は昔から肉まん一筋だ。かたぎりくんはあんまん一筋なのだろうか。それとも今日はあんまんの気分だったのか。私はついでにホットドリンクの棚からお茶を買い、片桐君も二つ分の中華まんの支払いを済ませてコンビニの外へ出る。

「ハイ、三上さんの分」

「ありがと」

 私の分、と肉まんを差し出した片桐君は、私がそれを受け取ると、自分の分であるあんまんにかじりつく。その隣で私も肉まんに口をつけ、自分で買った暖かいお茶で暖をとる。

「やっぱり寒かったんじゃないの?」

 お茶の存在を目敏く見つけた彼は、そう尋ねる。

「いやね、こういうのって食べる時水分欲しくなるじゃない、でも冷たいのはさすがに寒いでしょ? で、暖かいお茶買ったらやっぱり手とか暖めたくなるっていうか」

「そっか」

「それに、片桐君のマフラーあるからあったかいよ? 私、マフラーとか久しぶりに巻いたー」

 何シーズンか前に、どこかにマフラーを置き忘れて以来、私はマフラーを買ってなかったし、そもそもそんなにマフラーが必要と思うほど、寒くない気候だったおかげで、ここ数年本当にマフラーというものと縁がなかったのだ。それを聞いた片桐君は宇宙人を見るような目で私を見るのでだってね?と続ける。

「私の地元、雪国だよ? この時期なんて基本マイナスだし、朝は体感だと大抵マイナス10とか20の世界だもん」

 マイナスひと桁はあったかい、の世界に馴染みのない片桐君は信じられない、というような顔をしてこっちを見つめていた。

「凍え死んじゃいそうだ」

「まぁ、この格好だったらそうなるだろうね」

 お互い中華まんをぱくつきながら、そんな話をしていれば、不意に片桐君は「それ、あげるよ」と言い出す。それ、が指すのは私が巻いている彼のマフラーで。

「え、悪いよ」

「家にマフラー、まだあるし。使い古しでよければ貰って?」

 三上さんそのままにしといたら、そのうち風邪ひいてそうで怖いよ! と力説する片桐君に押されるまま、そのマフラーは私のものになってしまった。使い古しとは思えない、いや、使い込まれたからこそなのかもしれない肌触りの良い白いマフラーに手をやり、ありがとう。と、隣に立つ片桐君を見上げた。静かに笑みを湛える彼は、「三上さん、先生になりなよ」と唐突に言い出す。

「え、何、いきなり」

「帰り道にずっと言おうと思ってた。タイミングが掴めなくって」

 それにしたって唐突すぎる。どの文脈、どこを汲んで、その台詞に行き着いたのか。

「三上さんは、先生に向いてると思うよ」

 私は、私を見つめる片桐君の碧い瞳を見つめていた。

「でも、私教職とってないよ?」

「別に学校の先生とかじゃなくても良いんじゃない? 人に何かを教える、いや、人の背中を押すのが、三上さん上手だから」

 だから、先生。性格的には背中を押すというよりも蹴りあげるタイプだと思っていたから、片桐君の言葉は意外だった。

「私が、先生なんてできるのかな」

 先生なんてものは、もっと人間が出来ている人じゃないと出来ないのでは、と思う私は小さく呟いてしまう。

「大丈夫、絶対」

 だって、さっき背中を押して貰ったおれが言うんだもん。と、片桐君こそ人生の師であるような笑みで、そう言ってくれた。


「あれっ、ミケちゃんまだ居たの?」

 その言葉で、過去に想いを馳せていた私は現実に引き戻された。

「美和子さん」

 私を現実に引き戻したのは、この教室の事務を一手に担う室長の美和子さんで。彼女は私の居るレッスン室のドアを開け、驚いた顔のままでそこに立っていた。

「もう店仕舞いの時間よ、電気がついてたから消し忘れかと思ったら、ミケちゃんが居たのね」

 嘘、と思って腕時計を確認すれば、時刻はもう夜遅い時間で。確かにレッスン所か、教師陣の事務作業も終わり、教室自体を閉めてしまうような時間だった。ごめんなさい、と彼女に謝り、横に置いていたコート類と鞄を抱える。

「何の音もしてなかったけど、何かあったの?」

 ミケちゃんが居るなら、いつもはずっとピアノ弾いてるし。と美和子さんは首を傾げる。

「あっ、CD聴いてたんですよ」

 そのCDは、だいぶ前に全トラックの再生を終えていたようで、私は急いでオーディオからそれを取り出しジャケットを美和子さんに見せる。

「それ、私も買ったやつ。良いよねー〝クラシック界の貴公子〟片桐飛鳥!」

 ルックスも良いしーと、面食いの美和子さんはうんうん、と一人頷く。「彼、私と同じ学校だったんですよ」

「へぇ、話したこととかあるんだ?」

「まぁ、学年も同じで、ピアノ科でしたし」

 えー! いいなぁ、と羨ましがる彼女に思わずクスリと噴き、それを「良いじゃないの! ミーハーでもっ!」と笑い混じりの調子でつっこまれる。

「貴公子の音楽に浸る続きはお互い家でやりましょ、閉めるわよー」

 そうと決まったら、私も早く家帰って聴き直そっと、とルンルン調子で私をレッスン室から出す美和子さんに「お疲れさまですー」と声をかけ、私は職場であるピアノ教室を出て家へと向かう。パーカーではなく、ベージュのトレンチを着て、首にはあの時に片桐君にもらった白いマフラーを巻いた姿で。

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